約束02
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 もっと周りを見渡せと、あの人が言った言葉の意味がいまならよくわかる。俺はこの世界に一人きりで立っているわけではないのだ。いまも昔も俺は人に恵まれている。
 そして人間というものは日々の中で少しずつ成長しているものなのか。あんなに苦手だった人の輪に入ることが、いまではそんなに嫌ではなくなった。その大きな進歩には自分でも驚く。でも素直に人と笑い合える自分は悪くはないとも思う。
 他人の気持ちを前よりも考えられるようになって、その分だけ自分の気持ちも伝わるようになった。

 これはたぶん向こうにいた時に鍛えられた部分だろう。みんな感情がまっすぐで回りくどいことが嫌いだった。だから彼らは俺がためらいを見せれば真正面からぶつかってくる。そして感情を表に出すことは恥ずかしいことではないと教えてくれた。
 おかげで随分と人との付き合い方を学んだ気がする。

「よーし、そろそろ撤収するか」

「お疲れ様でーす!」

 一通りの作業が済んだのか浩介は両手を打ってスタッフの視線を集める。そしてそれに応えるようにその場にいる全員が声を上げた。朝から随分と時間が経ち、もう時刻は昼を過ぎている。思っていたよりも時間が経っていて、少し驚いてしまった。

「編集長! 私おいしいもの食べたいです! オムライスとか! パスタとか! デザート付きだとなおいいです!」

「えー、あたしはハンバーグがいい。珈琲飲んでゆっくりしたいです」

「お前ら、バラバラと適当にあげるな」

 片付けが終わった途端に多美子が勢い込んで浩介に詰め寄った。そしてそれに夏美が加わり、各々好きなものをあげてさらにぐいぐいと前のめりになる。どうやら昼飯は経費で落ちるようだ。
 しかし浮き立っている二人とは対照的に、残りの春代と由貴は恨めしそうな目を向けていた。

「夏美さんと多美子ちゃんいいなぁ。私たちこのあと次の仕事があるんで」

「私もおいしいもの食べたかったですー」

「じゃあ、由貴ちゃんと春代の分も食べておくわね」

 しょんぼりとうな垂れた二人に夏美はあっけらかんとして楽しげに笑った。その様子に春代も由貴も大げさに嘆いてみせる。

「わーん、夏美さん鬼ー!」

「はあ、残念すぎる。……編集長、おやつごちそうさまでした。春代ちゃん行くよ」

 仕事の時間が差し迫っているのか、由貴は時計を気にしながら春代を急かした。未練たらたらな顔をしていた彼女はその声に渋々といった様子で由貴の元へ足を向ける。ひらひらと同僚に手を振られれば、二人はこちらに向かって会釈をしながら慌ただしく去って行った。

「編集長! ごはんごはん!」

「あー、わかったわかった。いま調べるから待ってろ」

 人が二人も減ったというのに賑やかさはまったく変わらない。期待のこもった眼差しで多美子は浩介の周りをウロウロしていた。その様子を見ている夏美もそわそわしながら目を輝かせている。
 忙しないその様子に呆れながらも、浩介は携帯電話を取り出した。しばらくぼんやりとその様子を眺めていたが、ふいに思い立ち俺は片手をあげる。

「さっきの全部食べられるとこ駅前にあるけど」

「マジで! 橘さんナイス!」

「橘さん! お願い電話して!」

 一分の乱れもなく振り返った多美子と夏美の勢いに少しばかり気圧された。さすがにこういう時ばかりは色気より食い気か。鼻息荒く目をキラキラとさせる二人に思わず顔が引きつってしまった。
 怯んで逃げ腰になった俺の心情が伝わったのか、苦笑した浩介がこちらへ視線を寄こす。その視線に応えて携帯電話を取り出すと、俺は馴染みの洋食屋に電話をかけた。

