夏日32
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 顔を隠すことで精一杯になっているのか、抱き寄せても然して抵抗されることなく、佐樹さんは腕の中に収まった。そして抱き起こしたことでタオルケットが肌から滑り落ち、微かに赤く染まる白い背中があらわになった。

「帰りたくないな」

 あらわになった背中を優しく撫で、首筋に唇を落とす。ぴくりと震えた肩が可愛くて、そこにもまた唇を落とした。

「……、そういうわけにいかないだろ」

「そうですね」

 ぽつりと呟いた俺の言葉にそろりと目の前の視線が持ち上がる。困ったように眉を寄せるそんな表情に、諦めを含んだ息がこぼれてしまった。帰らないわけには行かない。わかっているけれど、ここが幸せ過ぎて現実に返るのが怖くなる。

「藤堂」

「ん、なに?」

 顔を覆い隠すのをやめた佐樹さんは小さく俺のシャツの胸元を引く。そんな彼の仕草に首を傾げて見せれば、彼はゆっくりと腕を上げて寝室にある机を指差した。そして「二段目の引き出し」と言うと、また小さくシャツを引く。それに少し戸惑いながらも、なにかそこあるのだとわかった俺は、抱きしめていた身体をゆっくりと離してベッドを下りた。

「……これ」

 そして言われた通りに机に備え付けてあるチェストの二段目を引いた。そこには真新しさを感じさせる鍵が一つあった。指先で鍵に取り付けてある銀色の輪を摘むと、その鍵を佐樹さんのほうへ向ける。するとふっと柔らかく綻んだ表情で見つめられた。

「うちの鍵。お前にあげる。プライベートに支障が出るような時は駄目だけど、いつでもここに来てもいいぞ。もう母さんは知ってるし、もっと早く渡してもよかったんだけど、タイミングなくて」

 照れくさそうにはにかんだ佐樹さんの表情に、気がつけば腕を伸ばして彼の身体を抱きしめていた。どちらともつかない少し早い心音が耳元で響く。それに急かされるようにさらに強く抱きしめたら、ゆるりと持ち上げられた彼の腕が俺を強く抱きしめ返してくれた。それがたまらなく嬉しくて頬にすり寄ったら、小さく耳元で笑われた。

「もっと傍にいたい。佐樹さん、ずっと傍にいたい」

「ああ、僕もそう思ってる。だからもうしばらく二人で頑張ろう」

「佐樹さん、愛してる」 

「うん、僕も藤堂が好きだよ」

 優しい声、言葉、それが幸せでたまらないのに、胸が痛くてたまらない。軋む胸の痛みが作り出す不安は広がり、傷ついた心の隙間に黒く淀んだものをこびりつけてしまいそうな気になる。
 縋り付くように華奢な身体をかき抱いたら、優しい両手が俺の頬を包む。そして浮かんでもいない涙を拭うように、佐樹さんの指先は何度も何度も俺の目尻を優しくなぞった。

 そのぬくもりが温かくて、ただただ俺はきつく目の前の身体を抱きしめていた。見えない不安に捕らわれてしまわないように、ぬくもりだけを胸に留め置こうと、ゆっくりと俺は目を閉じた。そんなまぶたにそっと触れる唇は胸の痛みを吸い取ってくれるようだった。

「藤堂、電車」

「うん、わかってる。ごめん佐樹さん」

 しばらく目を閉じたまま佐樹さんを抱きしめていると、腕の中で小さく彼が身じろいだ。もう時間はないのだとわかっている。それにこれ以上ここにいて、彼になにかあっては困る。
 切ってしまった電話は鳴り響くことはないけれど、もしも彼にまで手が及んでしまったらと思えば、立ち向かわなければとも思う。

「鍵、もらったから、俺がちゃんと戸締まりして帰る。佐樹さんはこのまま寝ていいよ」

「気をつけて、帰れよ。もう夜遅いし」

「大丈夫、ここも家も駅から近いから」

 ほんのわずか離した身体を再び強く抱きしめて、目の前の髪に口づけを落とすと、ようやく意を決したように俺は立ち上がった。心配げな視線に見上げられ、苦笑いを返してしまったが、もう時間がない。
 かなり余裕を持って佐樹さんを起こしたというのに、時間は進み、最終電車の時間が近づいていた。ここが駅まで五分とは言え、悠長にしていると乗り遅れてしまうだろう。

「じゃあ、また来週」

「ああ、また来週」

 そうだ、また何日か我慢をすれば佐樹さんには会える。そう思って笑みを浮かべると、俺は彼の家を足早に後にした。

 飛び乗った最終電車は思ったよりもあまり人がおらず、座席もちらほら空いているような状況だった。人のいる車両や場所から少し離れ、電車の角でずっと切りっぱなしでいた携帯電話の電源を入れた。それと共に呼び出し音をサイレントモードにした。

