02.予想外の展開
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 振り返った先にいたのは大柄な赤毛の男。肩をいやらしく撫でるように置かれた手は、触れられた瞬間ものすごく嫌な感じがした。肩に置かれたその手を見る前に、条件反射で俺は眉間に深いしわを刻んでしまう。

「あっれぇ、高校生みたいな可愛い子がいるかと思ったら、大悟ちゃんじゃねぇの」

 少し間延びした話し方。わざとらしく揶揄する言葉。そして俺をのぞき込むその顔に思いきり舌打ちした。

「新庄、いたのかよ」

「大悟ちゃん、久しぶりじゃねぇ? なに? 見ない間に彼氏作ったの?」

 あからさまに不快をあらわにする俺の態度をさらに助長するように、ニヤニヤと下卑た笑いをする男――この店の常連の一人である新庄。どうやら先ほどまで店の奥のほうで騒いでいたやつらと一緒にいたようだ。
 眉間のしわが表すとおりに、俺はこの男が大嫌いだった。わかっていたら座る前に帰っていたところだ。馴れ馴れしく肩に腕を回して触れてくる新庄を睨み返したら、ますます近づいてきた。

「え? なになに、大悟の彼氏?」

「なんだよ大ちゃん、俺らのこと散々無視してたくせにネコちゃんになったのかよ。もしかしてイケメンに限るってやつ?」

「はあ? ざっけんなよ」

 新庄の後ろからさらに頭の悪そうな連中が近寄ってくる。俺や雪近を囲むように顔を覗かせるやつらに握った拳が震えた。けれどそれを面白がるように三人はケタケタと笑う。人の顔を見るたびに絡んでくるこいつらは普段は無視を決め込むところだが、俺はマウントを取るようにネコ呼ばわりされるのがとてつもなく嫌いだ。
 見た目だけで俺に近寄ってくるやつは多い。確かに俺は小さいしどちらかと言えば細く見える。襲えばなんとかなると思うやつもいるのかもしれない。だが一言目にやらせてくれと言うようなやつは、きっちり拳で沈めてきた。
 ただ、新庄は唯一殴りそびれている。身体がでかくて、なにかスポーツをしていたらしく反射神経がいい。できれば顔面に一発くれてやりたいのだが、なかなか隙を見せない。

「大悟ちゃん、初体験は済んだのかぁ?」

「ぎゃはは、ケツでするとハマるって言うしなぁ!」

「なぁなぁ、俺たちにもやらせてよ」

「てめぇら、いい加減に」

 震わせた手を握りしめて俺は立ち上がろうと腰を浮かせたが、それより先に新庄が後ろに吹っ飛んだ。後ろのテーブルにあるものが床に落ちる音とともに、瞬く間もなく二人目三人目と後ろへ転がり、一瞬店の中がしんと静まり返る。
 俺は隣で立ち上がった雪近をまじまじと見つめてしまった。

「あんたたち、これ以上恥かきたくなかったら外に出なよ」

「や、やんのか、てめぇ!」

「うるさいな。ほら、早く立てよ。見た目に違わずグズだな」

 普段の温和な声音からは想像できない冷ややかな声。息巻いて声を上げたやつらに細めた目は、底冷えしそうなくらいに色がなかった。長く傍で見てきたけど、雪近のこんな顔は初めて見る。
 感情の起伏すらわからない無表情な横顔。正直言えば、ちょっと怖いとさえ感じる。いつもにこにことしている男が表情を変えると、こんなにも凄みが増すんだなと息を飲んでしまう。

「ゆ、雪、これ以上は駄目だ」

 一触即発な雰囲気に、俺は慌てて隣に立つ雪近の腕を掴んだ。店の外ならともかく、店内で騒ぎを広げるわけにはいかない。抑えるようにぎゅっと握り、前を向く横顔を見つめる。すると拳を握りしめていた手から力が抜けたのを感じた。

