62.その視線の意味は
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 しばらく桜を眺めてぼんやりしてしまったが、我に返って光喜は立ち上がった。時間を確認するとマンションを出て四十分近く経っている。慌てて弁当の袋を掴もうとしたら、光喜より先に伸びてきた手がそれを掴んだ。驚いて顔を上げるとやんわり微笑まれる。

「小津さん?」

「そろそろ行こうか」

「え? え? 待って待って!」

 笑って踵を返した小津を急いで追いかける。袋を掴んでいる手に光喜が手を伸ばすけれど、それは譲ってはもらえなかった。顔をのぞき込むと小津は視線を前に向けたまま口の端を上げて笑っている。

「もー、俺、勝利に手ぶらだって怒られちゃうよ」

 わざと肩にぶつかると小さな笑い声が聞こえた。その声がひどく愛おしくなって、腕を絡めて光喜は小津の肩に頬を寄せる。緊張したように肩に力が入ったのを感じたが、それでも離せなくてしばらくそのまま歩いた。
 いまだ、いま言えばいい。心の中で何度も自分に発破をかける。けれど口の中がカラカラになって、光喜は言葉を紡げなかった。そうしているうちに道の先に人影が見えて、二人はそっと距離を置いた。

「……光喜くんはくっつき癖があるよね」

「え?」

「ほら、勝利くんとかにもよく。初めて会った日もいきなり飛びつかれて僕びっくりしたよ」

「あ、あはは、なんか、つい」

 それはあの時からあなたに気を許していたからだ、そう思ってもなんだか急に見えない線を引かれたみたいで誤魔化すような言葉しか出てこなかった。けれど暗い雰囲気にするわけにはいかない。だからいつものように上手く仮面を被って、どうでもいいようなくだらない話をして笑う。
 そんな光喜に小津は静かに微笑みを浮かべるだけだった。

「ただいまぁ」

「なんだお前、手ぶらかよ」

「あ、弁当は小津さんが。ねぇ、勝利、外でご飯食べない?」

「外? 俺は腹減って死にそうなの」

「えー、桜が咲いてて綺麗だったのに」

 後ろを向いた勝利の首に手を回して光喜が抱きつくと、文句をブツブツ言いながらそのまま歩き出す。怒るのも面倒くさいと思うくらいに腹が減っているのだろう。後頭部に頭突きすればやり返すように目の前の頭が勢いよく後ろへ傾く。

「痛い、鼻に当たった」

「ざまぁみろ。冬悟さん、お茶淹れて」

「あ、はい。光喜さん、修平おかえりなさい」

「ただいま。冬悟、冷蔵庫はもう冷えてる?」

「ああ、ビール。大丈夫ですよ」

 リビングに行くとテーブルを拭いていた鶴橋が顔を上げる。二人暮らしだから二人掛けのテーブルでも間に合うのに、四人掛けにしたのはこの面子を考慮してか。冷蔵庫もかなり大きくてビールを全部収めても余裕がある。
 なにげないそれらを見ながら光喜が動きを止めると、腕の中にいる勝利が身じろぐ。けれどそれを感じて光喜は腕に力を込めた。

「離せ馬鹿! 苦しい!」

「えー、俺の愛を感じてよね」

「いらねぇよ!」

「光喜さん、あんまり笠原さんにくっつかないでもらえますか」

「はーい、怒られちゃった」

 冷蔵庫に向かっていた鶴橋と小津が振り返った。鶴橋が眉間のしわを増やすのはいつものことだ。けれどなにか言いたげに見ている小津の視線に気づいて光喜は目を瞬かせる。しかし目が合うとふいにそらされた。
 いままでにない反応に光喜は思わず首を傾げてしまう。あれはどういった意味が込められていたのか。

「光喜、飯」

「あ、うん」

 ぼんやりとしていると振り向いた勝利に額を叩かれる。それにパチパチと瞬きすると訝しげな顔をされた。けれど返す言葉も見つからなくて光喜はへらりと笑う。

「小津さん、あんまり光喜を甘やかさなくていいよ。荷物を全部持たせるとかないから」

「あ、ああ、いいよ。僕は好きでしてるから」

「小津さん格好いいんだよ。さっと荷物を持って行っちゃうジェントルマン」

「図に乗るな!」

「えー、小津さんの優しさ受け止めなきゃ」

 勝利に後頭部を叩かれ、また光喜が軽い調子で笑うと大きなため息を吐き出された。それ以上言っても無駄と判断したのか、勝利は黙ったまま椅子を引いて腰を下ろす。それに倣い光喜も隣の椅子に座ると、向かい側で小津も席に着いた。

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