約束06
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 いつも彼は隣で優しく笑う。その笑みに安心してしまうけど、その内側にある感情を時々見落としていまいそうにもなる。だから時折こぼれる小さな本音を聞くたびにはっとさせられた。
 彼は自分よりもずっと大人だから、感情のままに我がままを言ってくれることがほとんどない。我慢をさせているなと感じることもある。それでもなにも言わずに彼は俺を抱きしめてくれた。だからもっと俺はこの人を大切にしてあげなければいけないなと思う。

「そういえば、今日は仕事かなにかだったのか?」

「え?」

 二人並んで電車に揺られていると、ふいに佐樹さんがこちらを振り向いた。じっと俺を見つめる視線に首を傾げれば、指先を向けられる。

「あ、ほら。休みの日はお前いつも眼鏡だろ。今日はコンタクトしてるし」

「ああ、そういうことか。朝早くに電話が来たでしょう? 急に店の取材が入ることになって、それに借り出されてきました」

「へぇ、そういうの初めてだよな。また忙しくなりそうだな」

「ですね。とは言っても限界があるんですけど」

 苦笑いを浮かべた俺に佐樹さんはひどく心配そうな顔をする。いまでもありがたいことに昼のランチタイムなどは満席になることも多い。来店が重なると厨房もホールも息つく間がないくらいだ。彼の心配はそれをよく知っているからだろう。
 浩介は迷惑はかけないと言っていたが、まったく反応がないと言うことはないはずだ。彼が来てくれる日に、忙しくて気を遣わせるだなんてことにならなければいいけど。いや、それ以前に遠慮して来るのをやめてしまいそうな気もする。
 おいしそうにご飯を食べる姿を見るのが癒やしだったのに、それを取り上げられるのはちょっと癪だなと思った。

「そうだ。今度新しい珈琲豆を入れることにしたんですよ。前のブレンドよりおいしかったので、家用に少し多めに頼みました。明日持って帰りますね」

「うん、あそこの珈琲はほんとおいしいよな。楽しみにしてる」

 やんわりと微笑んだその顔が可愛くて、こんな場所でなかったら抱きしめているのに、なんて思ってしまった。昔よりは理性を繋ぐ糸も強くはなったが、それでも彼を前にするとそれも随分と緩みがちだ。
 混雑した電車の中で指を繋いで胸を躍らせていた頃を思い出す。まだ恋に浮かれていて、目の前の彼しか見えていなかった頃だ。でもその頃といま、彼に対する気持ちはそれほど変化していないと思う。

 それどころか以前よりもっと彼のことが愛おしくなった。こうして傍にいられるようになってまだそんなに経ってはいないから、毎日が新鮮で毎日が色鮮やかだ。
 お互い忙しくて朝晩くらいしか顔を合わせられないけど、それでも同じ場所に帰り、毎朝起きると傍に彼がいる、そんな日常がたまらない。

「佐樹さん、少し疲れてる?」

 まっすぐ前を向いていた彼の横顔を見て、俺は少し顔をしかめてしまった。それほどひどくやつれているわけではないが、なんとなくいつもより疲労の色が濃い印象がある。佐樹さんは色が白いからこういう明るい場所に出ると、顔色が良くないことがすぐにわかってしまう。

「え? あー、んー、まあ、いまの時期はなにかと慌ただしいからな」

 少し驚いたように目を瞬かせた彼は取り繕うように笑う。その表情に思わず手を伸ばしそうになったが、いまいる場所を思い出しそれは思いとどまって手を引いた。
 今年の春からは就職、進学を控えている三年を受け持つはずだ。気の抜けない一年になるだろうから、その準備に追われて疲れていても当然だ。あまり気にせず約束を取り付けてしまったが、もう少し落ち着いてから誘ったほうが良かっただろうか。

「いま少し後悔しただろ。平気だぞ。授業がないいまのほうがまだマシだから。それに僕はほかに顧問とかもしていないしな」

 なだめるように背中を叩かれて、佐樹さんの顔をマジマジと見つめ返してしまう。そんなにいま俺はわかりやすい顔をしていたのか。

「優哉のその不安げな顔はわかりやすい。何度も見てきたからな。あんまり僕に気を使いすぎるなよ。お前のその顔に弱いんだ」

 そういえば、昔から彼は俺がなにかを飲み込もうとするたびに手を伸ばしてくれた。我慢をするな、ちゃんと吐き出せと言ってくれる。当時は彼の傍にいられることだけがすべてだったから、自分の感情なんてなくしてもいいなんて考えていた。
 けどそれは自分勝手だったのかもしれない。佐樹さんのことを本当に思うなら、言葉にしてあげるべきだった。いつだって不安は相手に伝染するものだ。でも俺は不器用すぎて、いまだにそれがうまくできない。

