別離30
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 いまだ眉間にしわを寄せている藤堂の髪を指先で梳いて、手のひらで目元を優しく撫でる。何度も何度も撫でていると、次第に藤堂の表情が和らいできた。

「佐樹さん」

 小さな声が僕の名を呼ぶ。まだ閉じられたまぶたは開かないけれど、僕の気配を感じているのかもしれない。僕のぬくもりが藤堂に届いているのだろうか。

「藤堂、僕はここにいるよ」

 もう片方の手も伸ばして両頬を包む込むようにして撫でると、藤堂のまつげが微かに揺れた。そしてそれ同時か、握り合わされていた藤堂の手が解けて、その手が僕を力強く抱き寄せる。突然のことに思わず肩を跳ね上げてしまったけれど、その肩すら抱きしめられた。

「佐樹さん、行かないで」

「ちゃんといるから、ここにいる。藤堂、僕を見ろよ」

 泣き出しそうなほどか細い小さな声は、うわごとみたいで目の前にいる僕がちゃんと見えていない気がした。身体が軋みそうなほど強く抱きしめられているのに、藤堂が感じられない。腕を伸ばし藤堂の頬を包み込むと、僕は引き結ばれた唇に口づけた。

「目、開けて。こっち見て」

「……佐樹、さん」

「ほら、ちゃんといるだろ」

 伏せられていたまぶたが持ち上がり、揺れた瞳が僕を見つめる。その目をまっすぐに見つめ返して微笑めば、藤堂の瞳は驚きを宿したように大きく見開かれた。

「どう、して」

 まだ思考がまだ夢の中にあるのか、藤堂は目をさまよわせて混乱しているようだ。けれど次第に瞳は光を取り戻していく。そしてはっきりと僕をその目に映した。

「うわっ」

 急に藤堂は弾かれるように僕を突き放した。思いのほか強いその力に、僕の身体は後ろへひっくり返るようにして転がった。尻餅をついた僕は驚きをあらわに藤堂を見上げてしまう。けれど僕を突き飛ばした藤堂自身も驚いているのか、僕を見つめて固まったように動かない。

「急に来てごめん。藤堂にどうしても会いたくて」

 突然現れた僕に戸惑っているのだろうか。もしかして僕には会いたくないと思っていたのか。けれどさっき確かに「行かないで」とそう言ってくれた。

「藤堂、会いたかったんだ」

 身を起こし再び膝をつくと、僕はもう一度手を伸ばして藤堂の手に触れる。肩を跳ね上げ、引こうとするそれを押し止めるように僕はとっさに手を握りしめた。

「逃げないでくれ。僕はお前とちゃんと話がしたい」

 振り払われたらどうしようかと不安で胸がはやるが、震えるその手は僕を突き放しはしなかった。目を伏せて考え込むように俯いたあと、藤堂はまた僕をまっすぐに見つめた。
 そしてしばらくお互い見つめ合ったまま身じろぎもしなかったけれど、ゆっくりと瞬きをした藤堂がベッドから下りて僕へと手を伸ばす。跪くように身を屈め、藤堂は優しく僕の髪を梳き、そっと頬に触れる。

「佐樹さん、夢じゃ、ない?」

「夢なんかじゃない。いま触れてるだろ」

 僕の存在を確かめるかのように、何度も藤堂は僕の髪を撫で頬に触れる。大きな手が頬を包む感触が優しくて、温かくて、胸がきゅっと締めつけられる気がした。嬉しいのに切ない気持ちが湧いて、心の中が苦しくなる。

「藤堂、会えてよかった」

「……駄目だ。俺なんかといたら」

「藤堂?」

 触れたくて腕を伸ばしたら、その手を避けられてしまった。頬に触れていた手も離れて、一気に距離を置かれた気分になる。
 藤堂と一緒にいてはいけない理由はなんだ。

「俺は……なに一つ守れない。約束も、佐樹さんのことも」

「藤堂、お前一人が頑張らなくたっていいんだ。なんでもそうやって抱え込むな」

 なんでも自分の中に押し込んで、飲み込んで我慢してしまうのは彼の悪い癖だ。それがどれだけ藤堂を傷つけ苦しめているのか想像するしかできないけれど、きっとそれは心を蝕んで抉るほどに痛くて辛いのだろう。

「逃げないって決めたのに、諦めないって約束したのに、なにもできていない。俺はあなたを傷つけるしかできない。手を離さないって言ったのに、もう二度と一人にしないって」

 感情があふれ出すかのように早口でまくし立てる藤堂は、なだめようと伸ばした僕の手を弾いて拒絶する。弾かれ打たれた手よりも胸が痛い。

「そんなのまだこれからだろう。急にいなくなって傷ついてないって言ったら嘘になるけど、それでも僕はお前が誰よりも大切で、必要で愛おしいって思ってる」

 小さな決意や約束が藤堂の心を縛っていたのだろうか。追い詰められるほど苦しめてしまっていたのか。心の癖を持った藤堂には、どれも重くのしかかるものだったのかもしれない。

