03.Over Pace
「いらっしゃいませー」
扉にぶら下がった重たげな鐘がカランと鈍い音を響かせた。峰岸の手によって押し開けられた扉の向こうはどこかノスタルジックな雰囲気で、独特な空気が漂っていた。
この落ち着いた雰囲気は嫌いじゃない。昼ご飯を食べた店と同様に寧ろ好きな感じだった。
「どうぞ」
「あ、ああ」
ぼんやりと店内を眺めていた僕の背を、峰岸はそっと押して中へと促す。ふいに見上げたその顔が実に満足げで、少しまた胸の内がざらりとした感覚を覚えた。
「センセはなんでも顔にでるなぁ」
「なんだよそれ」
「いや、素直で可愛いって意味だけど? あ、これが嫌か。意外とプライドが高いもんな」
「……」
ふっと笑った峰岸の表情に、自然と自分の顔が険しくなるのがわかる。別に彼が嫌いなわけじゃない。きっといま言われた通り、僕は変なところで意固地で見栄っ張りなのかもしれない。だからなんでもお見通しな顔をされると、自分がひどく劣っているみたいで嫌なのだ。
「まあ、センセのそれは男として当然の感情だけどな」
「……なんだか腹立つな」
「それ、それが良い。俺の前でイイ先生な顔はしなくても良いんだぜ」
思わず呟いた僕の言葉に、峰岸は至極嬉しそうな顔で笑う。こちらは八つ当たりをしているのに、そんな笑みを向けられると調子が狂ってしまう。
再び背を押されながら奥の席に促されるが、どうにも釈然としない。
「人間ってのはおんなじ奴が並び合うと良くない。違う性質同士は確かに相容れるまで大変だけどな、その後は折り合いついて案外長く続くもんだぜ」
「……お前の言ってることは変に難しくて、イマイチわからない」
回りくどい峰岸の言葉は、言っていることはなんとなくわかるものの、やはり少し自分とは違う思考の持ち主なのだと実感する。
「なんだ、はっきり言って欲しいのか?」
それなのに――ふて腐れた僕の雰囲気を感じとったのか、やたらと峰岸の声は優しい。
横暴さを感じることが多いけれど、結局のところ彼は根っこの部分がひどく優しくて、どうしてもその緩急に振り回されてしまう。
「はっきりってなんだ」
「俺はいま、どうやってセンセを口説こうか考えてんの」
「は?」
席につくなり、峰岸は頬杖をつきながらこちらの目を覗き込むように見つめる。真っ直ぐなその視線と紡ぎだされたその言葉に、思わず僕は目を丸くしてしまった。
「まだわかんない?」
首を捻った僕を見て峰岸はふいに立ち上がり、なぜか僕の横に立つ。そんな峰岸を見上げさらに首を傾げれば、ベンチシートの手前に座っていた僕の身体を彼は奥へと押しやる。意図の見えない行動に戸惑っていると、隣に腰掛けた峰岸は突然僕に覆い被さるよう抱きついた。
「な、なにやって」
「大丈夫、ここ死角だから」
「そういう問題じゃな、い」
確かに峰岸が言う通りここは一番奥まっている。しかも席がそれぞれ区切られているので、うまい具合に物陰になっていた。
「お前いっつもこんなことしてるんだろ」
「……まあ、いつもじゃないけど、否定はしない」
「開き直るなっ」
店員の反応でここも良く来るのだろうとは思っていたが、通りでこちらを見た彼らの反応に驚きが含まれていたわけだ。
「そんなに大人からかって楽しいか」
峰岸が連れて歩く子たちはさぞかし綺麗な子が多いのだろう。
「……卑屈だな。俺はセンセだからこういうことしてんの」
「誰にでもしてるんだろ」
「可愛いな、それヤキモチ?」
「違う!」
徐々に詰まる間合いに焦りが募る。近づく顔をそらし距離を取ろうと峰岸の肩を押して抵抗を示すものの、痛む背中が後ろの行き詰まりを知らせ、途方に暮れそうになった。
「俺のものになる気ない?」
「……な、ならない!」
ふいに抱き寄せられたその瞬間、先程までとは違う雰囲気に気がつき、僕は慌てて後退りしようと身を引いた。しかし逃げ場のない身体は、さらにきつく抱きしめられてしまった。
「峰岸、ストップっ」
「誰も見てないって」
「だから、そういう問題じゃ」
顔のすぐ横から微かに香る嗅ぎ慣れない甘い匂いがして、やたらと心拍数が上昇する。そしてそれと共に悔しいやら情けないやら、言葉にしがたい気持ちが溢れて泣きそうになった。
