この人の世界は心のままに美しくて優しいんだと感じた瞬間だ。だからいつだって俺は彼の隣にいたいって思ってしまう。彼の心に触れると自分も優しくなれるような気がするのだ。
「あれ? 西岡?」
「え? あ、えーと、あっ! もしかして、沢木?」
二階に上がって写真を眺めていると、その場にいた男がふいに佐樹さんの肩を叩く。驚いたように振り返った彼はしばらくその男を見つめていたが、なにかを思い出したように男――沢木を指さした。自分に気づいたことを知ると沢木は親しげに彼の両肩を掴んだ。
「うわぁ、すげぇ偶然。偶然だよな?」
「うん、お前が出展してるって知らなかった。悪い」
「いや、いいけどさ。十年ぶりくらい? お前は変わらないなぁ」
「沢木はちょっと老けた?」
他愛もないことで笑い合う二人は、長いあいだ離れていたとは思えないほどに気安い。十年以上前の知り合いと言うことは大学時代だろうか。それとももっと前か。でもどちらにしても俺の知らない佐樹さんだ。
高揚したようにいつもより饒舌になる彼がちょっと妬ましい。そんな風に笑わないで、ほかのやつをまっすぐと見つめないで、そう言葉にできたらどんなに楽だろう。いまは傍にいてくれるから二人の隙間を感じなくなったなんて、嘘だ。
「優哉?」
「あ、すみません」
気づいたら手が伸びていた。佐樹さんの腕を掴み、引き寄せてしまう。目を瞬かせて振り返った彼を見て頬が熱くなった。恋人の友人に嫉妬するなんて、どれだけ俺は子供なんだろう。
下手をすれば彼に恥ずかしい思いをさせてしまう。もう少し、も少しだけ心に余裕が持ちたい。この人に迷惑をかけないように。
「お前、相変わらず友達がイケメンだな」
「え?」
「昔からお前の身近にいる友達は顔がいいやつばかりだったよな」
「えっと」
友達――そんな言葉でひとくくりにされるのは嫌だ。でもうろたえたように視線をさまよわせる彼を困らせたいわけじゃない。俺はあなたを苦しめるために傍にいるわけじゃない。
だから俺たちの関係は、いまここで言葉にするべきではない。その必要はないんだ。友達、それだけで済むなら飲み込まなくてはいけないことだ。
「どうもはじめまして沢木一平です。西岡とは高校と大学が一緒だったんですよ」
「……橘優哉です。写真、一緒に撮られてたんですか」
「そう、高校まで一緒に部活をやってたんですよ」
差し伸べられた手を躊躇したが握り返した。相手は邪気なく友好的に接してくれようとしている。ここで子供じみた反抗をしても佐樹さんを困らせるだけだ。
俺の知らない彼を知っているというこの男に、いま嫉妬をするのは馬鹿のすることだろう。彼だって俺のことをすべて知っているわけじゃない。だからどうしたってお互いのすべてを知ることはできやしないんだ。
「近いうち高校の同窓会をやるからお前も来いよ」
「ああ、そうだな」
けれど楽しげに笑い合う姿を見ていると、なんだか少し遠くに感じてしまう。
「あれ? お前、その指輪。もしかして再婚したの?」
「いや、これは、その」
「お前のことみんな心配してたから、それならそうと言ってくれれば」
左手の薬指に向けられた視線に彼の顔が強張ったように固くなる。目の前にいるのが佐樹さんのお友達でなかったら、胸ぐら掴んで言葉を止めていたかもしれない。
余計なことを喋るその口を息ごと止めてしまいたい。できることならいますぐ彼の腕をとってこの場から立ち去りたいくらいだ。でも彼が強く俺の手を握るから、心臓が跳ね上がって止まってしまいそうになる。
「……じゃない」
「え? なに?」
「友達じゃないんだ」
握られている手で引き留めたけれど、彼は一歩も引かずに手をさらに強く握りしめてくる。心臓の音が耳の傍で聞こえるくらいにうるさく鳴っているのに、周りの音は遠ざかっていく。俺は佐樹さんの唇が動くのをただ見つめるしかできなかった。
「再婚はしてない。この人と、優哉と付き合ってるんだ」
どうしてこんなにもまっすぐでいられるのだろう。誤魔化したくないという彼の心が眩しすぎて、薄汚れた心が光に晒されひりひりと痛むようだ。いつだって俺は彼に触れる誰かがいなくなる可能性を望んでいる。
