心が軋む
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 目が覚めたのは明るい日の光が、射し込み始めた頃だった。意識が浮上した途端に、鉛を入れられたかのような頭が、脈打つように痛み始め、天音は眉をひそめる。

「うー、ガンガンする」

 目を閉じていても、平衡感覚が狂ったように、ぐるぐるとしているのがわかった。しかし腕に抱きしめたものを、引き寄せようとしたところで、意識がはっきりと覚醒する。

 ぴったりとくっつき頬を寄せていたのは、広い背中だ。素肌から感じる胸の音に、天音の顔が一気に紅潮する。

「なんで、裸?」

 恐る恐る自分の身体を見下ろせば、薄いインナーに、下着一枚という心許ない格好。

 身体の熱が伝わるほど、触れ合っている状態に気づき、慌てて後ろへ逃げるが、背中の持ち主が寝返りを打つ。さらには腕が伸ばされて、天音は胸元に引き寄せられた。

「おはよう」

「ま、誠くん」

 優しい声が耳元に囁きかけられると、胸の音が急激に高鳴りだして、自分の反応に天音はたじろいだ。髪の毛に頬ずりしてくる彼に、なおも抱きしめられるとめまいがする。

「昨日のこと、覚えてる?」

「き、昨日?」

「覚えて、ないんだ」

「えっと、昨日、は」

 苦笑いを浮かべる誠の表情に、天音の心は焦りが募り始める。昨日は一緒に飲んで、キスをされて、告白めいたことを言われた――そこまではすんなりと出てくる。

 だがこうしてベッドで、彼の腕に抱きしめられている、現状に至る経緯がすぐに出てこない。

「昨日の天音さん、すごく可愛かったよ」

「待って、いま、思い出す、からっ」

 思考を巡らせる天音をよそに、誠が身体の上にのし掛かってくる。背中がベッドに沈み、天井が見える、その光景を見た途端、昨夜の記憶が徐々に浮かび上がってきた。

 まっすぐに見下ろしてくる、眼差しを見つめ返すと、ゆっくりと彼が近づいてくる。身じろぐこともなく、天音は誠の口づけを受け入れていた。

 リップ音を立ててついばまれ、唇がしっとりと濡れる。間を置かずに触れた唇に、小さな吐息が飲み込まれていく。
 深くなるキスに溺れながら、すがるように指先を伸ばせば、髪を梳き撫でられた。

「思い出してくれた?」

 腫れぼったくなった唇を拭う誠の目は、どこか艶っぽく、記憶にも残るその表情に、天音は目を奪われる。

 昨日の夜も、こうして何度もキスをした。優しい指先が身体を撫でて、何度も快感の波に落とし込まれた。思い出すだけで、顔だけではなく身体まで熱くなる。

「最後、まで、……してないよね?」

「さすがに酔ってる天音さんに、そこまではできないよ」

「昨日は僕が、誘っちゃったよね。ごめん」

「あの時、天音さんのせいにしちゃったけど。あなたに心が動かされたのは本当だよ。適当な気持ちで触れたわけじゃない」

 熱い眼差しを向けられ、思わず目を伏せると、誠がそこへやんわりとキスをしてきた。

「俺、天音さんの恋人に立候補したい。……駄目?」

「だ、駄目っていうか。本当に片想いは、もういいの?」

 二度目の告白に天音の鼓動は、全速力したあとのような早さだ。触れた先から音が伝わりそうで、横を向いて身体を丸める。

「もういいって言うか。いまは頭の中が、天音さんのことばっかりで。ずっと片想いしてたことも忘れそうな感じ。乗り換えの早い自分に、呆れもするんだけど。もう天音さんのことしか、考えられない」

「新しいことに、興味が湧いてるだけじゃないの? 片想いがマンネリ化してて、それでとか、じゃないの?」

「俺の片想いを知ってるのなら、簡単に信じてもらえないかもしれないけど。いま思うと俺、相手を好きでいる自分に満足してただけだった。付き合いたいとか、どうなりたいとか、いつの間にか考えることがなくなってた。でもいまは天音さんの恋人になりたい」

