始まるこれからの時間05
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 新しい住まいはいままでのアパートとは違う路線になる。けれど学校も、穂村の勤めるデザイン事務所も通勤三十分ほどだ。実家通いだった彼はかなり通勤時間が短縮される。
 早い時間に出社するために、毎朝早起きしていたようなので、おそらく二十分くらいは余裕ができるのではないだろうか。朝は強いとは言っていたけれど、朝の二十分はかなり貴重だ。

 自分も朝に十五分くらいは余裕が生まれる。こちらは朝がそれほど強くないので、立ちっぱなしで朝食をとっていた慌ただしい時間が、少しは変わるだろう。早い穂村はそのあいだに仕事へ行ってしまうが。

「まだ時間がかかるかな?」

 最寄りの駅についてメッセージを確認した。あちらのほうが早く荷の積み込みが終わっていたのだが、ここまでの移動時間は自分よりもかかる。それに加え、穂村が出て行くことを父親が随分と寂しがっているらしい。
 あれこれと長い話で引き止められているようだ。

 あと十五分くらいとあるので、駅の周りを少し散策することにした。ここは急行電車が止まる駅なのでわりと大きめだ。改札を出てすぐのところにスーパーもあって、ほぼ買い物はここで事足りるだろう。
 自分たちの新居のある方面へ抜ける西口は、小さな商店街がある。コンビニや郵便局、クリーニング屋やパン屋、飲食店もたくさんありかなり充実していた。

 家賃も考慮するとやはりあの場所はお得物件だ。穂村の母親の一押しがあって良かった。おそらくこちらが見落としている部分も理解していたのだろう。駅への距離と物件の設備くらいしか意識をしていなかった。
 のんびりと商店街を一周して、駅へ戻ってから少しすると穂村がやって来た。

「遅くなってごめん」

「いいよ、おかげでこの辺り見て回れたし」

「そっか」

「……穂村、ちょっと顔色が悪くないか?」

 朝に感じた元気のなさも気にかかったけれど、それ以上に顔の青白さが気になる。しかし本人はまるきり意識がなかったのか驚いた顔をした。それでも思わず手を伸ばして首筋に触れてしまった。
 手の平にはほんの少し熱を感じるが、そこまで心配するほどではない気もする。

「大丈夫、ちょっと寝不足なだけ」

「昨日、眠れなかったのか?」

「なんか今日のこと考えたらすごい憂鬱でさ。朝まで眠れなくて」

「あまり無理をするなよ。昼飯、外で食べるのやめて部屋で食べるか?」

「平気だよ。お腹はすごい減ってるんだよね」

 どこか陰りを帯びるような表情がやんわり笑みを浮かべる。だが無理をしているのは目に見えてわかって、ますます心配する気持ちが生まれた。とはいえその心配は欲しくない、というのも見てわかる。
 本当なら無理にでも家へ直行したかったけれど、先を歩き始めた背中を見ると、あまり過保護になりすぎるのも良くないかと思えた。

「春樹、行こう! お店はなにがあった? 俺、肉が食べたいな」

「そうだな、色々とあったけど」

 引っ越しが終わったらゆっくりさせてあげよう、そう決めて足を踏み出す。肩を並べれば、彼は嬉しそうに笑った。無邪気に笑うその顔を見ていると、つられて笑ってしまう。
 穂村の傍にいて、自然と笑う回数も増えた気がする。学校でも顔立ちが穏やかになったとか、雰囲気が優しくなったとか言われるようになった。

 自分自身はなにも変わっていないと思っていたけれど、笑顔というものは移るものなのだと知った。彼は様々なものを自分に与えてくれる。
 それが嬉しいと思うし、幸せだなとも思う。けれどそれと同じくらい、自分はなにかしてあげられているのかと、考えることもある。一緒にいると癒やされるよ、なんて穂村は言うが、癒やし要素なんて見当たらない気がする。

「はーるーきっ」

「え?」

「どうしたの? 難しい顔してるよ」

「わ、悪い。ちょっと考えごとしてて」

 ふと顔を持ち上げると、テーブルを挟んだ向かい側にある顔が訝しげな表情を浮かべていた。その顔に目を瞬かせてから、小さく息をつく。
 スタミナを付ける、という穂村は小さなステーキハウスを選んだ。こぢんまりとしたわりと地味な店だけれど、少し混み合っていて十分ほど待ってから席に着いたところだ。

 ウキウキとメニューを眺めるその顔を見つめて、ぼんやりと考え込んで、意識が半分どこかへ行っていた。注文を済ませたようだが、自分はなにを頼んだのか、記憶が定かではない。
 会ったらいっぱい彼を甘やかしてあげよう、そう思っていたのに、心配をかけるとか情けないことこの上ない。

「なにか悩みごとがあるの?」

「いや、悩みごとって言うわけではないんだけど」

 胸の内にある不安は漠然としたものだ。悩みごとと言うには少し違う。しかしどうにかして解決をしなくてはいけないもの、ではある。

「んー、春樹は一人で解決しようとする癖があるからなぁ」

「いや、そういうわけでは」

「俺ってそんなに頼りない? そりゃあ、春樹のほうが大人だけど。俺はあなたの役に立ちたいよ」

「……うん。それはすごく感じているし、わかっている、つもりだよ。ただこれはなんて言葉にしていいかわからないんだ。自分でもよくわからないって言うか」

 目の前でひどく悩ましい顔をして眉を寄せる穂村。けれど上手く言葉にしきれない。不安になる、それにはっきりとした原因が見当たらないからだ。

 この先も一緒にいられるかどうか、そのことに不安を覚える、それも一つの答えではある。しかしどうしてそんなことを考えるのか、その理由が見つからない。
 すごく楽しい毎日で、とても満たされていて、幸せを感じるのに不安になるなんて、自分でも意味がわからない。