「優哉、駅どこ?」

「え? ああ、次ですね」

「そっか、あんまり降りたことない駅だ」

 窓の外へ視線を向けた彼につられてその先を見れば、電車は次第に減速してホームに止まった。人の流れに沿いながら降りた駅は、俺自身もそんなに来たことのない場所だ。
 カフェや雑貨、宝飾店やアパレルの店が駅前に建ち並ぶ街で、あまり若い子たちが集まるような場所ではないと思う。どの店も落ち着いた雰囲気があり、街も行き交う人もそれほど賑やかしい印象はない。

「ここ知ってるぞ。結婚記念日に連れて行ってもらったって話してた先生が、随分と予約が取れない店だって言ってた」

「そうらしいですね。今回は仕事の報酬代わりに紹介してもらいました」

「料理はどれ食べてもおいしいんだって、デザートも種類豊富で目移りしたって言ってた」

 並木道の大きな通りを抜けて、ざわめきが遠ざかる横道に少しそれる。裏通りを進んだ先に、目的の場所が入っている高層の商業ビルがあった。店の名前が書かれた看板を指させば、佐樹さんは声を上げて驚きをあらわにする。
 彼が知っているのはまったくの想定外だったが、評判がいい店なのは間違いないようだ。エレベーターで十五階まで上がると、そこは絨毯の敷き詰められた広いフロアになっていて、四軒ほど店が入っているようだった。

 しかしどの店も予約制なのか人が並んでいる様子はなく、柔らかな光に照らされているフロア内はとても静かだ。どれも覚えのある店名だったので、おそらく有名どころの店を集めているのだろう。
 フロアの突き当たりにあるレストラン・ナヴィルドアにつくと、恭しく出迎えてくれた店員に浩介から預かったカードを差し出す。するとますます丁寧に頭を下げて、店の奥まで案内をしてくれた。

「うわー、眺めがいいな」

 案内された個室の席に向かい合わせに座ると、佐樹さんは目をキラキラとさせながら窓の外を見つめた。日が沈んだ外の景色は街の明かりが広がっている。あまりほかに高い建物が多くないので、目の前を遮るものがない。
 照明が少し落とされた室内から見る夜景は綺麗なものだ。しかし外の眺めも目を惹くが、通された個室もしっかりと壁を一枚挟んだ作りで、隣の声や周囲のざわめきなどはほとんど聞こえない。
 部屋の出入り口には長いカーテンが引かれ、外から中を覗くこともできなくて完全なる個室だ。

「優哉は僕を気にせず飲んでもいいぞ」

「じゃあ、少しだけ」

 二人でメニューを眺めて何品かチョイスする。お互いそれほど量を食べるわけではないので、店員に確認しながら注文した。佐樹さんにはデザートも欠かせないのでそれは忘れずに頼む。おすすめのワインを頼んだあとは、料理が出てくるまでのんびりと過ごした。

「そういや、最近またちょっと体重が増えた。お前のご飯がおいしすぎる」

「佐樹さんはほっとくとすぐ痩せてしまうから、ちょっとくらい増えても大したことないですよ」

「先生方にも血色が良くなったって言われた。そんなに僕は不健康そうだろうか」

「痩せすぎってことはないけど、元々が華奢だからちょっと心配にはなるかもしれないですね。でも最近は顔色はすごくいいですよ」

 ぱっと見た感じ線が細いから佐樹さんは第一印象が儚げに見える。でも実際の彼に触れて感じるところは、芯が強くて大らかさがある、かなり男前な性格だ。自分は平凡でなんの取り柄もない、なんて言うけど、彼の人柄に惹かれる人は多い。

