流れる人波――忙しない足早なその流れをぼんやりと眺めながら、たまらず大きなあくびが漏れてしまった。駅前広場のベンチに腰掛けて早三十分。鳴らない携帯電話を握り、程よいぽかぽかとした陽射しについウトウトしてしまう。
しかし良い気分で頭が舟をこぎだした頃――それを邪魔するよう沈黙していたものが突然鳴り響く。
「もーしもーし、佐樹ー?」
「……遅い」
電話の向こうから聞こえるやたらと陽気な声音に、自然とため息が零れた。
「ごめんごめん! 今日ね、行けなくなっちゃった」
「は? また? いい加減、殴らせろ」
「ごめーん!」
苛立つこちらとは裏腹に、ちっとも悪びれていない声と笑い声にドッと力が抜けた。
「姉さんのごめんって何度目だよ。あーもう、とりあえず荷物を送るから……どうせ義兄さんが仕事早く終わったんだろ」
「当たりー! と言うわけで着払いで良いから送ってね」
浮かれた雰囲気が電話越しにも良くわかる。長女は結婚して数年経つと言うのに、相変わらず新婚夫婦並みだ。不規則な勤務の旦那が家にいる時は絶対に一緒に過ごすらしい。
常に一緒でプライベートな時間がないことを、まったく不自由と思っていない二人がすごい。自分だったらそんな生活は絶対に無理だと思う。
「その感覚がほんとによくわからない」
「佐樹は見た目によらずマイペースで恋愛に関してはクール過ぎるの。もうちょっと馬鹿になれば良いのに、面白味のない男は嫌われるわよ」
「うるさいよ」
常に我が道を行く人には言われたくない。大体うちの家族を見ていると、マイペースはもはや遺伝だろうと思う。それにたとえ面白味がなかろうが、一緒にいたいと思える相手ならば、自分でも少なからず必死になる。
「余計なお世話だっての」
いつの間にか切れていた電話と足元の荷物を見下ろし、僕は大きく息をついてしまった。たまにしか会わないからと母親に荷物運びを命じられるが、毎度これではいい加減げんなりしてしまう。きっとこちらが本気で怒らないことを、見越されているに違いない。
しかし愚痴っても現状は変わりようがない。早々に役目を終えるため、僕は仕方なしに荷物を持ってコンビニへと足を向けた。
「さて、どうするかな」
用事が済むと途端に手持ち無沙汰になる。昼が近いこともあって飲食店から漂う香りになんとなく誘われる気もしなくはない。――が、面倒くさいという気持ちもなくはない。
空っぽな冷蔵庫を思い浮かべつつ、とりあえず僕は当てもなく歩みだした。
「センセ?」
珍しくぶらりぶらりと歩いていた僕の背後から、ふと聞き慣れた声がした。ほんの少し他の子たちとは違う独特なこの呼び方は、一人しか覚えがない。
「……峰岸?」
しかし思いがけないその人物――峰岸を振り返ろうとした僕はそれが叶わず、微妙な角度で首を後ろへ向けたまま固まってしまった。
「なんだ偶然だな。一人?」
「あのな、先生は何回も言ってる気がするんだが……すぐに人の背中に張り付くな」
機嫌の良さげな峰岸の声に、思わず漏れたため息。どこか既視感がするのは気のせいじゃない。
人が絶え間なく流れる往来でなんのためらいもなく、いつものように峰岸は僕の背中に軽くのし掛かるよう抱きついている。
「だから、センセの背中は抱きつきたくなるんだよ。要するに背中まで愛しいってことだ」
「言ってる意味がよくわからないぞ」
再びため息を漏らした僕に肩を揺らして笑いながら、峰岸は一向に肩から胸辺りに回した腕を放してくれる気配がない。けれどさすがにいつまでもこの状態では、正直言って目立ち過ぎる。
峰岸は背も高く顔立ちが整った華やかな容姿。恐らく彼に出会った九割の人間は、間違いなくその見目良さに振り返るだろうと思う。そんな自分とは明らかに違う人種である峰岸に、こうもべったりと張り付かれては居心地が悪過ぎてたまらない。
「センセ、一人なら俺とデートしようぜ」
背中に張り付いた身体が少し離れ、回された腕が肩を組むように置かれた。こちらを覗き込み、顔を傾けた峰岸の長い前髪がさらりと流れる。
「は? そういうお前はどうなんだよ。休みの日に一人でぶらぶらしてるなんてありえないだろ」
「……ああ、そうだな」
目元にかかった前髪をさり気なくかき上げるそんな姿さえ、わけもなく様になるようなこの男が――予定もなくこんなところを歩いているはずがない。
「いまから一人。飯でも食いに行くか」
「はあ? お前、絶対に誰かと約束あるだろうっ」
笑いながら肩をすくめるその様子に目を疑った。しかし人の腕を取り強引に歩きだした峰岸は、さらに笑みを深くしてまったく聞く耳は持っていないようだ。
「細かいことは気にするな」
「気になるに決まってるだろう! どうするんだよその相手」
「大したことない。明日も俺はいるから」
「……どういう理屈だ」
半ば引きずられる勢いで腕を引かれる。我が物顔で歩くその背中を、僕はため息混じりで見つめた。
「センセとデート出来るのは今日しかない、かもしれないだろ? だったらいまを優先するのが当然」
「お前……そうやって色んな子たちを振り回してるんだな」
にやりと口の端を上げて振り返ったその表情に、がっくりと肩が落ちた。しかしそんな僕の反応に対して、峰岸は掴んだ人の腕を強く引き、ほんの一瞬をつくと僕の頬に唇を寄せた。
「心配しなくても、優しくしてやるのはセンセだけだぜ」
「お、お前は……ほんとに、そんな優しさはいらないぞっ」
どうしてこうも言動も行動も軽いのか。でもなぜか不思議とあまり憎めない。無邪気なんだ峰岸は、あまりにも裏表がなくて逆に毒気が抜かれる。
けれど油断をしていると、あっという間に飲み込まれてしまうこともあるので、ほんの少しそれが怖いとも思う。本当にこの男は底が知れない。
「センセなに食いたい?」
「まだ行くなんて一言も」
「あー、この先のさ」
「人の話を聞け!」
しかしこの人の意見も話も聞かない強引さは相変わらず調子を狂わされる。
行き先を決めたらしい峰岸は方向転換しながら、どさくさに紛れて人の手を握り足早に歩きだした。