約束03
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 四人で和やかに食事をしたあと、浩介たちは会社に戻ると言うので駅前まで見送りそこで別れた。時計を見れば時刻は十三時を回っている。さてどうしようかと考えて、今日の予定を思い出す。

 店で使っている珈琲豆。それを扱っているところに、新しい商品が増えたのでどうだろうかと話をもらっていた。今日その店に行こうと思っていたのだった。時間は特別指定していなかったが、これから行くことを伝えようと携帯電話を取り出す。
 しかし電話帳で連絡先を開こうとしたところで着信を告げるメロディが流れた。登録してある番号からの着信ではなかったが、なんとなく心当たりがあったので迷わず出た。相手は穏やかな声音の女性で、用件は予想していた通りだった。

「ありがとうございます。今日中に受け取りに行くのでよろしくお願いします」

「では、お越しをお待ちしております」

 丁寧な声を聞き、電話を切ってからふと思いついたようにメッセンジャーアプリを開く。そしていまごろは仕事中だろう佐樹さんに向けて食事の誘いをしてみた。すると返事が来るのはまだあとかと思っていたのに、メッセージはすぐ既読になる。
 普段からそれほど携帯電話を触っているような人ではないので、たまたま携帯を開いていたのだろう。しばらくすると着信音が響く。

「もしもし、どうしたんですか?」

「ああ、うん」

「今日は忙しいですか? もし無理なら構いませんよ」

「いや、行けないわけじゃないんだけど」

 なんとなく歯切れの悪い返事に首を傾げてしまう。いつもなら予定があればあると言ってくれるのに、それとはまた違った雰囲気だ。なにやら電話口の向こうで悩んでいるような感じがする。小さく唸るその声を聞きながら返事を待っていると、ためらいがちに言葉を紡いだ。

「ちょっと約束があって行かなくちゃいけない場所があるんだけど」

「先の約束を優先してくれていいですよ」

「んー、お前も行く?」

「え? 俺が行っても問題ないんですか?」

 思いがけない言葉が返ってきて、少し戸惑ってしまった。けれど彼はまた小さく唸りながらも問題はないと言う。どうしようかと悩んだが、佐樹さんからこんなことを言い出すくらいだから、なにか理由があるのだろう。たぶんこれはついて行ったほうがいい。

「じゃあ、駅に十八時でいいか?」

「大丈夫です」

「うん、じゃあ、またあとでな」

 彼からの着信が途切れるとポケットに入れていたカードを取り出す。いつでもいいと言う言葉に甘えて、遠慮なく利用させてもらうことにした。彼と外で食事するのはいつでも大丈夫というわけでもない。
 自分が休みでも彼の仕事が遅い日も多くある。いまは春休みだけど、新学期を控えてなにかと忙しい時期だろう。思い立った時が吉日だ。すぐさま電話をかけて予約を取り付ける。
 約束の時間までまだ余裕はあるが、予定は早めに済ませてしまおうと足早に駅の中へと足を進めた。

 隣駅にある珈琲専門店に向かえば、話し好きな店主は俺を待ちかねていたようだった。新しい珈琲をいくつか試飲をさせてもらい、あれこれと話を聞いてブレンドを新しいものに切り替えることに決めた。
 店ではモカとブレンドを出しているが、ここの珈琲はうちでも評判が良くて、いつも仕入れ先を聞かれる。その伝でやってくる人も多いようで、客足が伸びたと礼を言われることも多い。

「これ、少し多めに入れてもらっていいですか。佐樹さんが好きそうだから家の分も欲しいです」

「そうかい、佐樹くんの口に合うといいな。そういえば彼の好きな洋菓子屋の新作が、すごくおいしかったってうちの奥さんが言ってたよ。お土産にしてあげたら?」

「そうなんですか。じゃあ、来週にでも寄ってみます」

「あ、今夜はもしかして出掛けるのかい?」

「久しぶりに外で食事でもしようかと思って」

「そうか、それはいいね。たまにはゆっくり楽しんでおいで。じゃあ、明日の午後には納品できるように手配しておくよ」

 にこにこと穏やかな笑みを浮かべる店主は、言葉にして伝えてはいないが俺と佐樹さんの関係については気づいているようだった。それでも出会った時と変わらない付き合いをしてくれる。
 いつも自分の周りは否定的な人が少ないから忘れがちになるが、こういうことに関しては本当に周りの人たちに感謝をしなければと思う。彼らのおかげであの人を悲しませることにならずに済んでいる。

