57.この恋を終わらせたくない
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 小津の姿が見えなくなると、涙腺が壊れたのかと思うくらい涙が溢れ出した。叫び出したい気持ちをこらえて階段を駆け上がって扉の向こうに飛び込む。しんと静まり返った暗い空間にひどく切なさが増して、そこにしゃがみ込むと光喜は大声を上げて泣いた。
 どうして自分はいつも選択を間違えてしまうのか。どうしてもっと早く行動できないのか。あと少し、ほんの少しでも早かったら、もっと違った結末もあったかもしれないのに。人は失ったあとにその大きさに気づく。

 けれど嘆いたところで目の前にあることは変えようがない。小津の心が離れていってしまった事実は変わらない。もしかしたらあの日の反応で光喜の気持ちが自分に向いていたことに気づいたかもしれない。いや――きっと気づいたのだろう。だからこそあの人は毎日のように連絡をくれた。

 しかしそれさえも避けるように音信不通になったら、嫌われたと思って当然だろう。それが色恋ではなく友人だったとしても、そう思ってもおかしくない状況だ。臆病な自分に光喜はひどく嫌気がさす。手を伸ばさなければ手に入らないとわかっていたはずなのに、現実を見るのが怖くてとっさに逃げた。もう、終わりなのかもしれない。
 しかしそう思うけれど、光喜はまだ小津になにひとつ伝えていない。諦めることは簡単だ、それでも好きだと伝える前にすべて終わりにすることはしたくないと思う。

「やだ、このまま終わりになるなんて、嫌だ。……諦めたくない」

 あの背中を追いかけられなかった自分にその資格があるのか、迷いは浮かぶ。それでももう一度手を伸ばしたい。向こうが引くというならば、今度は自分が向かう番だ。それでもう好きじゃない、そう言われたらその時、本当に諦めよう。

 それを想像するだけで光喜は震える思いがする。しかしこのまま終わりにしたら一生後悔することになる。勝利への想いとは比べられないくらいに引きずって、もう二度と恋なんてできなくなる気がした。これは初恋、とは違うかもしれないけれど、光喜がはじめて本気で向き合った恋だ。
 ほだされたわけじゃない、新鮮さに惹かれたわけでもない。ただまっすぐとあの優しさに心が引き寄せられた。あの温かい笑みがなによりも愛おしいと思えた。

「好き、好きだよ。……小津さんじゃなきゃ嫌だよ。ほかの誰かじゃ、やだよ。俺だけを見て、ほかの人なんか目に映さないで」

 あの人が目の前にいる時には出てこなかった言葉が、いまになってこぼれ出す。たったこれだけの言葉が伝えられないなんて、心が弱いにもほどがある。そんな自分に腹が立って、苛立ちをぶつけるように光喜は両手で廊下を叩いた。
 何度も何度も叩いて、そこにうずくまるように背中を丸める。赤くなった手を握りしめると拳が震えた。それと共にまた感情が溢れて、堰を切ったように泣き出す。いままでこんなに泣いたことはないのではないかと思えるくらい。

 きっと外にも泣き声が漏れているだろうな、とは思ったけれど、光喜は泣き止む術がわからなかった。けれど暗闇の中でひたすら泣いて泣いて、泣き続けて、泣くのにも疲れた頃にようやく壊れた涙腺が枯れたように涙が降り止んだ。
 しかし顔を上げるとまぶたが重く、もう涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、人には絶対見せられない顔だというのはわかった。のっそりと立ち上がって光喜は頼りない足取りで洗面所に向かう。そして水を勢いよく流し、汚れた顔を大雑把に洗った。

「うっわぁ、すごい不細工」

 洗面台の明かりを点けると、鏡の中に目を真っ赤にしてまぶたを腫らした顔が映っている。その顔は泣き止んだはずなのにまだ泣き出しそうな目をしていた。

「引っ越し明日じゃなくて良かった。明日には腫れ引くかな」

 気を緩めるとまた少し涙がじわりと浮かぶ。それを手の甲で拭って、タオルを取るとそれを冷たい水で濡らした。絞ったタオルを目に当てて光喜はため息をつく。小津に会って泣いてしまったらどうしよう、そんな不安が湧いてくる。
 明後日はいつも以上にしっかりと仮面を被らなければ。あの人の前で笑っていたい。泣いて縋ったら優しい彼は胸を痛めて、自責の念に駆られるだろう。そうしたら気持ちがなくても寄り添おうとしてくれるかもしれない。

「それじゃ、意味がない。そんな優しさが欲しいわけじゃない」

 あの人の上辺の優しさが欲しいのではない、光喜は小津の心が欲しいのだ。またこれまでのようにあの温かい眼差しで自分を見つめて欲しい、願いはただそれだけ。けれど泣かずに想いを伝えることができるだろうか。それだけが心配だ。また臆病風に吹かれたら、そう思うと少し気が重くなった。

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