56.離れていくその背中
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 熱は翌日になっても下がらなく、心配をした勝利と鶴橋に病院へ連れて行かれた。そのあと薬を飲んでいくらか下がったけれど、少し高めの熱が続いて安静にしていろとその週は週末までベッドの上で過ごす羽目になった。バイトの前に勝利がなにかと世話をしてくれて、治ったら飯をおごれと言われている。

 しかし翌週は寝込んでいたあいだの予定が繰り下がりなにかと忙しく、気づけばもう勝利たちの引っ越しが明後日に迫っていた。けれどそのあいだ光喜は小津と連絡を取り合っていない。向こうからは頻繁に連絡が来るものの、メッセージは既読スルー、電話がかかってきても出ていなかった。

 なにをやっているんだと自分でも呆れながら、声を聞くのも、会うのもいまは怖いと光喜はひどく臆病になっている。しかしいつまでもこんなことをしているほうが離れていく原因になるのではとも思う。次また連絡が来た時には素直に応答しよう、そう考え直しながら光喜は駅の改札を抜けて空を仰いだ。
 夕暮れを過ぎた空は薄闇に染まり始めている。月は満ち欠けをしていまは満月に近かった。ぼんやりそれを眺めて初めて会った日を思い出す。月を見上げた時、あの人はいつでも心に寄り添ってくれた。それを思うとまた涙がこみ上がりそうになる。

 最近の光喜はやけに涙もろい。一人で小津のことを考えてめそめそとしている。泣くくらいならば無視をしなければいいのに、なにもかもがうまくいかない。ため息を吐き出して駅に背を向けると、光喜はマンションへ向けて足を踏み出した。

「なんか、疲れたな」

 小津と歩いた時は楽しかった道も、一人ではなんの感慨も浮かばない。相変わらず下を向いて歩いている。二週間近く小津に会わないのは出会ってから初めてではないか。

「光喜くん」

 見慣れたいつものマンションにたどり着くと、階段の傍に人影が見える。その人は光喜の名前を呼ぶとゆっくりと近づいてきて、外灯に照らされるとその姿がはっきりと見えた。目の前に現れた人を見て光喜の肩が跳ね上がる。

「小津、さん?」

「ごめんね。こんな待ち伏せるみたいな真似をして」

「あ、いや、その、俺のほうこそ、ごめん。全然、連絡できなくて」

「ううん、いいんだ。光喜くんが元気ならそれで」

 怯えた顔をする光喜に、小津はひどく困ったような表情を浮かべる。自分勝手な態度をしたのに、彼はそれを責めることすらしない。それどころが自分が悪かった、というような顔をする。あまりにも優し過ぎて光喜は胸が苦しくなった。

「何回も電話したりメッセージ送ったりしちゃってごめん。……迷惑だったよね」

「え?」

「もう、あんまりしないようにするから」

 ふっと視線を落とした小津にかける言葉が見つからない。それどころか喉の奥にものが詰まったみたいに声すら出なかった。いつもまっすぐに見つめてくれていた眼差しが光喜を映さないのはこれが初めてかもしれない。
 陰りを帯びた瞳に不安や焦りを湧かせて、黙り続ける光喜に彼は小さく息をつく。そして意を決したように唇を引き結ぶと、視線を持ち上げた。

「これ、どうしようかと思ったんだけど。せっかくだから持ってきたんだ。もし必要なかったら好きにしてくれていいから」

 腕を持ち上げた小津の手には小さな紙袋。その中身がなんであるか、すぐにわかった。けれど光喜は手が伸ばせない。それを受け取ったら終わってしまう、それは予感ではなく確信だった。小津の言葉の端々に自分から離れていこうとする気持ちを感じる。
 けれどそれは当然の結果だ。散々逃げて、向き合おうとはしなかった。結局どの場面でも自分の失態が浮き彫りになる。最初から、二人のあいだに縁など繋がっていなかったのかもしれない。唇を噛みしめて、光喜は腕を持ち上げた。

「ありがと」

「うん」

「あの、もし良かったら上がっていく? お茶くらい出すよ」

「……ううん、いいよ。ありがとう」

「そっか」

「それじゃあ、また明後日ね」

「うん、またね」

 さよなら――ではないだけマシなのだろうか。少し寂しそうに笑った小津は光喜の横を通り過ぎて行く。我に返って振り返った時にはもう、その背中は遠く離れていた。追いかけたいのに足が震えて動けない。行かないで、そう叫びたいのに掠れて声も出ない。
 まだ想いも伝えていないのに振られてしまった。悲しさよりも切なさよりも、光喜は自分の弱さに涙が出た。

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