「そういえば奥さんは順調ですか?」

「うん、つわりがなくなったらなんだか元気が有り余ってるみたいで、いまも近所のお店に配達に行っちゃった。女の人はすごいねぇ。僕は心配でヒヤヒヤしてるんだけど」

「そうなんですか。もうだいぶお腹が大きかったですよね。でも待ち遠しいですね」

「待ち遠しいよ。もう名前も決めてあるんだ」

 ふやけたような笑みを浮かべて店主は至極幸せそうな顔をする。子供ができたと知った時も大層喜んでいたが、日ごとにその気持ちが大きくなっているようだ。いつも二人は仲睦まじい様子で、見ているこっちまで笑みが移ってしまいそうになる。
 相手だけじゃなく傍にいる人にまで幸せを分け与えられる関係はいいなと思う。佐樹さんともそういう関係が築けたらいいな、なんて考えてしまった。

 しかしまずそのために俺は、少し気の短いところを改善しなければならないだろう。まだまだ大人になりきれなくて、すぐに苛ついてしまう。
 なるべくあの人の前ではそれを出さないようにはしているけど、なかなかそれを改めるのが難しい。元来の性格によるものだからかもしれないが。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

「うん、任せて。長いこと引き留めてごめんね。いってらっしゃい」

 のんびりと振られた手に会釈を返して、長居した店をあとにする。時間はだいぶ過ぎてもう少しで十五時になるところだ。道すがら出先から帰った奥さんに会い、挨拶を交わしてまた駅へと向かった。
 次に向かう場所はここから三十分くらいだろうか。用事を済ませて待ち合わせの駅へ向かってもだいぶ余裕がありそうだ。だが時間が余ったらとりあえずどこかのカフェで暇を潰せばいいかと電車に乗り込んだ。

「結局、今日も一日の半分仕事してたな」

 これと言って趣味らしい趣味もない俺は、休みの日も仕事に関わってばかりいる。趣味が仕事になってしまったとも言えるので、余暇ができると正直身を持て余す。学生時代はバイトと勉強で手一杯だったし、卒業してからは仕事を覚えることに夢中だった。
 だからいまだに時間の過ごし方があまりわからない。こういうところは本当につまらない人間だなと思う。けれど毎日なにかが不足しているとは思わない。仕事は楽しいし、佐樹さんと過ごす時間があればそれだけで幸せだとも思う。
 しかし時雨にはもっと気持ちに余裕を持ったほうがいいと言われたことがあるので、やっぱりどこか欠けているのかもしれない。

 ここ数年でマシにはなってきたが、人の関わりが薄かったのも原因なのだろうか。深く人と付き合うことをあまりして来なかった。背伸びをして大人の中で過ごしてきて、なんとなくそれに流されるまま来てしまった。
 身近な歳の近い人間と言えば弥彦とあずみくらいだが、あの二人は友人と言うには少し違う。そう考えるとそれ以外は峰岸くらいしかいない。でもあいつも友人かと言うと関係性は微妙だ。
 この歳になってようやく気づいたが、プライベートに気安く過ごせる人がほとんどいない。俺の中身は随分と昔から、佐樹さん以上のものが見当たらないのだ。
 しかしだからと言っていまさら生き方を変えたところで、それほど大きく変化があるとは思えない。きっとこんなことを話したら、あずみや峰岸には笑われそうな気がする。

「いまごろ気づいたのかって言われそうだな」

 自分は年相応の無邪気さが足りなくて、常に物事に冷めた部分がある。昔あの人に好きなものや好きな場所はなんだとそう聞かれた時、考えてもなにも浮かばなくて、随分と自分の中は空っぽなんだなと思った。
 まっすぐで素直な彼とひねくれた臆病な俺。それはなんだか噛み合うことがない気がして不安に感じたこともある。それでもあの人が、佐樹さんが繕うことなく愛情を示してくれるから、俺はその想いに救われてきた。
 でもあの人はいままでの恋愛、うまくいかないことが多かったと言っていた。俺からしてみれば、あんなにも純粋に人を愛せる人なのに、と少し驚いてしまう。けれど彼の性格を考えるとなんとなくわかるような気もした。