「……このまま黙って出て行くか、頭擦りつけて大悟さんに謝るか、選ばせてやるよ」

 雪近に見下ろされた新庄たちは、店中の視線が集まりもう強気に出ることができなくなっていた。三人で苦々しい顔を見合わせると、雪近の顔を睨みながらすごすごと店を出て行く。残っていたほかの仲間もそこに残っていられなくなったのか、テーブルの上に札を放り投げると三人のあとをついて出て行った。

「びっくりした」

「ごめんなさい」

 静まり返った店内に俺の声がやけに響いた。その声に先ほどまでとは違う、頼りなげな雪近の視線がこちらを向く。まっすぐに俺を見る雪近の目は少し焦りもにじんでいるが、いつもの穏やかな眼差しだ。それにほっとしながら後ろを振り向けば、辰巳が掃除用具を持ってカウンターから出て来た。

「お前ら怪我するから、ガラスに触るなよ」

「悪い、辰巳。あいつらがあそこまで絡んでくるとは思わなくて」

「ああ、まあ、いいさ。付き合い長いからって放っておいた俺も悪い。お前に気分悪い思いさせたな」

「いや、俺はいいけどさ。グラス代とか」

 テーブルに載っていたグラスはほとんど割れてしまっている。ホウキでかき集められた残骸を見ると申し訳ない気分になった。
 新庄たちの性格ははっきり言って最低だが、俺が絡まなければそこまでひどい客ではないのは知っている。もうこれは相性の良し悪しだろうか。

「いい、いい、気にするな。ちょっと待ってろ、片付けたら冷やすものやるから」

「え? あ、雪! 手、大丈夫か?」

 辰巳の言葉でようやく気づいた俺は、隣に立つ雪近の右手を掴んだ。あのでかい図体が吹っ飛ぶほどの力だ。怪我でもしていないかと手を見れば、赤くなっているが傷ついてはいなかった。しかし思わずその手をぎゅっと両手で握ってしまう。

「大悟さん、ごめん」

「いいんだ、謝るな。お前が殴ってなかったら俺が殴ってた」

「でも、やり過ぎた。流せって言われてたのに」

「大丈夫だ。俺はスカッとしたし、お前が怒ってくれて嬉しかった」

 しゅんとして覇気をなくした雪近の背中をなだめるように叩いてやる。確かに少し驚いたけど、ようやく新庄に一矢報いることができた。それを思えば俺としてはかなり気分がいい。これでしばらくは向こうから絡んでくることもないだろう。

「でもあんまり無茶はするなよ。お前が怪我とかしたら心配だ」

「うん、でも俺は平気だよ」

「お前が腕っ節強いなんて思わなかった。喧嘩とか無縁そうなのに。拳が重くてびっくりした」

 昔からどちらかと言えば品行方正なイメージ。思春期特有の反抗期もなくて、すれたところは全然なかった。でもやっぱりもう子供じゃないんだなといまさらながらに実感する。出会った時に比べたら随分と体格もよくなって、男らしさが増した。これからもっと成長していきそうで、ちょっとドキドキしてしまう。

「ほら大悟、これ巻いて拳冷やしてやれ」

「ああ、うん。悪いな」

 ぼんやり雪近を見つめていたら、割れ物を片付けた辰巳がタオルに氷を包んだものをくれた。視線に促されてもう一度カウンター席に座ると、俺は隣に座った雪近の右手をそっと握る。赤くなったそこは少し熱を持っていて、労るように優しく氷を押し当ててタオルで包み込んだ。

「腫れたらペンとか持てなくなりそうだな」

「大丈夫だよ。多分そこまで腫れないと思う」

「思ったよりお前が頑丈でよかった」

「大悟さん、あんまり俺のこと美化し過ぎないでね。俺は思っているよりずっと図太い人間だよ」

「そっか、そうだな。ちょっと気にし過ぎた。悪い、お前ももう大人だもんな。いつまでも出会った頃のお前を見ていても仕方ないよな」

 困ったように小さく笑う雪近の顔を見て、俺は取り繕うように言葉を連ねた。出会ったばかりの頃は雪近が可愛くて仕方がなかったから、守ってあげたいと感じていたけど。もう俺が手を貸さなくても、雪近は一人で立っていられる年齢になった。
 そう思うと出会ってからの五年は早かったが、思う以上に時間の重みがあるんだなと感じた。子供の時間と大人の時間。それは随分違うんだと思い知った気がする。五年で驚くほど成長した雪近。でも俺は五年前とさして変わっていないと思う。なんだか少し自分が頼りなく思えた。
 いまの雪近には俺はどんな風に映っているんだろう。

