いつも触れて知っているつもりでいたその身体は、思った以上に華奢で抱きしめるのが少し怖いくらいだった。
けれど彼の腕はすがりつくように強く俺の背に抱きついて、真っ白な肌を朱に染めると、涙を浮かべながら何度もうわごとみたいに好きだと言うから、そのたびに彼の想いが愛おしくて仕方がないと思った。
「好きだよ、佐樹さん」
そんな愛しいと思える人が、自分のすぐ傍で安心しきった顔で眠る姿を見られる、それはすごく幸せなことだ。毎日でも見ていたいと思うのは少々重たい気もするが、この人は寝顔まで無邪気でほっとした気持ちになる。
小さな寝息を立てる横顔を見下ろして、頬にかかる髪をすくえば身じろぎながら彼はなにかを手で探るように腕を伸ばしてきた。
「可愛い」
自分のTシャツの胸元を握り、そこに擦り寄る仕草が可愛らしくて思わず頬が緩む。
「……それにしても」
ふっと視線を持ち上げて頭上の時計を確認した途端、自然とため息が漏れた。
「すっきり目覚めすぎだろ」
時刻は午前六時を少し回ったところだ。
ここ数年、仮眠抜きで目覚ましもなくこんなに早く起きた試しがない。
「寝起きの悪さが欲求不満のせいとか情けなすぎる」
けれど寝る時にこの寝顔を見ることはあっても、朝に彼より先に起きたことがないのも確かだった。再びちらりと寝顔に視線を落とし、つい脱力して頭を抱えてしまう。申し訳ない気分になるのはなぜだろうか。
「……藤堂?」
「あ、すみません。起こしちゃいましたか」
サラサラとした触り心地につられるまま彼の髪を撫でていたら、ふいに睫毛が揺れて眠たげな瞳がこちらを見上げる。
「平気」
「すみません」
小さな声と共にぎゅっと抱きつかれて、自分でもわかるほどにやけてしまった。彼のさり気ない行動はあまりにも素直で、それがたまらなく愛おしく感じる。
「いま、何時?」
「六時すぎですよ」
「……早いな、お前ちゃんと寝たか?」
一瞬、目を瞬かせて固まった彼の言いたいことはよくわかっている。彼もまた、俺がそんなに早く起きたことがないのを充分すぎるほどよく知っているからだ。
「寝ましたよ。快眠すぎるくらいです」
「やっぱり人間、我慢は毒だよな」
「……なんですかそれは」
意味ありげな表情で笑いをこらえる彼に、訝しむ視線を向ければふっと小さく肩を震わせて吹き出された。
「全然、嫌じゃなかったぞ」
「……」
「藤堂は嫌だった? やっぱり面倒だった?」
小さく首を傾げこちらを見上げる、その視線に思わず言葉が詰まった。まったくこれに計算という意識がない彼。よくあることだけどほんとに参ってしまう。可愛いすぎるというより、軽く小悪魔に思えてめまいがする。
「藤堂?」
ついその目につられてなにか言いたげな彼の唇にキスをしたら、大きく見開かれた瞳にはっきりと自分の姿が映った。
「佐樹さん、そんなこと言ったら俺はいつでも佐樹さんが欲しいよ」
「えっ、あ……それは、ちょっと困る」
右往左往とする視線と共に、頬だけでなく首筋や耳までもが見る見るうちに赤くなる。
その表情につい悪戯心を刺激されて、いまだベッドに横たわるその身体に覆い被さってしまう。すると途端に大袈裟なほどその身体が跳ねた。
「冗談ですよ」
「……い、いきなり心臓に悪い冗談を言うな」
「すみません」
ほんとはまったく冗談ではないのだが、ほんの少し怯えた目するその姿を見たら、さすがにそれ以上の悪戯をする気は起きない。苦笑いを浮かべつつ、今度は頬にキスをした。
「身体はつらくないですか。少し無理させた気がするんですけど」
「ん、大丈夫。想像してたより全然平気だった」
「そう、それは良かった」
なだめるように髪を梳けば、強張っていた身体の力がふっと抜けたのが目に見てわかる。
おずおずと伸ばされた腕に応えるように彼の背中を抱き寄せると、ぎゅっと強く抱きつかれた。
「でも……どうだったかって聞かれたら、まだわかんないけど」
頬を赤らめ口ごもりながら、顔を隠すように肩へ擦り寄るのは最近の彼の癖だ。気持ちを誤魔化したり、恥ずかしくて仕方がなかったり、甘えたり、そんな時によくこれをする。
「そんなに最初からいいものじゃないですよ」
