彼と一緒にいられることが僕のすべてだ。それができるならなんだってしたいと思える。変わらなくちゃ駄目なんだ。
そうだ、平和ぼけしているのは僕のほうだ。これでは目の前にある優しさに甘えて、ただ両手を伸ばしているだけの子供と一緒だ。愛情を向けられることを待っているだけではなにも変わらない。
「優哉が好きでいてくれること、当たり前じゃないんだよな。それなのに束縛するみたいにほかの誰かと仲良くなるの嫌だなんて、我がままだった」
初めて出会った日からずっと好きでいてくれることは奇跡みたいなことだ。移ろいで行く中で変わらず隣にいてくれること、当たり前に感じ始めていたかもしれない。
いつでも優哉が優しいから、甘えすぎていた。変化するのは生きていく中で当然のことなんだ。それを受け入れられないのは僕が立ち止まっているせいだろう。
「もう、先生は健気なんだから! ちょっとはあいつを困らせればいいのに」
「片平?」
大きなため息を吐き出して片平は急に携帯電話を取りだした。そしてぶつぶつと優哉へ文句を呟きながらどこかへ電話をし始める。それは数回コールして繋がったのか、片平がすっと息を吸い込んだのがわかった。
「もしもし、あんた馬鹿でしょ! なに先生を泣かせてるのよ!」
「え? 片平、どこに電話して」
いきなり電話口に向かって怒鳴る片平に思わず肩が跳ねてしまった。驚きに目を瞬かせる僕をよそに、立ち止まった片平は呟いていた文句を電話の向こうにいる人物に次々と投げつける。
しばらくするとその声に反論するように電話口の向こうからも声が漏れ聞こえてきた。どうやら電話の相手は優哉のようだ。
「あんたの気の回らないとこにはがっかりよ」
弾丸のようにまくし立てる片平の勢いに気圧されたのか、漏れ聞こえていた声が小さくなる。しかしいきなり一方的に怒られては優哉も戸惑うだろう。身に覚えのないことを言われても困るだけだ。けれどしばらく様子を見ていたが片平の言葉は止むことがない。
「か、片平、電話を替わって」
そもそもこれは僕が勝手にヤキモチを妬いたのがいけないのだ。優哉はなにも悪いことはしていないのだから、怒られるのはちょっと理不尽な気がする。僕のほうが謝らなくてはいけないだろう。
「……」
憤慨している片平におずおずと手を伸ばしてみた。すると彼女は口を閉ざして僕を振り返る。じっと大きな黒い瞳がこちらを見つめて、なんだか背筋が伸びた。もしかしたら彼女なりに僕が言い出しやすい状況を作ってくれたのかもしれない。
ゆっくりと差し出された携帯電話からは片平を呼ぶ声が聞こえる。僕はそれを受け取りそっと耳に当てた。
「もしもし、あずみ?」
「ごめん、優哉」
「え? 佐樹さん?」
苛立ったような声が僕の言葉ですぐさま戸惑いに変わる。小さく深呼吸すれば、電話の向こうがしんと静まった。けれどなんと言えばいいのかわからず言葉に詰まる。
「佐樹さん、泣いてたってほんと?」
言葉を探し思考を巡らせていると先に口火を切ったのは優哉で、様子をうかがう不安げな声が聞こえてきた。その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられる思いがした。また僕は余計な心配をかけてしまっただろうか。
「……ううん、泣いてない。ちょっと不安になっただけだ」
「不安って?」
小さな僕の声に問いかける優哉の声は静かで優しい。泣いてないと言ったばかりなのに、その声に喉が震えた。気遣う気配が感じられて嬉しいけれど、それとともに申し訳なさも感じる。
僕はどうしていつも彼に心配ばかりかけてしまうのだろう。変わらなくちゃいけないと思うのにうまくいかない。
「優哉の世界が広がるの喜ぶべきなのに、寂しかったんだ。遠くに行ってしまいそうで不安になった」