「四人いけるか?」

「ああ、まだ大丈夫だって」

 駅からほど近い場所に四十年以上も夫婦二人で営んでいる洋食屋がある。町の人に長く愛されている店だ。いまは平日の十二時から十八時までしか営業していない。
 昼になれば近所の人で賑わう店だが、今日はまだ余裕があるようだった。これから行くことを伝えれば二つ返事で応えてくれた。

「なんだ、閉めてしまうのか」

「来年には閉めるらしい」

「そうか、お前が勧める店なら間違いないって思ったのに、取材できなくて残念だ」

 みんなには惜しまれていたが、二人とももう七十に近いから残りの老後をゆっくり過ごすのだと言っていた。あとは頼むよ、なんて言われたけど、あの親しみ深い店にはまだまだ遠く及ばない。
 でもあの店が続いたのと同じくらい自分の店も長く続けられたらいいなとは思う。この町はと聞かれたら、うちの店を思い出してもらえるくらいになれたらいい。

「やあ、優哉くん。今日は取材だったんだって? いい宣伝になるといいね」

「またご飯食べに行くからあかりちゃんたちにもよろしくね」

 店から十分ほどで駅前に着く。そこから商店街にある洋食屋を目指すと、その先々で声をかけられた。馴染みのあるその顔ぶれに返事をしながら歩けば、そのほとんどが浩介にも同じ反応を見せる。
 どうやら浩介は商店街のほとんどに声かけて歩いたらしく、皆その顔を見ると満面の笑みを浮かべた。今日知り合ったばかりとは思えないほどの友好的な態度に、少しばかり驚いてしまう。
 仕事の一環なのかもしれないが、この抜きん出た社交性はなかなか真似できるものではない。

「可愛いお店ですねー」

「こういう店っていいわね」

 店の前にたどり着くと多美子と夏美の目が再び輝き出した。白い外壁に赤と白のストライプのテント屋根。木枠の扉と窓が二つ並んだそこは、古めかしさをあまり感じさせないこぢんまりとした小綺麗な店だ。
 けれど中に入ると狭さはまったく感じない。六席あるテーブルとカウンターはすでに半分ほど埋まっていた。いらっしゃいませと優しい声が響くと、オープンキッチンから店主の六郎さんが和やかな笑みを向けてくれる。

「まあまあ、べっぴんさんと男前さんねぇ。あなたたちがいるとなんだか花が咲いたみたいね」

 にこにこと目尻にしわを刻んで笑みを深くする和恵さんは六郎さんの奥さんだ。快活な六郎さんと同じく、あまり歳を感じさせない明るさが持ち前の人。空いたテーブルに俺たちを招いて彼女は至極嬉しそうに笑う。

「今日のランチはオムライスよ。ハンバーグもスパゲッティも飲み物やデザートとセットにできるわよ」

「私はランチにします! りんごジュースで。チーズケーキをお願いします」

「じゃあ、あたしはデミグラスハンバーグとライス。あと珈琲を食後に。浩介さんは?」

「おろしハンバーグかな。ライス大盛りで。優哉は?」

「俺はナポリタンで」

 それぞれが注文し終わるとようやくほっとしたのか、三人とも店の中に視線を向ける。意識せずとも隅々にまで目を向けるそれは職業病かもしれない。外観と同様に手入れの行き届いた店はとても清潔感がある。
 窓に引かれたレースカーテンもテーブルに敷かれたクロスも染み一つない。それを認めて三人は満足げな表情を浮かべる。

「この町はいい店が多いな」

「ああ、いいところだろう。色々見たけど、ここが一番いいなって思ったんだ」

 物件選びは直接現地には行けなくて、録画された映像や写真、あとは足を運んでくれた奈智さんの主観が頼りだった。あの場所に決まる前、店の候補はほかにもいくつかあった。どれも立地や条件も良くて申し分ないものだったが、なんとなく決め手に欠けていてなかなか選べずにいた。
 予定もだいぶ詰まり、やはり直接行かなければ駄目かもしれないと思っていたら、最後にあの家の情報が舞い込んできたのだ。元々は住居として売り出されていたらしいのだが、奈智さんが売り主に色々と交渉してくれた。

