疑惑32
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 まさか他人がそこまでするとは想像していなかった。川端がそれほどまであいつに入れあげていたというのだろうか。
 しかし思えばいま離婚に関することをすべて取り仕切っている弁護士は、もともと契約していた弁護士を解任し、新たに川端が用意した人間だ。第三者まで使い、裏から手を回していたということなのか。

 けれどなぜそこまでするのか、あの女の魅力がわからない俺は理解に苦しむ。だがいまはそんなことはどうでもいい。なにか確証がここにあるかもしれない。いや、なにもなければいい、思い違いであればいい。杞憂だったかと思えればいい。

 そう思いながら手を動かす俺の気持ちに反してそれは、無数の写真の中に埋もれていた。見覚えのある優しい笑みに指先が震えた。ほかの写真同様にその写真もまた無残にも切り刻まれている。

「君、どうしたんだ、なにか」

「なんだ、これ」

 俺の様子にただならぬものを感じたのか、二人の刑事は「失礼する」と声を上げてリビングにやってきた。そして部屋の有様を見て声を上げる。

 けれどいまの俺にはそんな声などどうでもよかった。手にした写真を握りしめて俺は今度は玄関に向かい走り出した。呼び止める声は背後から聞こえてくるが、そんなものに構っている暇はない。
 乱雑に靴を履き外に飛び出すと、俺は携帯電話を取り出してあの人に電話をかけた。耳元で鳴る呼び出し音――けれどいつまで待ってもそれが途切れることがない。

 誰かと一緒にいて電話に気づいていないならいい、電車に乗っていて出られないのならばそれでもいい。胸に広がる嫌な予感が的中することがなければそれでいい。祈るような気持ちで何度も電話をかけ直した。

 家を飛び出し駅前にたどり着くと、俺は視線を巡らし止まっているタクシーを探す。するとちょうどよく一台のタクシーが乗り場に現れた。

「もしもし、藤堂?」

「佐樹さんっ」

 タクシーに近づいた時、耳元の呼び出し音が途切れてようやく聞き馴染みのある声が返ってきた。その声に俺は思わず縋るような勢いで声を上げてしまう。

「ど、どうしたんだ?」

 かなり大きな声が出ていたらしく、電話の向こうの彼だけではなく行き交う人も驚いたような顔でこちらを振り向いた。けれどいまはそんなことを気にしている場合ではない。

「佐樹さんいまどこにいますか? 一人ですか?」

「え? いま? いまは明良のマンションの、近くで一人だけど」

 できれば誰かと一緒にいてくれたほうがよかったのだが、一人になってしまったのならば仕方がない。

「それはどこですか?」

「ん? えーと、お前の使っている駅の隣駅だ」

 思った以上に近い場所にいる。これならばすぐに会えるかもしれない。そう思いタクシーの窓を軽く叩き、こちらを気にしていた運転手に乗る意思を伝える。すると後部座席の扉が目の前で開いた。

「どの辺りですか? いまからちょっと会いたいのでそこに行きます」

「いまから? あ、公園の近く。大きい公園なんだけど、なんて公園だったかな」

「隣駅にある大きい公園わかりますか?」

 タクシーに乗り込み運転手に問いかけてみれば大きく頷いた。車でどうやらここから十分と少しくらいで着くようだ。電話を繋いだまま運転手に公園に向かうよう伝えた。

「佐樹さん、公園の近くに人が多くいそうな、駅とかはないですか?」

「あー、十五分くらいで駅には着くかな。あ、でもその手前にコンビニがあった」

「じゃあ、コンビニのほうが近いのなら、そこにいてくれませんか」

「んー」

 いまはできるだけ人のいる場所にいて欲しい、そう思うもののなにやら彼の返事は曖昧だ。訝しみながらも返事を待つが、しばらく待っても言葉が続かない。

「どうしたんですか」

「あ、いや落とし物をして探していたんだ。いや、どこで落としたのかわからないんだけど」

「明良の家にいたんですよね? 家でなくしたなら電話でもして聞いてみればいいじゃないですか」

 珍しくはっきりとしない声に少しきつい言い方をしてしまう。そんな俺の声に彼は「んー」とまた曖昧な相槌を打つ。一体なにをなくしたというのだろう。正直言えばそんなことより早く、どこかひと気の多い場所に移動して欲しい。

「もう少し、探してみる。明良とは駅前で別れたんだけど、携帯持って出なかったみたいで繋がらないんだ」

「それなら俺が着いてからでも遅くないでしょう!」
 
「え、あ、悪い」

 思わず声を荒らげてしまった。彼に八つ当たりをしてどうするんだ。驚いたような声に申し訳なさが募る。けれど不安でならないんだ。もしものことがあったらと思うと、気が急いて仕方がない。
 杞憂であればいいのだ。俺の思い違いであるならそれでいい。ただ、いまは早く傍に行ってそれを確かめたいだけなんだ。

「すみません。あの、あとで俺も手伝いますから……佐樹さん? 佐樹さん!」

 急に電話の向こう側が静かになった。コツコツと靴音が響いていたのに、その音も、声もしない。嫌な黒い予感が胸の中で急激に広まっていく。耳を澄ましながら何度も名前を呼んでいると、急に向こう側から鈍い音と雑音が聞こえた。
 それは携帯電話が地面に落ちた音だろうか。そして足音が、一つ、二つ、いやまだほかにもいるかもしれない。

「すみません、急いでもらえますか!」

「もうすぐで着くよ。どの辺りかな」

「近くにコンビニがある公園の入り口付近を徐行してもらえませんか」

 携帯電話はおそらく道に落ちたのだろう。先ほど聞こえた複数の足音は遠ざかって聞こえなくなった。車の音もしていない。それほど遠くには行っていないだろう。
 となれば行き先は公園の中くらいしか考えつかない。携帯電話の向こうは相変わらず静かでなにも聞こえない。焦りばかりが胸の内に広がっていく。

 タクシーはしばらくしてゆっくりと徐行を始めた。窓越しに見えた公園は想像しているよりも広かった。暗い夜道をじっと目を凝らしてみる。

「お客さんあれ」

「え?」

 じっと外を見ていた俺に運転手が声をかける。その声に振り返ると運転手は道の先を指さしていた。フロントガラスの向こうに見えたのは鞄と携帯電話らしきもの。俺はとっさにドアノブを引き開けていた。それに気がついた運転手は慌てて急ブレーキを踏んだ。

「危ないですよ!」

 その声は耳に届いたが、車が止まったと同時に俺は外に飛び出していた。そして暗闇に残された鞄と携帯電話のもとへと走る。地面に落ちているものはおそらく彼のもので間違いはないだろう。
 どちらも見覚えのあるものだ。二つを拾い上げ辺りに視線を向けてみるが、しんと静まり返ったそこでは虫の音しか聞こえない。やはり公園の中だろうか。

 公園の入り口からじっと中を窺うが外から見ても広い公園だ、すぐには見つからないかもしれない。だがこんなところでもたもたしているわけにはいかない。すぐ傍まで来て再び停車したタクシーの中を覗き込むと、俺は鞄と携帯電話を後部座席のシートの上に置いた。

「すみませんが、このままここで待っていてもらえますか。必ず戻りますので」

「え?」

「必ず戻ります。でももし三十分以上経っても戻ってこなかったら、警察に連絡してください」

 状況を飲み込めていないだろう運転手は、鞄と俺を見比べて困ったような表情を浮かべる。しかしゆっくりと返事を待っている暇はない。後部座席のドアを閉めると俺は公園の中に駆け込んでいった。

リアクション各5回・メッセージ:Clap