末候*雪下出麦(ゆきわたりてむぎいづる)
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 前振りもない、唐突な桜小路の言葉には驚かされた。あまりの勢いに呆気にとられたほどだ。しかし暁治の頭に浮かぶのは疑問符ばかりで、まったく要領を得なかった。

「なんの話をしているんだ?」

「月葉堂が宮古と契約を結んでもいいって」

「え? あの有名画家を多数マネージメントしてる画廊?」

「そうだ! チャンスだ、宮古!」

 ぎゅっときつく掴まれた肩、それとともに暁治の中に高揚感が生まれたのは、嘘ではなかった。それでもぽつりと聞こえた、「帰るの?」という朱嶺の声に、暁治は我に返った。
 目の前にぶら下げられたご馳走を前にしても、逡巡する気持ちが生まれる。このままこの場所を離れても、いいのだろうか、という思いだ。

 結局、桜小路が独断で持ち帰ってきた話は、暁治が担当者と話し合い、来年まで保留となった。
 条件は都心に住まいを戻すこと。もちろん住居は向こうで用意してくれる。なるべく静かで、自然が多いところを用意すると言ってくれた。

 しかし迷いがあるうちは、はっきりとした答えが出せそうもない。
 もっと絵を描きたいとそう思う気持ち、それは確かにあった。むしろ暁治にはその気持ちしかない、と言ってもいい。

 それでも朱嶺の存在は特別だ。チャンスが巡ってきたのは、彼のおかげだろうとさえ思う。そしてこの場所が、すべてを変えてくれた。
 いまがあるのはここでの生活があればこそだ。

 忙しい都会の毎日の中で、現状と変わらない気持ちで絵を描けるのか、それがわからなかった。

「はるぅ、こんな時間にどこ行くの?」

「え? ああ、回覧板」

 夜半前、上着を羽織った暁治が、三和土へ下りようとしたところで、声をかけられた。後ろを振り向くと、昨夜も遅くまで仕事に駆り出されていた朱嶺が、瞼をこすっている。
 先ほどまでこたつで寝ていたのだが、どうやら起こしてしまったようだ。

「僕が行ってくるよ」

「え?」

 あれからというもの、朱嶺は暁治にべったりだった。出先を告げずに一人で出かけようものなら、失踪でもいたかのような慌てぶり。
 彼は帰ると思っている。なにもかもを置いて、いなくなると思っているのだろう。あの時、言いかけた彼の言葉もいまだ聞けていない。

「ゴミの収集日が変わったんだ。今年は雪が多いもんね」

「ああ」

「じゃあ、行ってきまぁす」

「気をつけてな」

 カタンと閉まった玄関戸の向こう。暗がりに薄らと見える影に、初めて出会った日を思い出す。夜更けに訪れた珍客が、こうして日常に溶け込む日が来ようとは。
 手持ち無沙汰になった暁治は、無意味に首の後ろを掻く。そしてため息を一つついて、踵を返した。

「蕎麦、茹でるか。ついでに夜の準備もしよう」

 今夜は新年を稲荷神社で迎えるために、山登りをする予定だ。
 石蕗家の稲荷は通常、山の麓にある社が本殿とされている。けれど本来の本殿は、山の中腹に鎮座する社のほうだった。

 そこは朱嶺を追いかけ、幽冥界という場所に行くために通った、あの社だ。社から幽世、幽冥界、と繋がっている。
 仮とは言えど管理人の管理人――ということで、入り口の管理は行わなくてはいけないらしい。

 新年早々、なにかがあることは九十九パーセントない、と聞いている。けれど形だけでもお仕事をする必要があるそうだ。験担ぎというものだろう。
 初詣なので、桜小路も同行する予定だ。桃は体裁上、実家に帰っていることになっている。

「夜は甘酒と汁粉と、あんまり重い物は持ちたくないな。でもまあ、いいか。んー、年越し蕎麦も食べるし、食べ物はいらないか」

 汁物はスープジャーに入れる。どうせ持つのは、山道に慣れた鷹野や河太郎だ。参道は雪かきしてあると言っていたが、いまも降り続いている雪では期待はできない。
 いっそのこといつぞやの提灯で、道を開いてくれたらいいのにと思う。桜小路にバレないように、ひっそりこっそりと。

「海老天、大きいのにしてよかったな。質素な蕎麦も見栄えがいい」

「ねぇねぇ、はる。お年玉もらった」

「え? ちょっと気が早くないか?」

 蕎麦が茹で上がり、年越し蕎麦の準備ができた頃、ようやく朱嶺が帰ってきた。十分と少し先のお隣まで行って帰ってくるのに、随分と遅いと思ったけれど、引き止められていたようだ。
 お年玉と称したみかん一箱を抱えていた。