「藤堂、辛い時は逃げてもいいんだぞ。頑張れなくなった時は寄りかかっていいんだ。一人で戦おうとするな」

 いままでたくさんの約束を交わしてきた。傍にいようと、手を離さないでいようと約束した。そしてこの先の未来を諦めないでいようと指切りを交わした。でもそのせいで、藤堂は身動きができないほど苦しんでいたんだ。
 きっと必死で立ち向かって戦っていたんだろう。けどそれ以上に現実が藤堂を傷つけた。

「どうしたらいいのか、もうわからないんです。俺といてもあなたは傷ついて辛いばかりで、苦しいばかりで」

「そんなことない。僕はお前の隣にいられるだけでいいんだ。辛くても苦しくても、それでも一緒にいたいんだよ」

 両手で顔を覆い俯く藤堂は肩を落とし、背を丸め小さくしぼんでしまったかのようだ。僕と一緒にいることはやはり藤堂にとって辛くて苦しいことだったのだろうか。もしそうだったとしたら、胸が引き絞られるほどに痛くて悲しい。藤堂はずっとこんな痛みを抱えていたのか。
 そんな藤堂に頑張れなんて言えない。けれどずっと殻に閉じこもっているわけにもいかないだろう。こんな時どうしたらいいのかわからないなんて、自分が頼りなさ過ぎて嫌になる。

「佐樹さん、俺のこと……忘れて、そうしたら」

「馬鹿なこと言うな! そんなことできるわけないだろう!」

 僕が忘れることで藤堂は楽になるのだとしても、それだけは藤堂の願いでも聞けない。どうしたって藤堂を忘れるなんて無理だ。たった数時間、数日、数週間――どこにいるのかわからないだけでも不安で仕方がなかったのに、藤堂のことで頭がいっぱいになるくらいなのに、忘れるなんてできやしない。

「じゃあ、藤堂は僕のこと忘れられるのか?」

 忘れて欲しくなんかない。でも言わずにはいられなかった。忘れろだなんて容易く言って欲しくないから、俯いた藤堂の手首を掴み、僕は顔を覆う手を下ろさせた。まっすぐに目を覗き込んで、戸惑いに揺れた瞳を見つめた。

「僕に忘れろって言うなら、お前も忘れなくちゃ駄目だ」

 僕の言葉に肩を震わせた藤堂の目が大きく揺れる。けれど感情をこらえるかのように藤堂は唇を引き結んだ。

「いいか、お互い忘れたら、それでさよならだ」

 言葉にしただけで胸が痛くなる。でも感情を飲み込もうとした藤堂の口を割らせるには、こうでも言わなければ揺るがないだろう。俯き逃げないように頬を両手で挟み込むと、僕は藤堂を上向かせた。引き結ばれていた唇が微かに震える。

「いやだ……俺は、あなたを失いたくない」

 その言葉と共にこぼれ落ちたものに僕は目を奪われた。瞬きもせずに僕を見つめる藤堂の瞳から、一筋こぼれ落ちたものに胸が締めつけられるほど苦しくなる。気がつけば両腕を伸ばし彼の背を抱きしめていた。
 藤堂の涙を初めて見た。声もなく静かに涙をこぼす姿に胸が痛んで、僕まで泣きそうになる。

「馬鹿、泣くほど嫌ならもう忘れろとか言うな。そんなの絶対無理だから、僕はお前のこと忘れられない」

 強く背中を抱きしめたら、藤堂もまた僕の背をきつく抱きしめた。お互いの存在を確かめ合うみたいに隙間がなくなるくらい抱き合えば、二つの鼓動が混ざり合うように響いた。

「お前が望むならなんでもしてやる。だからいくらでもすがってくれ。お前を守りたい」

 いまだ涙をこぼす藤堂の頬に口づけたら、藤堂の唇が僕の唇を追いかけ優しく重ね合わされる。ついばむような小さな口づけだけれど、藤堂の想いが伝わるようで胸が熱くなった。

「離れたくない」

「なにがあっても僕はお前といるよ」

「……佐樹さん、助けて」

 か細い絞り出すような藤堂の声が胸に突き刺さった。こんなにもボロボロになるまで一人で耐えていたのかと、込み上がる感情で喉が痛くなった。
 抱きしめても抱きしめても足りないくらいに、僕はこの傷だらけの男が愛おしくて仕方がない。もうこれ以上傷つけたくない。苦しむ姿は見ていたくない。

 僕が彼にしてあげられることはなんだろう。抱きしめるだけじゃ駄目だ。僕たちの未来を、二人が幸せになれるように考えよう。どんな結末になっても僕は藤堂と共にある。それだけは絶対に変わらない。