「センセ、泣きそう?」
思わずぎゅっと目をつむった僕に峰岸は小さく息をついた。そしてほんの一瞬、気のせいかと思うほど軽く、唇になにかが触れた。
驚いて目を開けば、こちらを見ていた峰岸がゆるりと口の端を上げ、固まっている僕に再びそっと口づける。目の当たりにしてしまったその行為に、一気に顔が熱くなった。
「ヤバい、ほんと……可愛いな。泣きそうなのがまた良い」
「お前は、最低だぞ」
「確かにそうだなぁ。でも、そんなに嫌じゃないだろ?」
じわりと浮かびかけたものを指先で拭われ、小さく肩が跳ねる。さらにじっと目を覗き込むよう見つめられれば、ひどく居心地が悪い。
「好きになれとは言わない。俺のことが嫌いじゃなければそれで良いんだぜ。その代わり甘やかしてやるから」
「……」
「答えるのが嫌なら頷くだけでも良い。嫌じゃないだろ?」
甘い言葉のようでいて、それはまるで誘導尋問だ。不思議と頷くのが正解のような気さえしてくるのは、峰岸の視線の強さだろう。
翻弄されているのはわかるのに、いま一ミリも動けないでいる自分が恨めしい。
「あんまりそんな可愛い顔をするなって、食いたくなる」
「それは、嫌だ」
指先で唇をなぞられて、とっさに出た声は自分で驚くほど震えていた。そしてそんな僕の声に峰岸は目を細める。
「ん、食うのは甘いもんにしとくか。センセの方がよっぽど甘そうだけどな」
身を固くして縮こまった僕の身体から腕を放し、小さな子供をあやすような手つきで峰岸は髪を撫でる。その優しい手に思わず騙されてしまいそうな気持ちが湧いた。
「というわけで注文。ケーキセットで珈琲」
「なにがというわけよっ」
「……え?」
身体を起こした峰岸の背後から、急に聞こえた声に僕は飛び上がるほど驚いた。
「ずっとそこで見てたクセにえらい言いようだな」
「私は見てません。一真くんのデカい身体でまったく見えませんでした」
峰岸の後ろで眉間にしわを寄せながら立っていたのは、すらりとした綺麗な女性だった。両手にメニューと水の入ったグラスを持っているところを見ると、この店の人なのだろう。しかしそんなことよりも、それを知っていながらあんなことをする、峰岸の神経がわからない。僕はしばらくあ然としたまま動けなかった。
「急に来られないってメールが来たかと思えばいきなり来て、そんな純真そうな人を口説かないでくれる?」
「可愛いだろ、センセ」
「もう、お兄さんになんて報告すれば良いのよっ」
いまだ固まっていた僕の肩を抱き寄せ、なんの遠慮もなしにこめかみ辺りへ口づけた峰岸を見て、彼女はがっくりと肩を落としてうな垂れた。
「センセ、これ兄貴の奥さんで雪香さん。で、ここが今日俺が来る予定だった場所」
「え?」
「ずっと気にしてただろ? 今日は店を手伝う予定だったんだけどな。センセと運命的な出会いしたからキャンセル」
にやりと笑ってこの場から去るよう促す峰岸に、大きなため息をついた女性――雪香さんは、ごめんなさいねと小さく僕に謝りながら水のグラスだけを置いて去っていく。
「気にしてたから、ここに来たのか?」
「ん? まあ、な。けど丁度良かったしな。雪香さんのケーキは美味いから好きなの選んで良いぜ」
「……そう、か」
見上げた横顔はあまりにも優しげで、それ以上言葉が見つからない。ほんの僅かな時間でこんなにも良いよう振り回されて――けれど嫌になるどころか、ふいに見せる一面が気になって気持ちがそぞろだ。きっと峰岸が自分とはまったく違うからこそ、気になって仕方がなくなるのだろう。
このまま一緒にいると、自分のペースを忘れ引きずられてしまいそうになる。
「どうした?」
「……なんでも、ない」
甘やかされるのにも押しにも弱い。峰岸の言った通り、簡単にほだされてしまいそうになっているいまの自分にひどくめまいがした。
流れに逆らおうとするたび、逆にこの強引さに巻き込まれているのかもしれない。
「いつでも俺に惚れて良いぜ」
「……それは遠慮する」
見透かしたように笑う峰岸から視線をそらしながら、僕は落ち着かない胸の内に小さく息をついた。
[Over Pace / end]