出逢い
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 朝から雨がしとしと降っている。
 低気圧のせいかなんだか、頭も身体も重くてだるい。雨の日は昔からあまり好きではない。

 雨がぽつぽつ降り注ぐ音が、癒やしだというやつもいるが、正直鬱陶しいと感じる。湿気で髪がうねるのも嫌だし、濡れて服が身体にまとわりついてくる感触も嫌だ。

「桂木さん、最近ずっと雨降りですけど調子は大丈夫ですか? 仕事のほうは」

「ああ、大丈夫です。ちゃんと間に合わせます」

「そうですか。じゃあ、よろしく頼みますね」

「はい」

 自分は雨がひどく嫌いだ――しかしだからと言って、出かけずにずっと引きこもっているわけにもいかない。なにかしら用事というものはあるのだ。
 いまから向かわなくてはならないのは、歩いて二十分の駅前のレンタルビデオ店。

 借りたDVDを返しに行かなければ、延滞料を取られてしまう。ここで無精をして遅らせても、明日もその次の日も天気は雨マークで、延滞料がかさむばかりというわけだ。
 携帯電話を手放し、気が重い中、しぶしぶ出かける準備をする。

 肩先まである髪は、広がるのが嫌なので後ろで結わえた。
 身につけるものにはこだわらないので、白い長袖のカットソーに黒のデニム、DVDが入るほどの小ぶりなショルダーバッグを斜めがけにする。

 足元は濡れることも考慮して、合皮のショートブーツを選んだ。
 最後に忘れず、ノイズキャンセリングのイヤフォンを耳に押し込み、音楽プレイヤーを再生させる。

 一通りの準備が整うと、いよいよ出かけなくてはいけない。部屋の窓から見えた外は、夕方ということもあり薄暗く、だいぶ雨脚が強いように思えた。
 気分はとてつもなく最悪だ。

 鏡に映った自分を見れば、眉間にしわが寄って表情が険しくなっていた。雨の重苦しさのせいで、肌が白を通り越して青白く見える。
 口を引き結んだその顔は不機嫌そのもので、まるでヒステリーを起こしそうな女のようだ。

 ため息交じりに、玄関の傘立てにさした透明のビニール傘を手に取ると、重い足取りで部屋をあとにする。

 いま住んでいる部屋は、寝室一間にリビングダイニング、キッチンと広いのがとても魅力的だった。しかし駅まで行くのに少々時間がかかるのが難点だった。
 こんな雨の日ならば、なおさら億劫になるというもの。

 晴れた日は自転車が使えるけれど、雨降りではそれができないから嫌なのだ。三年ほど住んでいるが、次の更新はどうしようかなと、そんな考えが頭をよぎる。
 しかしいまの広さに慣れてしまったのだから、狭い部屋に越すのは無理があるだろう。

 駅から近くて広いマンションは、家賃がかなり跳ね上がってしまう。小さく唸って考えてみるが、やはりこのままがいいのだろう、と言う結論に達した。
 雨さえ降らなければ、それほど苦ではない。そこまで考えてやはり雨は嫌いだなと思った。

 雨が降らないと、困る人たちがいるのも重々承知している。時々降るのなら、まだ我慢はできるかもしれない。けれどそれが毎日となるとうんざりするのだ。

 雨が降ってはしゃぐのは、子供くらいのものではないか。通り過ぎる親子連れを見ながら、小さくため息をついた。水たまりに入って喜ぶなんてこと、自分の子供の頃にあっただろうか。
 しかし幼い頃はここまで、雨が嫌いではなかったような気もした。いつからこんなに雨が嫌いになったんだろう。

「なんだったかな、思い出せないな」

 考えてみるとなんだか喉まで出かかるが、そこから先が出てこない。
 忘れているということは、大した理由ではないのだろうか。まあ、無理に思い出す必要もないかと、雨の中を足早に歩いた。

 駅までの道は、大通りを歩けばわかりやすいのだが、携帯電話の経路案内アプリで導き出された、最短コースを歩いて行く。
 進む道は裏道や小道ばかりで、道を知らないものだと通り抜けられるのか、不安になりそうな場所もある。

 この辺りは住宅が密集していて、その家々の脇道が近道となる。抜け道の一つには公園も含まれており、そこを抜けていくと駅まではあとわずかだ。

 遊具がいくつかと、砂場がある程度の小さな公園。日中は近所の主婦らが集まって、子供を遊ばせているのを見かける。
 しかし今日は朝から雨降りなので、誰もいないだろう。そう思いながらいつものように、その公園を通り抜けようと足を踏み入れる。
 だが入り口から数歩、中へ入ったところで足が止まった。