「俺はずっと佐樹さんの傍にいるよ」
「うん、ごめん。わかってるつもりだったんだけど。思ってるよりもずっと僕は欲張りだった」
自分を繕っていたけれど僕は彼の一番でありたかったのだ。ほかの人が目に入らないくらい自分を見つめていて欲しかった。ずっと隣にいて欲しかった。でもそれは僕の独りよがりな我がままだ。そんな思いで優哉を閉じ込めてしまうわけにはいかない。
「ごめん、勝手にヤキモチ妬いてた」
「ヤキモチ? ……え? もしかして浩介? あ、幸村のこと?」
「……うん、幸村さん。お前が珍しく親しくしてるから、特別なのかなって思って」
あの人の名前が優哉の口からこぼれて少し胸が苦しくなる。名前を呼ぶほど仲がいいなんて知らなかった。やっぱり特別なのかなと思うほどに涙が込み上がってしまいそうになる。
僕の知らない優哉が増えるのが寂しくて、怖くて、しがみつきたくなった。彼のことを見ないでと言ったら、きっと困った顔をして笑うのだろうな。ああ、駄目だ。心の中は独占欲で真っ黒だ。
「……不安って、そういうことか」
「え?」
口を引き結んで言葉を途切れさせた僕に、ぽつりと優哉は小さく呟いた。どこか安堵したようなその声に僕はわけもわからず首を傾げてしまう。けれどそんな疑問を解くように彼はゆっくりと話してくれた。
「あいつは特別ってわけじゃないですよ。気が合うのは確かですが、特別親しくしているわけじゃないです。間違ってもお互いなにかあるなんてこともない。それに佐樹さん以上に特別なもの、俺にはないんですから」
俯いて足元を見ていたら、心に引っかかった刺を彼は一つずつ抜き去ってくれた。そして自分がなによりも一番なのだと、言葉にしてもらえただけで現金だが心底安堵した気持ちになる。
いつでも優哉は僕の欲しい言葉を与えてくれる。それだけでどれほど想いをかけてくれているのかが伝わる気がした。どうして心を疑うなんてしたんだろう。僕は本当に馬鹿だ。
「それにあいつは従兄弟なんですよ」
「え? 従兄弟?」
思いがけない言葉に頭が混乱する。優哉が親しくしているのだから母方の親戚ではないだろう。それにしても祖父母や時雨さんのほかに家族がいたなんて、まったく知らなかった。
「時雨さんにあんな大きな子供がいたのか?」
でも時雨さんは結婚していなかった気がする。それに年齢的に合わない気がするのだがどういうことだろう。
「あ、いえ、時雨の子供じゃなくて、上に伯母がいるんです。それと浩介はああ見えてまだ二十七ですよ」
「え? そんなに若かったのか。ごめん、僕と近いかと思ってた」
大人びているし、編集長しているくらいだからそこそこの年齢だと思っていた。けれど間違われるのはよくあることなのか、優哉は老けてるでしょうと声を上げて笑う。
「伯母も浩介も日本が長くて、俺も会うようになったのは最近です。佐樹さんには言い出すきっかけがなくて」
「そっか、そうだったんだな」
優哉があんなにも親しげにしていたのは家族だったからなのか。それがわかるとくすぶっていたものが解けてすとんと胸に落ちた。あの距離も気安さも家族に向けるものなら納得がいく。
「誤解しててごめん」
「佐樹さんがヤキモチ妬いてくれるなんて思わなかった。でももっと早く話しておけばよかったですね」
「大丈夫、もうすっきりした」
優しい声を聞いて胸に黒く貼り付いてたものがはがれ落ちた気がした。あんなにも胸が苦しかったのにいまはもう痛んだりしない。でも優哉にまたほかに親しい人ができたら同じ嫉妬をしてしまうかもしれない。けれど次はちゃんと確かめよう。一人で考え込むのはやめよう。
「佐樹さん、俺もずっと気になっていたことがあるんです」
「なに?」