「春樹はいま、幸せ?」

「ああ、すごく幸せだと思ってる」

「それならいいんだけど」

「すまない。こんなことで穂村の気を煩わせたくないんだけど」

「それ! 春樹の悪い癖パートツー! 謙虚すぎる! 迷惑いっぱいかけなよ。俺なんかは春樹に心配かけまくりだし、迷惑いっぱいかけてるでしょ?」

「そうか?」

「そうだよ。いまだって、きっとうじうじしてる俺のこと心配してたよね?」

 困ったように笑う穂村に言葉が続かなかった。彼は本当に人のことをよく見ている。そしてそれに気づいて自分で自分を立て直してしまう。おかげでなにかをしてあげるタイミングを逃すのだ。

「正直言うとさ。気持ちはまだへこんでるんだけど。春樹といるとなんだか気持ちがなだめすかされる、みたいな。落ち着くんだよね」

「北川はなにも言わなかったのか?」

「うん、作業中だったし。まさは仕事中にお喋りするやつじゃないしね」

 カップのスープを手元に引き寄せて、視線を落とした表情は寂しげなものに変わる。じっと見つめれば視線は近くの窓へと向けられて、その向こうを見た。しばらく沈黙が続くと、ふっと穂村は息をつく。
 そして視線を持ち上げて苦笑いを浮かべてから、彼はまたやんわりと微笑んだ。

「穂村、そんなに気に病まなくても大丈夫だよ。北川はともかく、横山は全然気にしてなかった。それどころか今度遊びに来るって言ってたぞ」

「え? よーくん? もしかしてそっちにいたの?」

「うん、人員に空きが出たから入ったって。一緒にバイトしていたみたいだな」

「そうなんだ。そっか、よーくんが大丈夫なら、大丈夫かな」

 小さく息をつくと笑みがふんわりと綻んだ。安心したように笑ったその顔に、こちらまでほっとした気持ちになる。久しぶりに作り笑いではない、自然な笑みが見られた。それだけで胸が温かくなるなんて、こんな想いは穂村だけだ。

「友達を失わずに済みそう」

「あの二人はきっと一生ものの友達だよ」

「そうだといいなって思ってる」

「うん、……友達か、いいな。そういう信頼し合える関係」

「あれ? そういえば春樹って友達」

「考えてみると、これって言う相手がいないな」

 穂村たちが眩しく思えたが、ふと自分を振り返ったら友人と呼べる相手がいないことに気づいた。しかし前からいなかったのではなく、いまの仕事を始めた辺りから徐々に疎遠になっていた。
 だが元よりそこまで深い付き合いをしていたわけではない。親友なんて呼べる相手はいたことがないし、たまに連絡が入れば出掛けていたくらいだ。こちらから連絡を取ることはほぼなかった。

 そんな付き合いだから疎遠になるのも仕方ない。それに加え、なぜか女受けをするので、あまりいい顔はされていなかった。だがこれは自分が悪いわけではない。

「春樹、趣味は? 友達は作ろうよ」

「いいよ、別に。面倒くさいし」

「俺に相談できないこととか、言える相手がいたほうが良くない?」

「いらないよ。穂村以外に自分のこと言える気がしないし」

「それはそれで嬉しいけど。ちょっと心配だな。全然遊んでないよね?」

「……特にどこか出掛けたいわけじゃないから。穂村がいれば一緒に買い物も行けるし、一緒に酒も飲めるし、あんたといるほうがいい」

「うっ、俺をキュン死させる気? 懐かない猫が俺だけに懐いてくれてるような気分。誰もほかにいないのは心配だけど。そのうち気の合う人が現れるかもだよね」

 急に胸を押さえてうな垂れた穂村は大きな独り言を呟いている。懐かない猫とは自分のことか。確かに誰彼と愛想良くすることはないけれど。猫、前にも誰かに言われたな。

「ああ、鹿島か」

「えっ? いま聞き捨てならない名前が聞こえた!」

「あ、いや、別に意味があるわけじゃないぞ」

「どうしてここであの人の名前が出るの? もしかしてまだしつこく迫られてるの? それとも仲良しになっちゃったとかっ?」

 ばっと音がしそうな勢いで顔を上げた穂村は、鬼気迫る表情をする。それに慌てて首を振れば、疑い深そうな目で見つめられた。目を細めて眉間にしわを寄せるその顔に、ひどく焦る気持ちになる。

「あいつと仲良しになるなんてあるわけないだろ」

「そんなこと言って、春樹はなんだかんだで優しいから、本気で突っぱねてないよね」

「だ、だとしても、穂村以外、あり得ない」

「……んっ、またキュンてした」

 穂村に伝わる程度の小さな声。それに対し目の前の顔が真っ赤に染まる。そして視線をさ迷わせて、胸をまたぎゅっと押さえて、口元に片手で衝立をすると、小声で「今晩一緒に寝ようね」なんて言う。
 それに今度はこちらの頬が熱くなる。思わず見つめ返したら、彼は満足げに笑った。

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