嫉妬Ⅱ-01
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 嫉妬で心が真っ黒になって苦しかったと涙を浮かべて嘆くその人は、俺から見れば真っ白すぎて眩しいほどだ。彼はいつでもまっすぐな心で俺を愛してくれる。それは生きにくい世の中にあっても驚くほど純白な想いだ。
 そんな無垢な心をかき乱すことができるのが、自分だけなのだと思えば優越感に浸れてしまうほど気分が良くなれた。彼が思うよりもずっと自分の心は真っ黒だと思う。

 いつだって彼を独占していたいし、自分だけを見ていればいいとさえ思う。余裕ぶった顔をしていても、少しでも彼がよそ見すればその目を塞いでしまいたくなる。どこにも行かないように強固な鎖でつなぎ止めてしまいたいと思うのもいつものことだ。
 だからほかの誰かに触れさせるのも笑いかけるのも、どうしても許せなくなる時がある。

 店を出た佐樹さんの背中を見送ったのは数分前のこと。けれどなんとなく嫌な予感がして、俺は厨房を出て店の入り口へと向かった。するとまだ店の前に彼はいた。柔らかな笑みを浮かべて目の前の男に向かいなにかを話しかけている。
 それを見た瞬間、苛立ちが腹の底から湧いて、勢いよく扉を押し開いていた。突然開いた扉に彼は驚いた顔をして振り返る。

「優哉? どうしたんだ」

 目を瞬かせた彼は現れたのが俺だと気づくと、目元を和らげて小さく首を傾げる。嬉しそうな表情を浮かべられると苛立ちが少し奥へと引っ込んだ。けれど彼と一緒にいる男を見て自然と向ける視線がきつくなる。

「浩介、ここでなにしてるんだ」

「お前こそどうしたんだ」

「質問を質問で返すな」

 向かい合わせに彼と立っている男――幸村浩介は、目を瞬かせ驚いたような表情を浮かべる。しかし本当に驚いているわけではないのは、ふっと口の端を上げた薄い笑みですぐにわかった。俺がこうして出てくるのは予想の範囲だったのだろう。
 この男は約束の時間を違えない。来ると言えば必ずその日その時間にやってくる。だからいつまで経っても姿を現さないことに、俺が気づくのは予測済みだったのだ。

「佐樹さんが写真に興味があるってお前このあいだ言ってただろう。招待券が余ってるから誘ったんだよ」

「……佐樹さん?」

「お前から聞いてる名前それしか知らないからな。佐樹さん、苗字はなんて言うんですか?」

「ああ、西岡だよ」

「そうか、でも佐樹さんのほうが可愛いな」

 気安く名前を呼ぶ浩介を睨み付けると苦笑いを浮かべて肩をすくめる。確かに彼のことは名前でしか呼んでいない。だとしてもさらに苗字まで聞いておきながら、なぜこの男はまだ気安く呼ぶのだ。
 しかも会話などいままでしたことないくせに、呼び止めた上に出かける約束を取り付けようとしている。こんな状況が許せるはずもなく、無意識に伸びた手が彼との距離を引きはがそうと強く浩介の肩を押した。

「お前は仕事で休日が休めないもんな」

 だからと言ってお前と行く必要もないだろう。目を細めてさらに睨み付けてやると、黙って浩介は一歩後ろへと下がった。口元を歪めて笑いをこらえているのに気づいたが、不機嫌さを隠さずに佐樹さんを背に隠した。
 彼が店を出た時間と浩介が店にやってくる時間が被ったのは偶然だから、深く勘ぐる必要はないことはわかっている。けれど俺をからかうように笑う浩介には腹が立ってしまうのだ。

「優哉?」

 突然目の前に立った俺に驚いたのか、彼は俺の腕をぎゅっと掴み戸惑った声で呼びかけてくる。けれどいま振り返ったら不機嫌さを隠しきれない。後ろ手に彼の手を掴むと俺は黙ってその手を握った。

「佐樹さん、別に俺と一緒じゃなくてもいいんですよ。友達と行ってきてください」

「え? でも幸村くんも興味あるって言ってなかったか?」

 目の前で睨みを利かせる俺をわざと無視して、浩介は後ろにいる佐樹さんに声をかけた。その声に彼は肩越しに顔をのぞかせる。どういうつもりで彼に声をかけたのかは知らないが、人の好意を無下にできないこの人が黙って引き下がるとは思えない。

「あ、その展覧会は今週末で終わりですよ」

「え? そうなのか。今週中に誰か誘える人いたかな。どうしよう」

「俺は週末は空いてますけど」

 追い打ちをかけるように囁く浩介の声に、佐樹さんは小さく俯き考え込み始めた。握った手に力を込めるが彼は考えることに集中してしまっているようだ。先ほど感じた嫌な予感がまた心の中で頭をもたげる。

