こぼれ落ちる愛情
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 のんびりと草原を歩いているだけで爽やかで温かな風が吹き抜けていき、とても心地良い。
 森に近い大木の木陰ではミリィを筆頭にして、騎士たちが休憩所を作っている最中だ。

 騒がしい世界から隔離された静かで穏やかな空間。
 まるで草原にロヴェと自分しかいない錯覚がして、繋いだ手にほんのわずか力を込めると、リトは彼の腕にすり寄った。

「どうした?」

「なんだか甘えたい気分だったんです」

「本当に俺の子猫は愛らしいな」

 美しい黄金色の瞳はやんわりと細められ、微笑んだロヴェはリトの頬を撫でると身を屈め近づいてくる。
 迎え入れるために少し顎を上げたら、彼の瞳が喜びの色を浮かべた途端に繋いだ手を引かれ、強く体を抱き寄せられた。

「んっ……」

 いきなり深い口づけを与えられてしまい、息まで絡め取られそうになる。
 こういった性急な行為はいままでされたことがなかったのでひどく戸惑うものの、全力で求められている感じがしてたまらなくもあった。

 空いた手を伸ばしてロヴェの頬を撫でれば、さらに彼はリトをきつく抱きしめ口づけを深くする。

(気持ちいいけど。……ロヴェ、なにか不安なのかな)

 いまにも草地に押し倒されてしまいそうな勢いなのだが、そんな状況よりもリトはロヴェの心の影が心配だった。
 指先を彼のふわふわとした柔らかい耳まで伸ばして優しくくすぐったら、ピクリと反応したあと小さく震えるみたいに揺れる。

「すまない。こんな場所で」

「謝らないでください。僕、ロヴェと口づけするの好きです」

「……すまない」

「ロヴェ、なにか悩んでますか? 僕に話して楽にはなりませんか?」

 番として、伴侶として傍にいることを選んで、これからというところで誘拐事件があり、すり減り続けてきた心が悲鳴を上げているのではないだろうか。
 なにも手にしていない状態で我慢ができても、一度手にして重みやぬくもりを知ってから失うのでは大きく違う。

 それでなくとも気の重い処断を行う予定が控えているのに、自分がきっかけでロヴェを余計に悩ませ、苦しませたくない。
 俯きがちになってしまったロヴェの両手をそっと握り、言葉を紡ぐまでリトは辛抱強く待った。

「俺の中でリトの存在がどんどんと大きくなっているんだ。いままでは君が望むならなんでも応えようと思っていた。……だが、どんなに望まれても手放せそうにない。過去の王族たちは自分の元を去った番の幸せを祈り見送ったと言うが、俺にはできそうにない」

「なぜそんなことを考えたんですか? 僕は言いましたよね? ロヴェの傍にずっといるって、一緒に生きていきましょうって」

「日に日に君への衝動が強くなる。君が攫われたのだと知ったときは、頭がおかしくなりそうだった。我を忘れていつかリトを傷つけてしまいそうで、俺の本性を見た君が恐れを抱いてしまったら、傍にいるのが怖くなったら。自分の感情を言葉にしたら、己を止められなくなってしまいそうで、俺は……」

 ロヴェはことあるごとにリトを〝子猫〟と呼ぶ。
 言葉のとおりロヴェだけでなく、はたから見ても大きな猛獣と貧相で小さな猫に見えるだろうし、のし掛かり食らいついたらあっという間な感じは否めない。

 最初に自分の衝動に戸惑い身を引いたあとから、ロヴェは常に感情衝動を抑えるための装身具――腕輪を身につけている。
 始めは一つ、いまでは三連の腕輪をしており、埋め込まれている魔力石の数が増えているのも気づいていた。

 体に負担があるのではとリトが訊ねても、頑なに少しでも傍にいたい、閨は別にしたくないというので口を挟まないようにしたのだが。

「ロヴェ、ずっと我慢し続けたら僕ではなく貴方が壊れてしまいます。自分でもすべてを把握ができなくて怖いんですよね? でも押さえ込んだままじゃ大きさを測れもしませんよ」

「しかし君を傷つけたら」

「傷、思う存分、つけてください。だから言ってください。言葉にしてください」

 可哀想なほど萎れた耳とうな垂れた尻尾。
 瞳は不安で揺らめき迷子の子供みたいで、いつもはあんなに頼もしく大きな人が自分のために胸を痛めて涙を浮かべてくれる事実に、リトは胸が甘く痺れた。

