10.変わらない場所
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 動物というものは本当に心の優しい人を見分ける、嗅ぎ分けるアンテナのようなものがあるのだろうか。公園でひとしきりボール遊びに興じた三頭は帰りの道すがら、光喜にべったりだった。
 特に凛太郎と茶太は、名前を呼ばれるだけで嬉しそうな顔をして振り切れんばかりに尻尾を振り、ぐいぐいと鼻先を寄せて撫でてくれとすり寄る。いい子だね、と優しく撫でてもらえば瞳を輝かせながらまた大きく尻尾を振った。

 足元にまとわりつく彼らのおかげで小津は光喜に近寄ることすらできない。そんな状況に狭い心は複雑になり、ため息が吐き出されてしまう。しかし至極楽しげな、幸せそうな横顔を見ると、まあいいか、と言う気持ちにもなる。

「えー、なに? 茶太ぁ、抱っことか無理だよ」

 ズボンのポケットで震えた携帯電話に視線を落としていたら、ふいに困ったような笑い声が響く。その声に小津が視線を上げると彼の腰辺りに前足をかけて抱っこをせがむ茶太の姿があった。
 もう四歳なのにまだ子供の時の感覚が頭にあるのか、甘えん坊の彼は散歩の帰り道に抱っこをせがむ。小さかった頃、甘やかして母や希美が抱っこをしてあげていたからだ。しかしゴールデンレトリバーの雄は三十キロ以上になることがほとんど。
 もはや抱き上げてあげられるのは父か小津しかいない。それも長い帰り道はかなり無理がある。仕方なしに鞄からおやつを取り出すとそれでなだめすかして帰ることにした。

「二人とも、おかえりなさい」

「うん、ただいま」

 日が暮れ始めた頃に家にたどり着く。門扉を開けて庭に回ると敦子が気づいて声をかけてくれた。三頭はブラッシングをし足を拭くと専用の小屋で思い思いにくつろぎ始める。遊び放題の庭と冷暖房完備の八畳ほどある小屋は人から見てもなかなか贅沢だ。
 けれど身体の大きなゴールデンレトリバーを三頭も家の中で自由にさせるのも大変なので、建て替えを繰り返しながらいまの大きさになった。日が暮れてから朝までは小屋で過ごし、日が昇る頃には庭で自由に遊ばせる。散歩は一日二回、天候が悪い日以外は欠かさない。

「光喜くん、毛が付いちゃったでしょ。これでコロコロして」

「あ、すみません」

「いま抜け毛が特に多い時期だから」

 散歩から帰ると人間もブラッシング、ならぬ粘着シートでの抜け毛取り。べったりとくっつかれていた光喜はシートがあっという間に毛だらけになった。一通り済むと洗面所で手を洗いリビングに戻る。
 昼間は間仕切りをしていた引き戸が開けられていて、右手のダイニングとキッチンがオープンになっている。敦子は晩ご飯作りに勤しんでいる真っ最中で、ソファに希美の姿しかなく、振り返った妹はのんびりとおかえりと笑う。

「ご飯もうすぐよ。あ、二人の荷物は修平の部屋にあげておいたから」

「ありがとう。なにか手伝う?」

「大丈夫よ、もうあと運ぶだけ。お父さん工房にいるから呼んできて」

「わかった。光喜くん適当に座ってていいよ」

「え? あ、うん」

「そんなこと言われたって手持ち無沙汰になっちゃうわよね。光喜くんこっちにいらっしゃい」

 少し心許ない表情をした彼に敦子は手招きをする。その手と恋人を見比べて光喜は様子を窺うような目をした。些か気遣いに欠けていたことに気づいて、小津は優しく頭を撫でる。

「母さんの手伝いしてあげて」

「うん」

 ふわっと笑みを浮かべた光喜は足早にキッチンへと向かっていく。母と並んだ姿をしばらく感慨深く見つめてから、小津はリビングを横切り庭へと下りた。
 明かりが灯った工房は六畳ほどの高道しか足を踏み入れることのない領域。幼い頃はよくここで教えてもらったものだが、大きな机や機材、資材で溢れたそこに身体の大きい二人が入って作業するのはもう無理だろう。
 扉をノックして声をかけると、短い返事が聞こえた。

「入りなさい」

「一段落したの?」

 扉を引いて開ければそれと同時に高道が振り返る。老眼鏡を外したその仕草に、父もだいぶ年を重ねたのだなという気持ちになる。けれど工房の中は昔と変わったところはほとんどなかった。

「いま仕事はどうだ」

「ああ、うん。だいぶ落ち着いたよ。生活に困らなくて、貯金ができるくらいには仕事ができてる」

 大学を卒業して家を出たばかりの頃はそれ一本で暮らしていけずに、小津は朝晩とアルバイトをして補っていた。そんな様子を知った母はわざわざ家を出なくても良かったのに、と言っていたが、父はなにも言わなかった。
 この仕事がそれほど安定した職業ではない、それを知っていたからこそなのかもしれない。母のように表立った支援をしてくれたわけではないが、営業に行くとよく父の名を聞いた。
 息子がいつかお世話になることもあるかもしれない、そう言葉を残してくれていた。だからと言ってひいき目に見てくれるわけではないけれど、高道の信用を預かるような気持ちにはなる。

「彼はいくつだった」

「え? ああ、今年で二十一になるよ」

「そうか」

「急に連れて来ることになってびっくりさせたかな」

「いや、構わない。母さんは喜んでいた」

「そっか」

 言葉数のそれほど多くない高道の気遣いが感じられる。心配をしてくれていたのだなと思った。そしていい子だな、と呟いた彼の言葉にひどくほっとした気持ちになる。いままでもなにも言わずに受け止めてくれていたことは小津もわかっていた。
 けれど聞かされるだけではわからないことも多い。実際に目にして驚きや実感があっただろうと思う。それでもまっすぐに笑みを返してくれる家族がいてくれることは、とても幸せなことだ。

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