 外灯の明かりに照らされた男が一人、公園のベンチにぼんやりと遠くを見つめながら座っている。
 どのくらいここにいるのかわからないが、傘は差しておらず、頭からつま先までずぶ濡れだ。しかし不審者という容貌ではない。

 襟足の長い茶色い髪は濡れて肌に貼り付いているが、無精して伸びているようには見えない。ここから見える横顔はまだ若く、二十代前半くらいだろうか。

 彼は黒いシャツに白のジャケットを羽織り、黒地のスリムなデニムを穿いている。革靴はダークブラウンの落ち着いた色合いで、いまどきの若者にしては珍しい装いだ。
 着る者が違えば、気障に思える格好だが、目を惹く容姿をしている彼にはよく似合う。

 横顔だけでも絵になると言うのは、こういう男のことを言うのだな。
 鼻筋の通ったその顔立ちは、笑みでも浮かべれば、ずいぶんと華やかであろう。

 しかしいまの彼は、どこを見ているのかもわからないほど、空虚に見えた。
 止めた足を動かし、その人の前を通り過ぎてみるものの、彼はそれにさえ気づいていないかのように、身動き一つしなかった。

「おかしなやつ」

 こんなひと気のない公園で、一体なにをしているのだろう。濡れるのも構わず、どのくらいの時間ああしているのか。
 奇妙な男だと思った。けれどいまは、出かける目的を早く済ましてしまいたくて、歩くスピードを上げて通り過ぎることにした。

「いらっしゃいませ」

 足元を濡らしながらレンタルビデオ店につくと、返却分はポストに放り込んで、また新しいものを物色して三枚ほど借りた。
 映画鑑賞は趣味だ。

 仕事の合間に見るのが息抜きになっていい。パソコン画面に向かって、キーボードを叩くのが仕事だから、集中力が切れた時にこうして借りてきたものを見る。

 作品は比較的雑食だ。
 ロマンスものも見るし、SFやファンタジー、アクション、ミュージカル、ドキュメンタリーと多種多様で、ジャンルにこだわりはない。

 見るものに当たり外れはあるけれど、どんなものでも興味深く見られる点は長所だろう。

 用事を早々に済ませて店を出ると、雨脚はさらに強くなったような気がする。内心で毒づきながら舌打ちをしてから、ザーザーと降り注ぐ雨の中にまた足を踏み出した。

「お弁当温めますか?」

「いや、結構です」

 帰り道、コンビニに寄って弁当や飲み物、菓子などを購入した。自炊は得意ではないので、コンビニにはしょっちゅうお世話になる。
 とはいえ食べる弁当には限りがあるので、何軒かあるコンビニを定期的に変更して、飽きないように気を遣う。

 身体に悪いとよく言われるが、腹が満たされればいいのだ。それに自慢ではないが、滅多に風邪を引いたり体調を崩したりすることはない。丈夫さが取り柄だ。

「ありがとうございましたぁ」

 間延びした店員の声を聞きながら、コンビニを出ると、目の前には行きも通り過ぎた公園がある。
 来た道を戻るように、また公園へ足を踏み入れていく。そしてしばらく歩き、立ち止まった。

「あんた、いつまでここにいるの? このままだと風邪引くか、運が悪ければ肺炎になりかねないよ」

 コンビニで弁当と一緒に買ったビニール傘を開くと、いまだぼんやりと遠くを見ていた青年の前に立ちふさがる。
 視界を遮られ、雨が降り止んだことで、停止していたなにかが動き出したのだろうか。

 彼はゆっくりと顔を上げて、見下ろす自分を見つめた。
 横顔から見ても、その顔立ちのよさはよくわかったが、真正面から見るとさらにそれが際立って見えた。

 整った眉、くっきりとした二重、茶水晶を思わせる瞳、高い鼻筋に程よく厚みのある唇。それらがバランスよく、顔の中に配置されている。
 あまりにも整っているので、少しばかり人形のようだと思った。

「行く当てがないならうちに来る?」

 子供の頃からよく生き物を拾ってくる子だと、親に呆れられた。それは三十路を過ぎたいまでも変わらず、よく犬猫を拾っては里親捜しなどをしたものだ。
 さすがにここまで大きな、生き物を拾うのは初めてだが、無視して通り過ぎることができないのだから、仕方がない。

「ついておいで」

 綺麗な茶色い瞳はじっとこちらを見つめる。返事はないけれど、言葉は通じているのだろう。彼は座り続けていたベンチから立ち上がった。
 傘を差し出すとそれを受け取り、歩き出すと後ろをついてくる。なんだか大型犬を一頭拾ったような気分だ。

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