ふいに真剣味を帯びた声に耳を傾けると、電話口の向こうで優哉が小さく息をついたのがわかる。気になることとは一体なんだろう。
「佐樹さんやたらと浩介のことばかり見てましたよね」
「え! ち、違う! それは優哉が気になって、それで見てたのは本当だけど、他意はないっていうか」
まさかそんな勘違いをされているとは思わなかった。びっくりしすぎて声が上擦ってしまう。けれどほかの人に気をとられているだなんて誤解はされたくなくて、慌てて早口でまくし立ててしまった。
「それは、いまわかりました。……よかった。佐樹さんがあいつのこと気になってるのかと思って、かなり俺もヤキモチ妬いてました」
「優哉がヤキモチ?」
そんな素振り全然見せてなかったのに、安心しきった声を出されたら文句も言えない。でもヤキモチを妬いたと言われて嬉しかった。ずっと視線を向けていたこと、僕が思うよりもちゃんと見ていてくれたんだ。
でも誤解されるとこんな気分になるのか。優哉には申し訳ないことをしたな。恋人を疑うだなんてことやっぱりしちゃいけないなと反省してしまう。
「佐樹さん」
「ん?」
「また不安になったらいつでも言葉にしてくれていいんですよ。佐樹さんにヤキモチ妬かれるのも、甘えられるのも嬉しいから。一人で抱えたりしないで」
「……うん。でも、僕は甘えてばかりだよ」
いつだって両手を広げて受け止めてくれる優哉に甘えている。いまもこうしてぐるぐると空回る僕の心をすくい上げてくれた。彼はどんな時も僕を否定することはない。優しく丸ごと抱きしめようとしてくれる。それなのにこれ以上甘えていいのだろうか。
「佐樹さんはもっと甘えてわがまま言って、俺を困らせてくれればいいんです」
「そんなこと言うの、ずるい」
「今日は帰ったら一番に抱きしめるから、待っててくださいね」
じわじわと頬が熱くなって耳まで熱が伝わった。胸の鼓動も早くなって、いま目の前に優哉がいたらきっと飛びついてる。電話越しなのがもどかしくなってきた。どうしてこんなに僕を喜ばせるのが得意なのだろう。優哉には敵わないなって思ってしまう。
「優哉、好きだよ」
「俺も佐樹さんが好きだよ」
「うん、ありがとう」
自然と口元がほころんで、沈んでた気持ちも浮上していく。愛おしい人からもらうたった二文字の言葉で、こんなにも心が浮き立つんだって改めて知った気がする。ああ、彼を好きでよかった――単純だけれどそんな想いで胸が満たされた。
ほかの誰でもない優哉だからこんな気持ちになれるんだ。そう思うと好きでいられることが幸せで仕方がなくなる。早く会って抱きしめたい気持ちが胸に広がった。
「やっといい顔になったわね」
途切れた電話を片平に差し出すと、眩しいくらいの笑顔を返してくれる。小さく頷いた僕を見る彼女は、自分のことのように嬉しそうだ。いつも僕の後ろ向きな相談に乗ってくれる片平には感謝をしなければいけないなと思った。
「ありがとうな」
「じゃあ、お礼にあとでデザートおごってね」
「いいよ。好きなの食べに行こう」
「やったー! パフェにパンケーキね」
至極嬉しそうにガッツポーズした片平は僕の腕をとって軽い足取りで歩き出す。それにつられて一歩前へと踏み出せば、なんだか見慣れた町並みも明るく見える気がした。
「どんなものも気持ち次第だな」
疑心暗鬼になっていたから、心のフィルターが少しばかり曇っていたのかもしれない。だからまっすぐに僕を見つめる優哉の気持ちも霞んでしまっていたんだ。けれどいまはとてもクリアに見える。
今度また不安になった時はまっすぐに優哉に伝えよう。きっと彼なら抱きしめてくれる。そうしたらきっと不安も迷いも寂しささえも消し飛んでしまうはずだ。これからも信じていよう、誰よりも愛おしい人のことを――。
[嫉妬Ⅰ/end]