この人には太陽の下で伸びやかに生きて欲しいと思う心に反して、すべてを取り上げてしまいたいとも思っている。こんな真っ黒な想いで傍にいたら、彼の心まで汚してしまうんじゃないかと不安になってしまうほどだ。
それなのに佐樹さんは繕わずに俺を受け入れてくれる。手を震わせながらも、愛してるのだと伝えてくれる。
「佐樹さん、あんなこと言ってたら友達がいなくなりますよ」
「いいんだ。それで途切れるならそれだけの縁ってことだろう」
大したことはないと笑う彼の顔は清々しい。沢木は驚いた顔をしたが彼を否定することはなかった。むしろ好意的であったように思う。少しくらい嫌なやつだったら文句も言えたのに、それもできなかった。
でもそれは彼がこれまでどれほど誠実であったかを物語っている。佐樹さんは誰に対しても実直だ。だから人に愛される。それを実感すると、また少し真っ黒な独占欲がちりちりと焦げ出した気がした。
「それよりもお前のことのほうが大切だよ」
「え?」
前を歩く彼が至極幸せそうな笑みを浮かべて振り返った。紡ぎ出された言葉を飲み込んだ俺はただひたすらにその顔を見つめる。さっきまで焦げ付いていた心が清水に洗い流されていくような気分になった。
彼の言葉一つで心が右へ左へ簡単に揺れ動いてしまう。こんなにも自分は単純だっただろうか。
「驚くなよ。本当のことだ」
「……あんまり、俺を甘やかさないで」
嬉しくて仕方がないのに言葉が裏返る。でも繋いだ手を離さずにいてくれるから、心が震えてしまう。佐樹さんの隣で見る世界はとても明るくて、涙がこぼれそうになる。一緒にいると自分が生きていることを実感する。
血が通って息をして胸を鼓動させて生きていることを思い出す。
「優哉、お前といる世界はいつでも明るくて眩しいよ。一緒にいられることが僕は嬉しいんだ。だからこれからも我がまま言わせてくれ」
愛しいという気持ちが堰を切ってあふれてしまいそうだ。握り合わせた手からこの想いが伝わればいいのに。傍にいればいるほど好きや愛してるじゃ足りなくなる。
「佐樹さんのは我がままって言わないよ」
「んー、でも結構お前が思ってるより僕は独占欲が強いぞ」
「そうかな? 俺の心の中はもっとすごいよ」
俺の心をのぞいたら彼の心が離れてしまうんじゃないかって心配になるほどだ。優しい紳士を気取っていてもいつか化けの皮が剥がれそうで怖い。でもこの人が傍からいなくなるほうがもっと怖いから、凶暴な想いは飼い慣らしてしまわなければいけない。
「どんな優哉でも好きだぞ」
「信じてもいいですか?」
「当たり前だろう」
臆病な心を見透かすような優しい言葉に思いが募る。この心に何度救われてきただろう。いつだって彼はうずくまる俺に手を差し伸べてくれた。俯いた時にはいつもその手を握りしめてくれる。それだけでどれほど勇気づけられたかわからない。
「でもいつか俺が手に負えなくなったら、放り投げてもいいよ。それでもまだ愛してくれるならお前だけだって言って抱きしめて」
もしも心が暴走してあなたを傷つけそうになったら、きっと俺の心はボロボロになる。自分で自分の首を絞めて身動きが取れなくなってしまうだろう。
「何度でも言うよ。何度だって抱きしめる。だからそんな顔するな」
「佐樹さんが好きすぎて泣きそうだよ」
なだめるように頭を撫でてくれる手が温かくて胸が締めつけられる。困ったように笑うその表情が愛おしくて、いますぐに抱きしめて両腕に閉じ込めてしまいたい。
「佐樹さん、抱きしめてもいい?」
「……いいよ」
人が行き交う道の途中。誰が振り返るともしれない場所で、繋ぎ合わせた手を離さなくなったのはいつからだったろう。気づけば彼はどんどんと強さを身につけていく。そして俺の我がままを受け止めて優しく微笑んでくれる。
「大好きだよ」
「うん」
いまもまだ胸を焦がす嫉妬は尽きないけれど、まっすぐに愛してくれる心に気持ちが凪いでいく。もしかしたらこの人の隣にいれば俺は道を踏み外すことはないかもしれない。だからどうかこの手を離さないでいて。
いつか真っ黒な想いが白く塗り替えられる日が来るかもしれないから。
[嫉妬Ⅱ/end]
2016/09/13