「佐樹さん」

「なぁ、優哉。幸村くんと行ってもいいか?」

「……」

 どうしてそういうことになるのだ。いくら可愛く顔をのぞき込まれても頷きようがない。下心があるかもしれないほかの男と、二人きりで出かけるのを許せるわけがないだろう。そこまで俺は心の広い人間じゃない。
 どうしてこうも佐樹さんはうっかりしてるのだろう。俺が視線を向けただけでヤキモチを妬いたのを忘れたのか。彼の心に他意がないのはわかっていても、それでもこれ以上は我慢ができない。

「俺が時間を空けます」

「え? だって優哉、店あるだろう」

「午前中だけならなんとかします」

「でも週末は忙しいっていつも」

 それ以外に自分が納得できる方法がない。驚きに目を見開く彼を引き寄せると、言い募る声を押し止めるように強く抱きしめた。知っていながらむざむざとほかの男の隣を歩かせたくない。無邪気に笑っている姿を想像すれば、心がどす黒くなりそうだ。

 急な予定だったので店で働く二人とも相談をし、土曜日にランチタイムだけ休むことになった。我がままに快く応じてくれた二人には感謝しなければならない。
 佐樹さんは最後まで店の心配をしていたけれど、日笠さんとエリオになだめすかされてようやく頷いた。こういう時に力になってもらえる人がいるのはありがたいものだ。しかし数ヶ月ぶりに彼との休日を手に入れたわけだが、許された時間には限りがある。
 遅くともディナータイムの仕込みには戻らなくてはいけない。早起きをして朝食をとると、時間より早めに家を出ることにした。

「お前とこうして歩くの久しぶりだな」

「そうですね。でもあんまりのんびりできなくてすみません」

「いいんだ。僕の我がままみたいなものだし」

 繋いだ手をぎゅっと掴み、照れたようにはにかむ横顔が愛おしい。どうしても休みが合わない仕事をしているから、彼のこんな顔を見るのも久しぶりだ。
 時々つまらない思いをさせているんじゃないかと不安になることもある。でもそんなことを思っても絶対に口にしてはくれないだろうけど。

「佐樹さん、これは俺の我がままだよ」

「そっか。でも優哉の我がままは珍しいから、たまにはいいさ」

「……そうですかね」

 あなたが思うよりも俺は我慢が利かなくて我がままで自分勝手な男だよ。そう言葉にしてしまいそうになったけど、楽しげな笑みを見ていたらそれも喉の奥に押し止められた。彼の目に映る俺は少し繕われている気がする。
 よく佐樹さんは俺のことを大人びていて悔しいって言うけど、余裕がありそうに大人ぶっているだけだ。彼の前ではかっこいい自分でありたいだけで、心の中ではいつも地団駄踏んで子供みたいなことを考えている。

「どうした?」

「なんでもないですよ」

 俺はいつも本当の自分を知られるのが怖いと思っている。でも彼の前で嘘をつきたくないと思う自分もいて、いつも胸の中がぐるぐると渦巻いていた。

「あ、あそこのビルだ」

「グループ展なんですね」

「結構な数の写真家が参加してるんだって」

 前を向いて歩く彼を見つめて少し気持ちを入れ替えた。いまは一人で葛藤している場合じゃない。俯けば彼に気づかれてしまう。せっかくの二人の時間を台無しにはしたくない。

「一階と二階が展示スペースみたいだ」

 彼が進んでいった先には、通りに面した二階と三階がガラス張りになっているイベント用のビルがあった。看板がビルの前に立てかけてあって、そこが会場だと言うことがすぐにわかる。中をのぞくと思いのほか人があふれているのが見えた。

「盛況みたいですね」

「うん、前評判も良かったみたいなんだ。見に来られて良かった」

 建物内に入ると大小様々なパネルに景色や人、色が写し出されていた。写真に詳しくはないが、素人目に見ても目を引く見応えがある作品ばかりだ。しかし彼の目がキラキラと輝き出したから、写真よりもそっちのほうが自分には眩しく映った。
 佐樹さんは本当に写真が好きだ。見ている時も撮る時も楽しげで、すごく生き生きとし始める。そんな表情を見ているとこちらまで幸せな気分になれた。

「優哉、二階に行ってもいいか」

「いいですよ」

 写真なんて空間を切り取っただけのものだと思っていた。けれど彼の撮った真っ赤な夕日に涙がこぼれそうになったことがある。その時の感動は言葉にし尽くせなかった。