「筋トレとかしても僕はあんまり筋肉とかつかないんだよな」

「体質でしょうね。でも体力がないというわけでもないから、問題ないと思いますけど」

「お前はいいよな。毎日トレーニングしてるわけでもないのに筋肉がついてるし、スタイルがいいし」

「まあ、なにもしてないわけじゃないですけどね。佐樹さんにがっかりされないように頑張ってます」

「そっか、でもお前が太っても痩せても好きだけどな。まあ、いまが一番好きなのは間違いないけど」

 当たり前みたいな顔をしてそんなことを言うから、こっちのほうが恥ずかしくなってくる。思わず目をそらしたら不思議そうに首を傾げられた。いま自分がいかに重要なことを言っているのか、それに気づいていないのだろう。相変わらず彼の無自覚さにはしてやられる。

「優哉は昔から背が高いけど、ひょろっとした印象はないな。でも初めて会った時はまだ少しだけ少年らしさがあった気がする。ユウだった頃は一番大人びてたな。絶対大学生くらいだと思ったし、入試の時に会ってすごいびっくりしたのはいまでも覚えてる。いまは見た目が年齢に追いついた感じだな」

「佐樹さんもあまり変わらないですね。あの頃からあんまり年をとってないような気がします。見た目の印象より落ち着いているからかな?」

「そうか? あんまり貫禄ないぞ」

「そんなことないですよ。見た目は若いけど、先生をしている時の佐樹さんはすごく大人だな、格好いいなって思います」

 顔はどちらかと言えば幼いし、時々少しぼんやりしたところも見せる。それでも俺が知っている同年代の人と比べると、普段の佐樹さんは冷静で浮ついたところがほとんどないと思う。
 でも他人に隙を見せずになんでもない顔をして笑うけど、本当の彼はひどく繊細で心が脆い人だ。自分に無関心なのは、その心を繕っているからではないだろうか。弱さを見せまいとして蓋をしている。きっとそれに自分でも気づいていないのだと思う。

「優哉のほうが大人びて見えるけどな」

「俺の場合はそう見えるだけですよ。正直、まだまだだなって思います。うまくできないことも多くて、いつも反省ばかりしてる」

「お前は思っている以上に大人だと思うぞ。そうだな、優哉の第一印象は随分と子供らしくない目をした子、だな。こんな悲しい目をしなくちゃいけないその環境に胸が痛くなった」

「俺が佐樹さんを初めて見た時の印象は、萎れた花のようだったよ」

 初めて見た彼は本当にいまにも消えてしまいそうなほどだった。心の芯がポッキリと折れて、立ち上がれないほどに打ちひしがれていた。あれが彼の心をむき出しにしたまっさらな状態だったのではないかと感じる。
 あの姿を見た瞬間、俺の心はまっすぐと彼に引き寄せられて、目が離せなくなってしまった。病院の薄暗い待合室で、肩を震わせて泣いていた横顔はいまでも時折思い出す。
 どうしていまこの手で目の前の人を抱きしめてあげられないのだろうと、ひどくもどかしい気持ちになった。

「見ていて俺もすごく胸が痛くなりました。それと同時に、この人を守ってあげたい、この人の傷に寄り添いたいって思った。だけどもう会えないかもしれないって気づいて、すごく辛くて、胸が苦しくてたまらなかったです。でも再会できて、ああまだ俺にもいいことあるんだなって思いました。ただあれはかなり肝を冷やしたけど」

「うん、僕も正直びっくりした」

 あの雨の晩にあそこの通りを歩いていたのは本当に偶然だった。誕生日祝いをしてやるからと奈智さんに連れ出されたその帰り道だ。普段だったらその道を通らずに裏通りを歩いていたはずなのに、なぜだかその日だけは表通りに足が向いた。
 でもそこで彼を見つけた時は心臓が止まりそうになった。車が行き交う中にふらふらと車道に歩いて行く後ろ姿に目を疑った。クラクションが鳴り響いて、彼の身体すれすれを車が通り過ぎていき、いつ車に接触するかと気が気ではなかった。

 気がつけば身体が動いていて、自分も慌ただしく車道に飛び出していた。ぼんやりと立ち尽くす身体を抱きしめて、あまりにも華奢な身体に抱きしめた手が震えたのを覚えてる。
 そしてこの身体にどれほどのものを背負ってきたんだろうと、そう思うと胸が抉られるような痛みを感じた。俺だったらこんなに悲しませたりしないのに、なんて勝手なことも思っていた。
 でも結局は、ずっと傍にいさせて欲しいと言っておきながら、彼の傍を離れて一人にしてしまった。だからもう離れたくないと言った彼の言葉は、たぶん一生忘れないと思う。

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