波紋03
ふらつく身体を抱きしめられて、再び奪われた唇は優しく啄まれる。しかしギシリとフェンスが軋み、それはまた深くなっていく。いまはもう峰岸の制服を掴み、もたれたフェンスに身体を預けて立っているのが精一杯な状態だ。
それでも藤堂とは違う性急なその行為に、身体は拒もうと無意識にあがくけれど、力の入らない状態ではそれも無意味だ。
「んっ……」
時折もれる自分の声に顔が熱くなった。けれどそのたび峰岸に追い詰められて、ますます身体の力が抜けていく。ふわふわとした思考がさらに現実を遠ざけていく。このままじゃ駄目だと心の中ではわかっているのに、身体が思うように動いてくれない。流されてしまいそうな状況に、焦りや不安が湧き上がってくる。
けれど――突然辺りにものすごい音が響き渡り、我に返るよりも先に身体が大きく跳ねた。
「……」
ふっとそれた峰岸の視線の先を追いかけて、僕は冷や水をかぶったように一瞬にして血の気が引いた。
響いた音の原因は、屋上と校舎をつなぐ金属製の扉が強く壁にぶつかったためだった。けれど扉にきつく拳を押し付けこちらを見据えるその姿に、僕の声が震えた。
「藤、堂?」
三日ぶりにやっと会えたというのに、こんなタイミングの悪さがあるだろうか。自分の意志の弱さを今更ながらに呪ってしまう。
こちらを見る藤堂の目には明らかに怒りの色が浮かんでいる。その目を見れば、僕と峰岸の行為を間違いなく見られていたことがわかる。
「離せっ」
いますぐ傍へ行って謝りたいのに、峰岸の手は藤堂が現れてもその力を緩めてはくれない。それどころか抗う僕の身体をさらに抱きかかえた。
なにも言ってくれない藤堂と、まったく気持ちを読むことの出来ない峰岸のあいだに挟まれ、焦りと不安とで気が触れそうになる。
「待っ、藤堂っ」
けれど僕が一人慌てふためいているうちに、藤堂は微かに校内から聞こえてきた声に弾かれるよう、さっと身を翻してしまった。そして僕の声に振り返ることなくその姿が目の前から消える。
「あいつでほんとにいいのかよ」
ぽつりと呟かれた言葉と共に、どうやっても離してくれなかった峰岸の手があっさりと離れていった。支えるものがなくなった僕の身体は、自然と下へと落ちていく。座り込んだ地面にぽつぽつと小さな雫が落ちた。けれどいまはそれがなんなのかさえ考えるのも辛かった。
呆れられた? 嫌われた? そう考えるだけで胸が痛くて叫び出したい気分になる。
「会長、どうかなさったの? いますごい音がして」
近づいてきた小さな足音が扉の辺りでぴたりと止まる。それが誰のものかは気づいた。気づいたけれど、その声に人物に身勝手な怒りを覚えてしまった。
いま来なければ藤堂は――傍に来てくれたかもしれない。
「なんでもない、あっち見て来い」
そう言って僕の横をゆっくりと過ぎる峰岸は、扉からの視線を遮るように目の前に立った。
「わかりました。もう時間がないので戻ってきてくださいね」
「わかった」
少しため息の混じった声は、再び小さな足音を響かせ遠ざかっていく。
「……」
「泣くなよ、あんたに泣かれると弱いんだ」
「お前が、あんなことさえしなければ」
藤堂があんなに怒ったりしなかった。いや、これは言い訳だ。これは自分の意志の弱さが招いた結果だ。けれどそうわかっていても悔しくて、自分自身が嫌になりそうで、そう言わなければ胸の内に溜まった感情の行き場がなかった。
「けど、あいつはなにも言わなかった。見てるだけだった」
「……でもっ」
はっきりと突きつけられる現実に、押しつぶされそうなくらいひどく胸が痛くなった。
なにも言ってくれなかったことが悲しくて、いつまで経っても一人で抱え込んで、僕に頼ろうとはしてくれない藤堂の頑なさが、本当は不安で仕方がなかった。でも多分きっと、あの場所で立ちすくんでいた藤堂の中では、色んな葛藤があったんじゃないかと思う。峰岸に対する怒りと、僕に対する想いとが入り混じっていたんじゃないだろうか。
「駄目なんだ、お前がいくら優しくても、たとえ僕を愛してくれたとしても……お前じゃ駄目なんだ」
いまは――僕にとって藤堂がすべてだから、ほかの誰かでは代わりにならない。
「なんでそんなに想えんの? これから先だってこんなこと絶対続く」
「わかるかよっ、いちいちそんな理由なんか考えてない。ただ好きなんだ。僕は藤堂が好きで仕方がない」
幸せになりたい?
自分を選べと、あの時そう僕に言った峰岸の気持ちはいまなら理解出来る。いつかこうなることがわかっていたんだ。でもどんなに悲しくて不安で泣きたくなっても、ほかの誰かと一緒にいても自分は幸せにはなれない。どんな恵まれた環境で愛されたとしても、それが藤堂でなければ意味なんかないんだ。
「お前だって好きならわかるだろ。なんでそんなこと聞くんだよ」
報われない想いをしていてもまだ好きでいる。想いが通じた僕と峰岸はまったく違うようでいて、でも結局は同じだ。
「……あんたが泣くのを見るのは好きじゃない」
「そんなの、お前のエゴだ。頼むから、僕から藤堂だけは奪わないでくれ」
「もう泣くなよ」
膝を折り僕を抱き寄せた峰岸の気持ちは、痛いくらいに優しくて純粋だ。以前、藤堂も僕も好きだと言った峰岸の言葉に偽りはなくて、その想いも本物だ。でも僕にはどうしてやることも出来ない。けれどそれを一番わかっているのも峰岸なのかもしれない。
だからあんなに怒ったんだ。藤堂のことをよく知っているから、僕が傷つくことも峰岸にはきっと手に取るようにわかる。僕たち二人のあいだで一番苦しい想いをしているのは、峰岸自身なのかもしれない。
あふれ出す涙が止まるまで、峰岸は僕の髪を優しく撫でていた。