末候*麦秋至(むぎのときいたる)
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 この歳になって、指切りをすることがあるなんて思いもしなかった。目の前で結ばれた小指と小指。ぶんぶんと縦に振られるそれを暁治は呆れたような目で見つめてしまった。

「ゆ~びきりげんまん、うっそついたら針千本の~ますっ」

 どこ間延びしたような歌声は小さな子供のように思える。だがしかし、目の前で嬉々とした表情を見せているのは男子高校生だ。今年の春に二年に上がったところなので十六、七ほどか。
 子供と言えば子供だが、本気で指切りの約束を疑っていないような顔をしている。こんなのただの口約束だろう、そう思うものの、それを暁治は最後まで見届けてしまった。

「じゃあ、はるっ、約束ね! 次は絶対にお店で食べるからね!」

「ああ、はいはい。別に家でも焼くんだから、どこで食べても一緒だろう」

「全然違うよ! お店のあの雰囲気の中でじゅうじゅう焼いて食べるのが美味しいんだよ!」

 両手を握りしめて力説しているが、その中身は大した内容ではなかった。仕入れた牛肉を店の鉄板で焼くか、家のホットプレートで焼くかの違いだ。
 初給料が出たあとの休日。たまに上手いものでも食べようと、少しだけ暁治は奮発した。それを買った精肉店の隣がお好み焼き屋で、持ち寄りでも焼いていいらしい。そこでのんびり食べて帰ろうと、朱嶺が突然言い出したのが十五分くらい前の話だ。

「あっ! ほら、お前が駄々こねてるあいだにバス、行っちゃったじゃないか」

「僕はねぇ、豚玉と海鮮焼きと、あとお肉も食べたい」

「次はこんないい肉、買わないからな。店にあるメニューにしておけ。はあ、仕方ない。家まで歩くぞ」

 五月も終わりになると気温が高い日も続くが、夕刻になると風が涼やかだった。バスのひと区間、のんびり歩いても二十分程度だろう。それほどなら肉にも影響はないはずだ。
 次のバスを三十分待つよりも得策だと暁治は停留所を背に歩き出す。ひとしきり食べたいものを上げた朱嶺は、距離が開くと慌ただしく後ろから駆けてきた。そしてなにを思ったのか、腕を伸ばし腰周りに抱きついてくる。

「な、なんだよ、いきなり」

「んふふ、なんかやっぱり最近すごく楽しいな」

「……ふぅん」

「ご飯が美味しいし、よく食べよく眠れる感じで」

「お前が食べなくて眠れないなんてあるのか? 繊細さは……ないとは、言わないけど」

「失礼しちゃうな。ちょっとはあったよ」

 貼り付いた背中から離れて、彼は少しばかり唇を尖らせながら隣に並んだ。夕暮れの中に見える横顔はまた愁いを帯びる。遠くを眺めて、なにかを思い巡らせて、それからゆっくりと振り向く。
 自分を見つめている視線に気づいたのか、寂しげな表情はすぐに明るい笑顔に変わった。そして嬉しそうに目を細めて、夕陽に手をかざす。

「お日様が真っ赤だね。明日も晴れかな」

「どうだろうな」

 陽に透けた隣にある柔らかそうな髪のほうが、よほど真っ赤だ。そんなことを思いながら、暁治は曖昧に相づちを打った。
 あの人と一緒に歩いた時間は、どれほどのものだったのか。時々ふっと思い出すようにどこかに思い馳せる、そんな表情を幾度となく目にした。最近では随分減ったけれど、きっと美味しいご飯なんかより、暁治なんかより、ずっと好き――だったのだろう。
 いつも彼が比べるのは、いまはもういないあの人。そのことに最近ようやく気づき始めた。

「お前は、さ。……さよならは言えたのか」

「え?」

 唐突な問いかけに、笑っていた顔がひどく驚いたものに変わった。瞳が大きく瞬きをして、小さく息を飲んだのがわかる。それでもじっと見返せば、見上げてくる目はやんわりと和らげられた。

