初候*草露白(くさのつゆしろし)

 学校を卒業して、残念なことのひとつは、やはり長い休みがないことだろう。

 思いがけず、学生時代に取った資格のおかげで、臨時とはいえ教師という職業に就いて数ヶ月。昔は先生なんて、生徒と遊んで一緒に休みが取れていい職業だと思っていたのだが、実のところ部活動の監督だの、夜の見回りだの、結局半分以上は学校にいた気がする。しがない非常勤の身では、時給が稼げてありがたいのではあるが。

「いっちにーさんしっ」

 腕を伸ばして曲げて。足を開いて屈んで飛んで。夏の間やっていた、つっくんこと、祖父に起こされてやっていたラジオ体操なのだが。どうも習慣化してしまったようで、祖父たちが帰ってからも続いている。

「ごーろくしっちはっち……っと。よっしゃ」

 暁治はひとしきり身体をほぐすと、大きく伸びをする。実家は庭はないのだが、ベランダはあった。運動できないことはなかったけれど、庭の開放感とは比べ物にならない。田舎の生活は不便も多いが、自然が身近なのはいいものだ。

 とはいえ、自然に憧れて先日田舎暮らしを始めた元同級生が、暁治の田舎は田舎じゃない。真の田舎は交通機関もコンビニもない、医者にかかるのも山ひとつ先だと、田舎自慢をしてきたから、確かにそれに比べたら、便利な場所ではあると思う。車は必須だが。

「はるぅ、お茶とお握り! せっかくだから庭で食べようと思って。ほら、こないだでーわいなんとかで作ったベンチでさ」

 ひょこりと、朱嶺が縁側から身を乗り出して、彼を呼んだ。

「あぁ、あれか」

 そう言って、視線を小さな池へと向ける。池のすぐそばに設えた、木製のベンチだ。
 夏の初めに暇を持て余して、見つけたDIY動画サイトに感化された暁治は、納屋から工具箱を持ち出して、見様見真似でこしらえてみた。少し歪みはあるものの、男三人での耐久性テストはばっちりだ。

 ここでかき氷食ったらさぞ美味いだろうと思ったものだが、実際は猛暑でかき氷どころではなかった。自分の方が溶けてしまいそうな暑さだ。
 だが、月も変わったことだし、この時間帯なら大丈夫かもしれない。暁治は首にかけていたタオルを頭からかぶると、池の隅に設えたベンチに座った。太陽の熱を受け始めたベンチは、少し温かい。

「今日は梅とおかかとシャケ、昆布とたらこもあるよ」

 見ると大皿に山盛りだ。

「どんだけ作ったんだよこれ。食いきれないぞ」

「大丈夫大丈夫。後から駄猫も来るし、余裕だって」

 暁治の隣に皿を置くと、朱嶺もベンチに腰掛ける。キイチが来ると言いつつ、彼の座るスペースはなさそうだ。

「はぁい、朱嶺くん特製、あったかい豚汁ですよ」

「この陽気であったかいはないだろ」

 そうは言いつつ、お握りには味噌汁、味噌汁は温かいのが一番だ。箸も一緒に受け取ると、一口すする。後一時間もすれば家の中に避難しなければならないだろうが、今はまだ風が冷たい。

 今日も陽差しはきつそうだが、そよぐ風は心なしかひいやりしている。ほぅっと息をつくと、暁治は辺りを見回した。

 居候どもをこき使って、草むしりをやらせているせいか、庭はすっきりとしている。前に朱嶺がミントティーを作るのだと、庭の一角に苗を植えて増殖させまくってから、ことさら手入れには気を使っているのだ。

 それでも、少し伸び始めた草むらが、雨が降ったわけでもないのに、露をまとっている。
 そよぐ風、遠くではまだセミの声。柄にもなく風流を感じた暁治は、露かぁ……と、お握りをもぐもぐとやりながら、そんなことを思った。