「リト、俺は君を愛しているんだ。どうしようもないほど深く、愛してる」

 黄金色の瞳からこぼれ落ちる涙のなんと美しいことか。
 風にそよぐオレンジブラウンの髪が陽の光で輝き、一枚の絵画を見ている気分になる。

 それでも美しさに不釣り合いな、くすんだペパーミントが神の創造物ではなく、一人の等身大の青年だとリトに伝えてくる。

「僕もです。僕も貴方を、ロヴェを心から愛しています」

 出会ったときから美しい瞳に魅せられたけれど、彼の傍にいてロヴェインという繊細で不器用な男性を知って、愛さずにいるなど不可能だろう。

 ぐっと繋いだ手を引いてロヴェを引き寄せると、精一杯の背伸びをしてリトは彼の唇に口づけを贈った。
 ますますぽろぽろと宝石みたいな涙がこぼれ落ちてくるけれど、泣き笑いを浮かべたロヴェが肩口にすり寄ってくる。

「リト、俺の愛しい番。愛してる。狂おしいほどに」

(国を護り民を守る貴方を慕い敬い、身を投じてでも守りたいと思う人はたくさんいるけど。傷だらけな内側にまで踏み込んで守ってあげられるのは僕しかいない)

「僕が生涯をかけてロヴェを幸せにしてみせます」

 失った二十年分も取り戻すくらい、いまが幸せで仕方ないと彼が笑える日まで全力を尽くそうとリトは心に誓った。
 広い背中を力一杯に抱きしめ、絶対に離さないと伝わるように涙に濡れた頬に顔を寄せる。

(始祖のロザハールさまもロヴェみたいな気持ちだったのかな。番のメイヴィーさまは女性だから僕よりも小さくて華奢だったかもしれないし)

 愛しくて愛しくて壊してしまいそうになるなんて、恐ろしくてたまらないだろうとリトも想像だけで体が震えた。
 自分の手で傷つけて失ったなら、発狂して自ら命を絶ってしまいそうにすら思える。

「ふふ、泣き顔のロヴェは可愛らしいですね」

「……リトには情けない姿ばかりを見せている」

「いいんです。僕にだけ見せてください。ほかの誰も見たことのないロヴェを。それは僕だけの特権ですから」

 手のひらで涙を拭ってあげると、まつげに涙を溜めながらも素直にロヴェは瞳を閉じる。
 愛おしくて可愛くて心が疼いて仕方なくなり、リトは唇で涙を吸い取りながらも顔中に口づけを降らしていく。

「僕がロヴェのものであるように、貴方は僕だけのものと思っていいですか?」

「もちろんだ。この身すべてを君に捧げたっていい。もしリトが俺を置いて逝ってしまったら誰が止めてもあとを追う」

「それじゃあ、僕はうんと長生きしないとですね」

 感情がひどく重い――だというのに胸に響き嬉しいと感じるのは、自身に獣人の血が流れているからなのか。ただ単に必死すぎるロヴェが可愛くて愛おしくてたまらないからなのか。

(きっとどちらも、かな)

 お互いの手を繋ぎ直して、リトはのんびりと草地を踏みしめる。
 歩き出したリトの後ろを今度はロヴェが追いかけ、自然と並んで歩き始めた。

「ここは素敵なところですよね。またぜひ連れてきてください」

「リトが望むのならいつだって」

「ありがとうございます。あっ、そろそろお昼にしましょうか。お腹が空きました」

「そうしよう。料理長が朝から張り切っていた」

「僕らの突然の思いつきに付き合ってくれるみんなは優しいですね」

「まったくだな」

 しばらく散歩を楽しんだあと、二人で顔を見合わせて笑ってから木陰で暇をしているだろう皆の元へ戻った。
 料理長が用意した複数のバスケットにはぎっしりと自慢の料理が詰め込まれていて、到底二人で食べきれるものではなく、騎士たちも巻き込んで賑やかな昼食会になった。

 笑顔と笑い声に囲まれるロヴェが穏やかな表情を浮かべているのを見て、喜びでリトは泣いてしまいそうになる。
 彼の傍にいる騎士たちはリトと会うたびに「ありがとうございます」と言う。

 理由は単純で「今日も陛下が笑っていました」ただそれだけなのだ。
 些細な変化ですら喜んでしまいたくなるくらい、以前のロヴェは拠り所がなく孤独だった。

 ほんのわずかでも自分の存在が皆を幸せにできる。
 足りないものは数え切れないほどあっても、いまのリトはロヴェのためならどんな試練にも必死で齧り付ける気がした。

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