「……僕なんかの、どこがいいの?」

「笑顔が可愛くて、思いやりがあって、心がまっすぐなところ。傍にいるだけですごく心が満たされる。触れるとあったかい音がして、いまもこうしてると、伝わってくる」

 小さく丸まった天音の身体を引き寄せて、誠は包み込むように抱きしめてくる。さらに頬や首筋にキスが降り注いで、触れる熱に天音は沸騰しそうな気持ちになった。

「天音さんから胸の音が伝わるみたいな、柔らかくて可愛い音がするんだよ。聞こえてくると、目の前がぱあっと明るくなる感じがして、キラキラして見える。幻想的な夢を見てるのかなって、思いもするんだけど。それがすごく癒やされるし、気持ちがいい」

「え?」

 恥ずかしさをこらえながら、誠のキスを受け止めていた天音だが、彼の言葉に目を見開く。それと同時に、冷や水を浴びせられたかのような気分になる。
 急激に血の気が引いて、胸が痛むほど心拍数が上がった。

 傍にある身体を押し退け、ベッドから飛び降りると、天音は顔を蒼白にしたまま彼を見下ろす。

「天音さん? どうしたの?」

「もう、帰る」

「え? なにか俺、変なこと言った?」

 あ然とした表情を浮かべていた誠は、天音が身支度を調え終わると、慌てたように手を伸ばしてくる。

「ちょっと待ってよ」

「やめて! 触らないで!」

 引き寄せるように腕を引かれるけれど、天音はその手を力一杯振り払った。勢い余って誠の頬を打ってしまっても、逃げるように後ずさる。

「天音さん。……そんなに、嫌だったの?」

 ひどく傷ついた表情。誠の反応に胸が痛んだが、天音はなにも言わずに部屋を飛び出し、外へと逃げた。

 階段を駆け下りた先は、雨が音を立てて降り注いでいる。その中を天音は、足を止めることなく歩いた。頭の中ではなんでと、どうしてが繰り返されている。
 胸の音がドクドクと音を立てて、さらに不安を煽ってきた。

 誠の言っていた『音』――それは言葉として届いていないだけで、普段天音が聞いている心の声とおそらく同じものだ。

「どうしよう」

 誠に自分の力が、伝染しているのかもしれない。その可能性の大きさに、天音は震える思いがした。こんなにも早く、誰かにこの力が伝わってしまうのは、初めてのことだった。

 ――お前、ほんとにうざい
 ――重いのよ、そういうの
 ――うんざりする

 頭の中に響いた声に、天音は息が詰まりそうになった。次から次へと甦ってくる声に胸が抉られる。
 怖い、怖い、怖い――感情が恐怖に埋め尽くされて、ガチガチと震えで歯が鳴った。

 これまでこの力が移った恋人たちは、天音の心の内を知ると、途端に離れていった。
 ただ好きだと愛しているのだと、そう思っていただけなのに。天音の独占欲に、心底冷たい眼差しが向けられた。

 心の中は嫌悪で真っ黒で、それまで天音へ注がれていた感情が一瞬にして消え去った。愛情の一欠片も残らないくらい。
 きっと心の声は聞くに耐えないほど、醜いに違いない。だから嫌われてしまったのだ。

「傍にいたら、気持ちを知られたら、誠くんにも嫌われる。嫌われたく、ない。誠くんにだけは、嫌われたくない」

 せっかく好きだと気づいたのに。初めて自分から好きだと思えた人なのに。あの優しさが黒く染まるところは見たくない。嫌われるのが怖い。
 彼に嫌われるくらいなら――

「このまま二度と会えないほうがいい」

 仕事は辞めよう。家も引っ越そう。いますぐにこの場所から消え去ることはできないけれど、しばらく会わないようにすることくらいならできるはずだ。
 現実から逃げるように、天音は雨の中を駆けだした。

 降り注ぐ雨が冷たくて、心の奥底まで凍えていく。

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