 設定を変更しているあいだにも溜まっていたメールが何通か受信される。それのほぼ九割はあずみと弥彦からだった。
 いつどこで電話が来たか、どんな風に電話を交わしたかなどこと細かなメールがたくさん受信されている。ほんの数時間のこととは言えかなり二人には迷惑をかけた。どこかで借りを返しておかなければと思った。

 二人からの報告メールを読んでいるうちに、電車は最寄り駅に着いた。ここから徒歩十分ほどで家には着く。けれどその足は重い。
 電話越しのやり取りでさえかなり神経が高ぶり苛々するのに、対面となるとそれはもうそれ以上で、神経がすり減る気分だった。けれどそれを避けては通れないことも十分にわかっている。

「蒸し暑いな」

 ふと暗い夜空を見上げながら駅を出ると、外の気温の高さに気がつく。そういえばいまは夏だったとその暑さに現実を思い出した。佐樹さんといるとこの暑ささえも気にならないというのに、離れてしまった途端に現実が目の前に広がる。
 やはり夏は好きではないなと思いながら重たい足で歩いていると、いつもは真っ暗な場所に明かりが灯っていて気分がさらに沈んだ。鍵を差し込み回せば、まるで気分の重さが乗り移ったかのように鈍い音が静かな空間に響いた。

「優哉っ」

 そして玄関扉を開いて足を踏み入れた途端に静寂を裂くような声が聞こえる。その声を聞いた瞬間、俺の口からは無意識にため息がこぼれていた。俯きがちだった顔を上げて後ろ手に扉を閉めると、目の前には煌々としたリビングの光を背に立つ、青白い顔の女が立っている。

「何度も電話したのに、どうして出ないの!」

 ふいと視線をそらして無言のまま足を踏み出した俺に、しがみつくような勢いで腕が伸ばされた。その手はシャツの背を掴み、握りしめている。歩みを遮られた俺は再びため息を吐き出した。

「終電で帰るって言ったよな。あんたが行き先と時間を言えっていうから言っておいただろう」

「どうして早く帰ってこないのっ、話があるって言ってるじゃない。雅明さんだって暇じゃないのよ」

「俺だって暇じゃないっ。それに川端の養子にはならないって何回言わせるつもりだよ」

 シャツを掴む手を振りほどくように腕を振り上げれば、表情も顔色も変えぬままこちらを見ていた視線が微かに揺らぐ。けれどそれは一瞬で、再びこちらを見る目は冷えきった水面、いや沼のようだと思った。
 夏になり、日に日に表情が乏しくなっていくのは目に見て気づいていたけれど、久しぶりに顔を合わせてそれがますますひどくなっているのがひと目でわかった。
 夏は俺にとってもこの女にとっても鬼門だ。

「いい加減もう諦めろよ。俺がここからいなくなったとしても、現実は変わらない。何年経ったと思ってるんだ、もう遅い。遅過ぎるだろ」

「来週は」

「……っ、来週は弥彦やあずみたちとキャンプに行くって言っておいただろ。それにもうほかに休みなんかないし、川端に割く時間はない」

 普段の威圧的で高慢な雰囲気にも嫌な気分を覚えるが、いまのなにを考えているのかわからない虚ろさも不気味で仕方ない。しかしどちらにしてもなにをするかわからない状況は変わらない。

 再び伸ばされた腕を避けて急いで階段を駆け上がると、背後からヒステリー気味な声で呼びかけられるが、その声を振り切るように部屋の扉を開けてその中に飛び込んだ。
 後ろ手に扉を閉めてため息を吐き出せば、身体中の空気がすべて吐き出されるような錯覚に陥る。力が抜けてしゃがみ込んだ俺は、膝に額をこすりつけて肩を落とした。

「佐樹さん」

 重苦しい現実に自然と愛しい名前が口からこぼれ出る。少し前まで抱きしめていたその人を思い起こしながら目を閉じれば、ふいに名前を呼ばれた気がした。
 焦がれ過ぎて幻聴まで聴こえてきたかと苦笑いを浮かべてしまったが、それでも声は耳元で優しく俺の名前を紡ぐ。そしてその声に誘われるままに掴んだ携帯電話。
 鳴らないはずの携帯電話が鳴っているような、呼んでいるような錯覚。

「あ……」

 開いた携帯電話を見つめたまま、時が止まったような気がした。見慣れた番号に胸を高鳴らせ、そっと携帯電話を耳元に寄せれば、優しい声が耳元に届いた。自分を呼んでくれる、たったそれだけなのに心が一瞬で救われる気がする。いまこの瞬間に届いた想いがなによりも嬉しいと思った。