「ふぅん、じゃあ、そのうちもっと慣れるか?」
「……だといいですけどね」
真面目な顔をしてこちらをじっと見つめる彼の目を見ると、不思議と優しく甘やかしてあげたい衝動に駆られる。多分それは真逆の気持ちが、真っ直ぐな彼に触れて裏返されてしまうからなのかもしれない。
なんでこの人は、こんなに可愛いんだろうか。戸惑いがちなその顔が、どうしようもなく可愛い。純粋というか、嘘がないというか――とにかく、今時珍しいくらい穢れを知らない。
頬を染めながら視線をさ迷わせるその表情に、胸の奥が強く締め付けられる。いままで自分の傍にはなかったこの眩しさを改めて感じて、たまらなく胸が苦しくなった。
「藤堂?」
誰にも彼を渡したくない、誰にもこんな彼を見せたくない。ずっと自分の傍に繋ぎとめておけたら良いのに――そんな風にどんどん重たくなっていく。そんな俺の気持ちを知ったら、彼はどう思うだろう。
「どうした? 眠くなったか」
「いいえ」
嫌になって、去ってしまうだろうか。
「そっか、たまには朝ご飯、食べるか?」
「そうですね」
でもきっとそんな日が来たとしたら、俺の時間はそこで止まってしまうかもしれない。そんなことになるくらいならいっそこの手を――。
「佐樹さんは、まだ休んでてください。珈琲が落ちたら声をかけますから」
抱きしめていた身体をベッドへそっと下ろしてタオルケットを肩までかけてあげると、俺は不思議そうに瞬きを繰り返す彼の額にキスをした。
「藤堂」
「なんですか?」
ベッドから下りた俺のTシャツの裾を掴む手を振り返ると、真っ直ぐとこちらを見る目がほんの少し揺らめいた。
「佐樹さん? どうしたの」
「あ、悪い。ちょっと……寂しくなった。馬鹿みたいだよな。おんなじ家ん中にいるのに寂しいとかって」
戸惑いがちに笑うその顔を見たら、頭が真っ白になってなにも考えられなくなる。勢い任せに彼を抱き寄せて、腕にすっぽりと収まってしまうその小さな身体をただ強く胸に押しつけた。
「……ありがとう。ごめんな」
「佐樹さんが可愛いのはいまに始まったことじゃないですから」
頬を染めて俯く彼を見ていると、こんなにも真っ白で可愛い人を前にこの先自分の理性が保てるのか不安になってくる。
飢えた獣は味をしめるとすぐ腹が減るものだ。
「藤堂? ため息なんかついてどうした?」
「可愛い兎をどうやって保護すべきか、悩んでただけです」
「は?」
恐らくまったく意味を理解していないであろう彼は、訝しげな顔で首を傾げたまま俺をじっと見つめる。
そんな彼をタオルケットごと抱き上げると、その表情は驚きに変わった。
「な、なに」
「寂しいなら一緒に向こうへ行きましょう」
「え? あ、自分で歩くから、下ろせっ」
「嫌です」
ジタバタもがく彼をしっかりと抱きしめて、真っ赤にしている頬に顔を寄せれば急にぴたりと動きが止まる。
「……藤堂はお腹いっぱいになると不安になるタイプか?」
「え?」
今度は彼の言葉に俺が目を丸くしてしまった。じっと窺うように見つめる視線に首を傾げると、先程まで抵抗を示していた腕が首元に絡む。
「欲がないな、お前は」
「……なにを言ってるんですか。欲深いですよ俺は」
「欲しいもの、簡単に手放そうとするなよ」
まるで心の中を見透かしたようなことを彼は言う。
「二人のあいだではそういうのなしだぞ。いまもしも、お前が離れたら全力で追いかけてやる」
あ然とする俺を子供みたいな顔で笑って、ぎゅっと強くしがみついてきた彼はやっぱり真っ白で眩しかった。
「今日の昼は少し出掛けよう。夜は時間まで二人でゆっくり過ごそう。もっと二人でいられる時間楽しめよ……寂しいだろ」
「そうですね、すみません」
やんわりと唇に触れた温もりにふっと気持ちが軽くなる。それを返すように口づければ、彼はやけに嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。
「どうしたんですか?」
「ん、幸せだなぁって噛みしめた」
「佐樹さんは可愛いね」
朱に染めた頬を緩めたまま抱きついてくる、可愛らしい恋人を抱えて俺はのんびりとリビングへ足を向けた。
[ふたりの時間/end]