「うん、言った。みんなで、言ったよ。またどこかで会おうねって」

「そうか、それならよかった」

「人って、すごく儚いよね」

「なんだか、随分と時間を歩いてきたみたいに言うんだな」

「あ、……なんて言うかさ。元気だって思ってた人でも、いなくなる時はあっという間だねって意味だよ」

 それはまるで取って付けたような言い訳だったけれど、深く追求する気にもならず、暁治はそのまま前を向いた。そして遠くを見つめて、黄金色の景色に目を留める。初夏の風に揺れる穂は茜色の中で重たげに揺れていた。
 普段はバスでなんとなく通り過ぎてしまう風景。歩いていると、広々とした田んぼがやけに壮大に見えてしまう。

「米を作っていないあいだは麦か。二毛作、だっけ」

「そうそう、ゆーゆが持ってきてくれる麦焼酎がこれまた格別でね」

「は? なにが旨いって?」

「む、麦茶! そうそう、麦茶がね」

 そろそろこの男の飲酒は誤魔化しが利かないところではあるが、やはりここは突っ込まずにはいられない。じとりと暁治が目を細めると、手を上げ下げしながら言葉を繕い始めた。
 そういったことに緩いのは田舎だからなのか――そんなことを考えるが、厳しく言い含めておかないとあとから問題になるのは困る。しかしなにかにつけて甘酒を出される暁治は少々不満もあった。

「お前が成人したら一緒に飲んでやるから、いまはやめておけ。伸びかけだろう身長が縮むぞ」

「……身長、身長かぁ。はるは結構背が高いもんね。遺伝かな? やっぱり背が高い男のほうが格好いい?」

「なに? 気にしてた? お前は平均くらいだし、そこまで気にするほどじゃないと思うけど」

「このくらいのほうが小回りきいて良かったけど。ちょっと考えてみようかな」

「え? どういう意味だ?」

「ううん、なんでもない! あー、なんかお腹空いてきちゃったぁ」

 真剣に悩み込んでいたかと思えば、ぱっと顔を上げて、朱嶺はなんの前触れもなく暁治の手をむんずと掴む。そのまま足早に歩み始めた背中を慌てて追いかけると、うしうっし、美味しい、美味しいなぁと、よくわからない歌を歌い始めた。

「お前の機嫌のスイッチどこにあるんだよ。さっきは店じゃないと雰囲気が出ないって言ってたのに」

「なんかよくわかんないけど、はるといるとウキウキしちゃう。はると食べるご飯はなんでも美味しいかも」

「……ああ、そう」

 スキップでも踏みそうな勢いで繋いだ手をぶらぶら振られて、驚きを通り越して呆れて、それも通り過ぎるとなんだかおかしい気分になる。ため息交じりに呟きながらも、口の端が持ち上がるような感覚。
 毎日毎日、振り回されるのもだいぶ慣れてきた。賑やかな声が聞こえないと随分と家が静まり返るような心地になる。人間の慣れというものは恐ろしいものだ。そんなこと思い、ふっと暁治は息を吐くように笑った。

「お肉は特製の焼き肉タレで食べる?」

「なに言ってんだよ。せっかくのいい肉なんだから、シンプルに塩こしょうだ」

「ピリって辛い、あのタレが美味しいのに! 半々にしよう」

「んー、いや、んー、仕方ないな」

 母親直伝の焼き肉のタレは、ご飯に染みたそれだけでも食が進む代物だった。素材の旨味を味わうもよし、タレと濃厚に味わうもよし。ここは提案を受け入れておくべきだろう。渋々といったていで暁治は頷いて見せた。

「やったね! ご飯炊いてきた?」

「炊いてきた。……けど、三合で足りるか?」

「じゃあ、追い白米だね」

「追加、するか。明日の朝の分がないしな」

 男二人も集まると米が本当によくなくなる。いまもお米の支給をありがたく受け取っているので、稲荷神社には足を向けて眠れない。
 けれどご飯を美味しく食べられているいまは、以前に比べたらずっと、元気な証拠ではないか。元気になるとよく食べられよく眠れる、本当にその通りだ。季節の移り変わりとともに実りが熟すように、心もまた幸せで満たされていくような気持ちになった。

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