「手袋してなかったから、冷えてるだろ」

「うん、外は雪が降ってて寒いよ。凍えちゃう」

 出来上がった蕎麦の器に手を当て、暖をとる姿に、思わず暁治は笑ってしまった。視線が合うと彼もふにゃりと頬を緩めて笑う。

「夫夫水入らずだね」

 朱嶺の向かいでこたつに足を入れると、ちょんちょんとつま先でつつかれた。桃は幽世へ行っていないし、キイチは石蕗家の仕事に借り出されている。
 確かに二人きり――それに気づいて、暁治は少しだけ口元を緩めた。

「そうだな」

「あ、はるがデレた」

「あったかいうちに食えよ」

「いただきまーす」

 湯気が立ち上る蕎麦に二人で箸を向ける。ずるずると麺を啜る音が、静かな中にやけに響いた。
 紛らわすようにつけたテレビでは、数時間で年が明けると盛り上がっている。時計を見るともうあと三十分もすれば二十三時だ。

「あー、今年に思い残すことはないか?」

「え? なに、いきなり? はる、どうしたの?」

「いや、その」

 つゆまでぐいっと飲み干し、一息ついた朱嶺が、心底不思議そうな顔をして見つめてくる。その反応に、自分で言っておきながら、暁治はもごもごと言葉を濁す。

「はるこそ、思い残すことはない?」

「思い残す、ことは……ない。なんだかんだと騒がしかったけど、実りあるいい一年だったよ」

「僕もだよ。いい一年だった」

「朱嶺、来年は」

「じっくり考えなよ。二択になることは、最初から決まってたもんね。大丈夫」

 まだ若いのだから、夢を追うことは悪いことではない。けれど意志は早めに決めたほうが、心残りが少なくていい。
 そんなアドバイスをくれたのは、ずっと自分より年若い石蕗だった。

 心残り――それは彼と、この家だ。
 向こうへ戻ればあちらが生活の中心になる。ここには訪れることは、極端に少なくなるだろう。

 暁治がこの家から遠ざかったら、桃は、ほかのみんなはどうなるのか。

「浦島太郎が、竜宮城へ行けたのは一度きり、だよな」

 行きて帰りて、道は――

「暁治殿~! 参拝に行きまするぞ!」

「着く前に年が明けるでござるよ!」

 ぐるぐるとした思考が、ふっと賑やかな声にかき消される。我に返ると、茶色い瞳がじっとこちらを見つめていた。
 瞬く暁治に、その瞳はやんわりと細められる。

「はるは、自由でいいんだよ」

「朱嶺」

「ほら、行こ。もうあと少しで年が変わっちゃう」

 本当はそんなこと思っていやしないのだろう。掴んだ手を離す気はないのかもしれない。
 握られた手の温かさに、暁治は胸を締めつけられるような心地になった。それは自分も同じ気持ちだからこそだ。

「桜小路、絵のほうは順調か?」

「ああ、いい具合に進んでいる。それより、こんな時間だが、間に合うのか?」

 玄関先に出ると、桜小路もいる。年越し蕎麦を食べないのか、と声をかけた時は、絵がキリのいいところまで進まないと、年が明けられないと言っていた。
 どうやら一段落したようだ。

「任せてくだされ! このわたくしめがばびゅーんと……ゲフンゲフン」

「わりと近いでござる。さほど時間はかかりませんぞ」

 河太郎の調子では、あの提灯が活躍してくれると思ってよさそうだ。しかし桜小路にネタバラシはできない。鷹野に背中を叩かれむせた彼は、慌てて口をつぐんだ。

 雪はこんこんと降っているが、稲荷の参道へ向かうと、不思議と雪が薄らとしか積もっていない。山道も短縮できることを考えれば、かなりスムーズに辿り着けそうだった。
 年が明けるまであと三十分。

「宮古」

「ん? なんだ?」

「いや、悪かった」

「なにが?」

「良かれとしたことだったが、短慮だった。彼が卒業するまで一年、長いよな。でもたまに帰ってきたら」

「いや、それはたぶん、できない気がする」

 道中、隣でそわそわしていたのは、これを言いたかったからか。急に桜小路に謝られて、暁治は苦笑交じりの笑みを浮かべた。

「どうしてだ?」

「なんとなく、そんな気がした」

 もしこれがおとぎ話だとしたら、物語の主人公である暁治は、訪れた泡沫の世界、この場所には、二度と戻れない。

 現実はこの町に戻ってくることは可能だ。けれどそこはいまある、朱嶺と、あやかしたちとともに過ごした世界、ではないかもしれない。
 しかし暁治は夢も捨てきれない。秤に乗せたものはどちらも重かった。

「大丈夫だよ。俺は悔いのない選択をする」

「そう、か」

「うん」

 この町での二度目の冬――これが最後になるのか、これからも続くのか。
 まだ暁治の中で定まってはいないけれど、最後に手にするのは、希望だと信じてたかった。

「強く、逞しく、だ」

 この時期に芽吹く麦は、踏みしめるほど霜の下で、強く生長すると聞いたことがある。それと同じように、へこたれそうになった時は大きく身体を伸ばす。
 そして冷たい雪を押しのけるのだ。

「はーるー! そろそろ日付変わるよー!」

「おう!」

 踏み出す一歩――新しい年が始まる。

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