「露と落ち露と消えにし――か」

「え、なに? はるそろそろ寿命?」

「誰が死ぬって?」

 あの世でも楽しそうな祖父母を見ていると、寿命を迎えるのも悪くはないような気もしないではないが、それはそれだ。

「痛い痛い! ほっぺつねらないでっ。伸びちゃうから。もう、だってそれ、辞世の句でしょ? 露と落ち露と消えにし我が身かな」

「そうなのか?」

 なんとなく口をついて出たのだが、辞世の句とは思わなかった。綺麗な言葉だと記憶していただけだ。意味も知らずに使ったとか、少し恥ずかしい。
 
「なるなる。露を使った歌かぁ。僕なら『白露(しらつゆ)に風の吹きしく秋の野はつらぬき留めぬ玉ぞ散りける』とか、綺麗だなぁっと思うよ」

 流れるように、謡うように口から零れる言葉に、なんとなく面白くなくて、暁治は唇を尖らせた。朱嶺のくせに、ちょっと生意気だ。

「朝を詠んだ歌なら、『朝ぼらけ萩のうは葉の 露みればやや肌さむし秋の初風』とか。――って、はる、なんか怒ってる?」

「いやまったく」

 実のところ朱嶺は愚鈍ではない。学業はむしろ優秀な方で、普段の言動がフリーダムなのも、それで許されている面もある。

 まぁ、頭がいいから馬鹿ではない、ということはないという見本だな。暁治はそう思うこことにした。自己逃避というやつだ。

 朱嶺というやつは、イケメンというより、どちらかと言えば綺麗な、整った顔立ちをしている。性格もおおらかで人当たりもいい。知らず人が集まってくるタイプで、捻くれものの自分とは大違いだ。別にどうでもいいことなのだが。

「正治さんがこういうの好きだったからさ、色々覚えちゃった」

「ふぅん」

 そう、どうでもいいことだ。まったくどうでもいいことだ。もやもやする感情を持て余しつつ、てへへと笑う朱嶺を見ていて、ふと思い出す。

「そいや、お前じいさんのこと、つっくんとか言ってたよな」

 思い出したのは、少し前に二度目の別れをした祖父のことだ。最初から彼が正治と呼んでくれていたら、少しくらいは祖父だと察することができていたろうに。

「あの姿さ、僕と初めて出会ったころのだったんだよね」

「なんでつっくんなんだよ」

 暁治の言葉に、朱嶺は歯切れが悪そうに、人差し指でぽりっと頬を引っ掻いた。

「最初に会ったとき、正治さん自分のこと、ツジモリって言ったんだよ」

 辻森は祖父の姓だ。ツジモリだからつっくん。

「なんでも古今東西、妖と呼ばれる類には、自分の名前を明かしてはいけないらしくてさ」

 名を明かすことは、自分を明け渡すこと。故に名ではなく姓を告げたのだということらしい。その後親しくなって、下の名前を教え貰ったのだとか。

「はるとは大違いだよね。ねぇ、僕らが初めて会ったときのこと、覚えてる? 正治さんの孫だっていうから、僕どんな子だろうって思ってたら、『みやこあきはる。さんさい』って、はっきり名乗られてさぁ」

 懐かしそうに目を細める。暁治本人に記憶にないが、用心深い祖父とのギャップは、いかほどのものだったろうか。

「キラキラした瞳でさぁ、こっちを見てくるんだ。あんまり真っ直ぐだからさ。あぁ、可愛いなぁって思ったよ」

 いつも見ている朱嶺と、昔のことを語る朱嶺。同じ人物、なにも変わったところはないはずなのに。なんだか胸がつかえたような、そんな気持ちになる。もしかして――知られて恥ずかしい黒歴史というやつのせいだろうか。

「お前、じいさんのこと、好きなんじゃないのか?」

 だからつい、話題を変えてしまう。なんとなく察していたけれど、口に出したことのない問いを。

「え、うん好きだよ。あの人はあったかいよね。僕らみたいな存在は、人がいないと存在できないのに、人がいるから存在できなくなってしまうってのに。だからこの家は要なんだよ。正治さんは、ないものはないでいいって言ったたけどね」

 なんとなく、知りたかった答えとは違っているような気はしたけれど、暁治はとりあえず頷いた。朱嶺はそんな暁治をじっと見た。

「う~ん、そうだねぇ。『秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を』。僕さぁ、あれからずっと、はるが帰って来るの待ってたんだよ」

「え?」

「だってねぇ。『我が宿の秋萩の上に置く露のいちしろくしも我れ恋ひめやも』。じゃない? ほんと、はるって鈍いんだから」

 形のいい唇からさらさらと、流れるように出てくる歌に面食らう。

「おぅい! ったく、抜け駆けすんじゃねぇにゃ駄烏!!」

 だが突然かけられた声に、暁治は開きかけた口を閉じた。

「残念だけど、駄猫の席はないよ!」

「ふふん、そんなこともあろうかと、ちゃぁんとピクニックシートを持ってきたにゃ! 暁治、隣に座るにゃ――って、駄烏が座るんじゃないにゃ!!」

「へーん! はるはるっ、僕の隣にかもかも!」

 わいわいと騒がしくなる周囲をよそに、暁治は食べかけのお握りをもぐり、と、かじる。
 無意識に視線を向けていたらしい。朱嶺と目が合った。いつも通り、ふにゃりとした柔らかい笑みを見て、暁治は目をそらすと大きく口を開けて、お握りにかぶりついた。