 佐樹さんは自分に対して無関心なところがある。自分が傷ついたり、傷つけられたりしてもあまり感情的になることがない。相手を責めることもないし、それをそのまま受け止めてしまう。
 だからそのせいで気持ちが曖昧に映ってしまうこともあるのかもしれない。自分のことをなおざりにして相手を一番に優先する。それは彼の優しさから来るものだが、ずっとそれが続くとあまり物事を深く考えていないんじゃないかと疑念が湧くのだろう。
 あの人は不器用で誤解されやすいのだと思う。歴代の彼女たちは俺から言わせれば残念な人たちだ。佐樹さんの純粋な愛情に気がつかないなんて、なんて馬鹿なんだろうとさえ思ってしまう。

 結局は自分のことしか考えていなかったんじゃないか。あの人はちゃんと愛情を向けて愛してあげればちゃんとそれに応えてくれる。なのにそれをおろそかにしたんだ。
 でもそのおかげでいまがあることは間違いない。しかしいまでも時折この道は彼にとって間違いなんじゃないかと、思い悩むこともある。それでもどうしても、俺は佐樹さんと一緒でなければ生きていけなかった。

 四年離れてみて、それをひどく感じた。家族は優しいし、仕事は夢中になれたし、やりがいも感じて充実もしていた。けれどふと一人になった時に思うのだ。あの人を傍で感じたい、会いたい、触れたいと心が揺れた。
 だから早くに電話やメールをやめて良かったと思う。情けない話だが、そうでなければ俺は曾祖母が亡くなったあと、我慢できずに日本へ帰っていたかもしれない。きっと気持ちばかりが募ってうまくいかなかった。

 その点、手紙は落ち着いて振り返ることができたし、お互い便せん四、五枚くらいは書き綴るほどだったから、なんとなく離れているあいだも佐樹さんを感じられた。たわいもないことを連ねたそれはたぶん日記に近い。
 その手紙は一通も欠けることなくいまも大事に取ってある。たまに読み返して、あの頃の初心を思い返すのだ。離れていても心は傍にある。お互いに頑張ろうと言ってくれた言葉。彼はいつだって俺の道を照らしてくれる光だ。

「優哉!」

 遠くから聞こえてきた声に顔を上げると、人波の向こうに彼の姿を見つける。

「佐樹さん、お疲れさま」

 夕方になり人が増えた改札口付近は行き交う人たちでごった返す。しかしそんな人混みでも彼の姿は不思議とすぐに目についてしまう。無意識にその姿を探しているからだろうか。
 人波を縫いながらこちらへ足早にやってくる佐樹さんに自然と笑みが浮かんだ。目の前でこちらを見上げる視線をまっすぐに見つめ返せば、ほころぶような柔らかい笑みを返される。

「ちょっと待たせちゃったな」

「いえ、平気ですよ」

「じゃあ、行こうか」

 促されるままに改札を抜けると、彼は普段使っている電車の反対方向のホームへ向かう。エスカレーターで上がり、ホームへついたらちょうど電車が滑り込んできた。足早にそれに乗り込んで一息つくと、佐樹さんは少しそわそわした様子でこちらを振り返る。
 そんな様子に首を傾げてみせれば、焦げ茶色の瞳がじっとこちらを見つめてくる。

「佐樹さん、どうしたの?」

「あ、うん。えっと、今日の予定どうしようかと思ったんだけど。前々から約束してて、断るのも悪いし。それに一度は優哉に会わせておきたいなって思って。あ、たぶんそんなに時間はかからないと思うから」

 彼が俺に会わせたい人。正直言うとそれはさっぱり見当もつかない。佐樹さんの友人知人にはまだ会ったことがないが、いまは必要に迫られる状況でもない気がする。それでも俺に会わせておきたいというのだから、少なからず俺に関係があるのだろうか。
 予想もつかないまま電車はどんどんと進んでいき、いつの間にか見覚えのある街並みが車窓から見えた。

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