 周りの住居などにも挨拶に回ってもらい、飲食店を開くことに反対意見も出なかったので物件が決まってからは早かった。時雨に口添えしてもらいながら工務店を選出して、何度もやり取りを交わしデザインを起こしてもらった。
 そのあとは大急ぎで帰国して着工に漕ぎ着けたと言うわけだ。あの時は本当に慌ただしくて、店のことで手一杯になっていた。だからとは言いたくないが、佐樹さんに連絡し忘れるなんてことをしでかしたのはこのせいだろう。
 当人はまったく気にしていない様子だったけど、普通だったらいきなり帰って来られたら迷惑極まりない。あの人の大らかさには本当に救われた気になる。

「そういえば年始めってことは、あのパーティーでお二人は会ったんですか? 浩介さんが毎年面倒くせぇってこぼしてるあれ」

「ああ、そう。つまらん大人の寄り合いな」

 首を傾げた夏美に浩介は肩をすくめた。二人が言っているパーティーとは飲食業界の関係者が集まる新年会だ。毎年、会社役員や業界人、その親族などが集まるらしい。俺は今年初めて奈智さんに連れられて行ったが、確かにつまらない集まりだとは思った。

「もしかして橘って、タチバナフーズの関係です?」

「ああ、まあ、親戚みたいなものです」

 タチバナフーズは時雨が代表を務める会社の子会社のようなものだ。食品製造、飲食店や販売店など会社は多岐に亘るらしい。あまり仕事については深く聞いていないので詳しくはないが、あの人の会社が名の知れた大きな組織だと言うのは知っている。

「へぇ、そうだったんですね。でもなんで浩介さんと?」

「女に囲まれてるのに面倒くさそうに愛想笑いしてるから、外に連れ出して二人でフケたんだよな」

「あー、橘さん恋人いるんですよね? それは確かに面倒かも」

 ちらりと左手の薬指に視線が向けられ、納得したように頷かれる。彼女のようにあっさりと受け入れてくれるような相手だったら、面倒に思うこともなかったのだが。

「この男は学生時代から惚れ込んでる筋金入りらしいからなぁ」

「わぁ、恋人さん羨ましい。あー、じゃあ、遠恋越えてのラブですね!」

「俺の話は、やめてください」

 黙って話を聞いていた多美子が急に目を輝かせ出した。しかし恋愛ワードに食いつかれても対処に困る。向かい側からまっすぐ向けられる視線から思わず目をそらしてしまった。

「そう俺を睨むなって、今日の礼にこれやるからさ」

 隣で笑いを噛みしめる浩介を横目で睨み付けたら、なだめるように背中を叩かれる。そして上着から取り出した名刺入れから抜いたものを目の前に差し出された。二つ折りのカードのようなものには横文字で文字が綴られている。

「ナヴィルドア?」

「あー! 橘さん! それ絶対もらっておいたほうがいいやつです!」

「それ一年先まで予約が取れない店ですよ!」

 ぽつりと呟いた俺に目の前の二人は興奮したように声を上げる。指先に挟まれたカードを受け取ると、中には浩介の名前が書かれていた。ひっくり返して裏を見れば、住所と電話番号が印字されている。さほどここから遠くない場所だ。

「店には連絡してあるから、今日でも明日でもいつでも大丈夫だ。恋人と二人で行ってこいよ。料理もうまいし、席は個室にもなってるし、眺めも良いし、いい店だぞ」

「……ありがたくもらっておく」

「ああ、そうしろ」

 カードをシャツのポケットにしまえば、浩介は満足げに笑った。そしてそうこうしているうちにでき上がった料理が運ばれてくる。次々と並べられる皿に皆自然と笑みが浮かんだ。
 朝はいきなり電話で呼び出され最悪だったが、なんだかんだとのんびり食事をしている。浩介といると腹が立つことがあっても結局は最後に丸め込まれてしまう。こういうところはなんとなく誰かに似ている。
 でも深く考えるのも面倒なので、いまは目の前の食事を存分に味わうことにした。

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