「けど、大悟さんが心配してくれるの嬉しい。俺のこと考えて頭いっぱいにしてると思うとかなり気分がいい」

「それを言うなら俺もだ。まっすぐに俺に向かってくるお前を見ているだけで優越感に浸れる。ずっとお前が欲しいって思ってたんだ。いまお前が傍にいることがたまに夢じゃないかって感じることもある。お前に返事をもらえるまで、結構怖かった」

 付き合い始めて二ヶ月が経ったけど、俺が雪近に告白をしたのは去年の暮れだ。一緒に初詣にでも行こうかなんて話していた時、この先も一緒にいられるのかどうかが不安になった。いまはまだ傍にいてくれるけど、人と関わりが増えたら俺なんか忘れてしまうんじゃないかって。
 だからこのまま曖昧な関係で傍にいるより、答えを出してしまいたいと思った。振られるなら想いが募ってしまう先の未来より、いまのほうがマシだって言い訳を繰り返して、必死の思いで付き合って欲しいのだと告げた。
 その時の雪近は驚いた顔をしていたが、思ったよりも冷静で。言葉を飲み込むと、しばらく答えを待って欲しいと言った。断られるのならいまがいいと言い募ったが、必ず返事をするからもう少しだけ時間が欲しいと頭を下げられた。
 返事が来るまでに六ヶ月近くも待った。もうこれはこのままうやむやになるんじゃないかとさえ思ったくらいだ。正直待つのが辛くて泣きたくなった時もある。

「待ってるあいだにいい男いたのにな」

「ちょ、辰巳! 余計なこと言うな」

「お前は貧乏くじばかりだ」

 カウンターにビールグラスを置いた辰巳が、頬杖をつきながら大げさにため息をついた。少し呆れたような声音に俺は思わず口を引き結んでしまう。

「デートしていい感じだったのに断っちまうんだから、もったいない」

「し、仕方ないだろ。それでも、雪がいいって思ったんだよ」

 確かに辰巳が紹介してくれた相手はすごくいい人だった。この先も安心して傍にいられそうな、優しくて真面目で温かい誠実なタイプ。一緒にいたら寂しくて泣くこともないんだろうなって思える人。
 だけど、どうしても俺は雪近がよかった。答えをもらわないまま諦めるなんてできなかったんだ。

「大悟には幸せになって欲しかったんだけどな」

「俺はいまが幸せだ。雪と一緒にいられるのが嬉しい」

「ふぅん、だけどお前がものすごく心配だよ」

「え?」

 曖昧な相づちとぽつりと呟かれた言葉。その意味がよくわからなくて首を傾げたら、辰巳は視線を雪近へ移した。

「あのさ、雪近くんは大悟のどこが好きなの?」

「おい、辰巳! いきなりなに聞いてんだ」

 ふいの問いかけに心臓が飛び上がった気がした。けれど俺が慌てて声を上げても辰巳の視線は雪近から離れず、まっすぐに前を見据えていた。それはどこか品定めするような目だ。なぜ辰巳がそんな顔をするのかがわからず、変に胸がざわめいた。

「俺は大悟さんのまっすぐで嘘がない男らしいところが好きです」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ、君は嘘をつく?」

「いいえ、俺は嘘が嫌いです」

「そっか、それじゃあ聞くけど。君って結構男関係が派手なんだって? 彼氏付きでも手を出してかなり揉めたってほんと?」

「は? 辰巳、なに言ってんの」

 突飛な質問に思わず声が上擦る。けれど二人は視線を合わせたままで俺の声には振り向かない。なんだか空気が凍り付いたような気になる。雪近の男関係ってなに? そう聞き返したいのに声が出なかった。でもしばらく隣にある横顔を見つめていたら、雪近はため息のような大きな息を吐き出した。

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