第20話 ノエル・サルベリーという男
一瞬反応が遅れたが、再びノック音と自分に呼びかける声が響き、リューウェイクは我に返る。
「ノエル?」
「はい。夜半に申し訳ありません。殿下の薬を持ち帰ってしまっていて」
「ああ、そうか。ちょうど良かった」
ようやく痛みから解放されるとわかり、リューウェイクはのろのろと立ち上がって扉を開いた。
薄暗い廊下には珍しく髪を乱したノエルが立っていて、わざわざ急いで戻ってきたのだとわかる。
「ありがとう。いま必要だと思っていたところなんだ」
「殿下? あの、顔色が」
「平気だ、少し痛みが強いだけで」
心配の文字がノエルの顔に浮かんで見える。安心させようとリューウェイクは笑みを返したが、ふいに目が回り足をもつれさせた。
するとこれまた珍しくノエルが大きな声を出す。
「どこが平気なのですか! ふらついていますよ」
「ノエル?」
「申し訳ありません。頭が痛むのに大声を出してしまい。ですがどうか今日は身体を休めてください。部屋まで体を支えることをお許しいただけますか?」
「そう、だな。さすがにこれでは仕事にならない。……頼む」
本音では仕事を終わらせたくとも、壁に手をついて支えていないと自分で立っているのも難しい。
ここで強がっても、寝室にたどり着く前に力尽きそうだった。
伸ばされたノエルの手を受け入れ、リューウェイクは彼の手に支えられながら隣室へ向かう。
「そういえば昔はよく、執務中に眠ってしまってノエルが運んでくれたな」
「そんな出来事もありましたね。当時の殿下はまだ幼かったですから。それでもあの歳で大人に負けないほど、頑張っていらっしゃいました」
「あの頃は認められたくて必死だったんだ」
(いまはそれは無駄だとわかってしまったけれど)
苦い気持ちが思い起こされ、リューウェイクは当時の自分へ皮肉な笑みを浮かべてしまった。
その様子を見ていたノエルは、慰めるでも咎めるでもなく、ただそっと主人を寝台へ腰かけさせる。
同じ時間を過ごした彼は、どれだけ努力が無駄であったか、よく知っているからだ。
「薬は処方してもらいましたが、一度また検診に来ていただきたいと言っていました」
「わかった。どこかで時間を空けてくれ」
寝台のヘッドボードに身を預けたリューウェイクは、痛みをこらえるように額に手を当て俯く。
だがしばらくそうしているとノエルの気配を近くに感じ、ゆっくりと視線を上げる。
彼の手にある、銀トレイの上には透明ガラスの水差しとグラス、薬包が一つずつ。
寝台の傍で膝をついたノエルが、トレイをリューウェイクへ差し出した。
「なにかいま、必要なものはありますか?」
「あ……いや、ない。なにもない」
ふっと暗赤色の瞳を思い出したものの、リューウェイクは脳裏からかき消すように首を横に振った。
こんな夜に呼び出してどうしようというのか。一方的に突き放しておいて、自分の都合で頼るなど、リューウェイクにはできそうになかった。
「殿下、薬を」
「えっ? ……ああ、すまない」
ノエルの声で、無意識に長く俯いていたことに気づき、リューウェイクは慌てて顔を上げると薬包を手に取った。
開けばいつもと同じクリーム色の粉薬。
味はとてつもなく苦い。
満たされたグラスを差し出されて、ためらいなく手に取り、冷たい水を喉へ流し込んだ。
若干熱があったのか、冷えた水が喉を通る感触がとても気持ち良く、飲み干すとリューウェイクはほぅと小さく息をついた。
「相変わらずよく効くな、これは」
処方されている薬は回復魔法も込められているので、胃まで落ちると体に染み渡りすーっと痛みが引く。
ようやく激痛から逃れられて、リューウェイクは肩の力が抜けた。
「気分はどうですか?」
「ん? 気分? それはいつもと――」
窺うようなノエルの声に訝しく思いながら、なにげなく答えかけたリューウェイクだったが、自分の内側から起こる異変に気づいた。
「……え?」
体内の魔力が深部からかき回されるように酷く乱れ始めて、先ほどまでのめまいとは些か違う浮遊感を覚える。
くらりと目が回ったリューウェイクの体は、もたれたヘッドボードから滑り落ちていく。
「ノ、エル?」
「殿下が悪いんですよ。いま、あの男を思い出したりしなければ、こんな真似はしなかったのに。こんな風に貴方を自分のものにするのを諦めたのに」
寝台が揺れてノエルが乗り上がってきたのがわかる。
頭ではわかっているのに、指先一つ動かせない状況で、リューウェイクは目を見張り彼を見つめることしかできずにいた。
体の脱力感と酩酊したような感覚。
伸ばされたノエルの手が頬に触れ、ゆるりと首筋を下りるとぞくりと身体の芯が震える。
「安心してください。これは政略結婚で子作りが上手くできない夫婦が、滞りなく営みをできるよう作られた薬で、副作用はまったくありません。きちんと合法ですよ?」
うっすらと笑ったノエルにリューウェイクは血の気が引く。
確かに合法ではあるのだが、よほどでなければ処方されない、ギリギリのラインの薬だ。
なぜなら口にしてからしばらく、快感が高まる頃まで体の自由がほとんど利かなくなる。
本来合意の元で飲む薬だけれど、闇売買で買われた物は強姦目的に使われるほどだ。
「殿下、私はずっと貴方のために、貴方のためだけに尽くしてきたんです。なのにどうして、いまさらほかの人間を傍に置こうとなさるんですか? 貴方の心を占めている存在が忌ま忌ましい」
緩慢な手つきで外されていく寝衣のボタンと、時折触れる指の感触がリューウェイクの心を凍えさせる。
身を屈めたノエルの唇が首筋を滑り、はだけられた胸元をひんやりとした手が這う。
押し止めたくても、呼びかけたくともなにもできず、リューウェイクは心の中で何度も声を上げた。
「大丈夫です。交われば私の魔力で乱れた殿下の魔力も整いますから」
一体なぜ、どうして、そんな言葉がリューウェイクの胸の内で繰り返される。
このような真似をすれば自分が今後どうなるかなど、わからない男ではないはずだ。
恐れや怒りよりも悲しみが先立ち、戸惑いに揺れた紫色の瞳から涙が伝い落ちる。
うっとりと微笑んだノエルが優しく髪を撫で、濡れた呼気が唇に触れた。
初めて顔を合わせたあの日。
いまと変わらず、気難しそうな雰囲気を醸し出すノエルは見たままの印象で、表情を和らげることなくリューウェイクに向け、静かに礼を執った。
「本日より殿下の補佐官となりました。ノエル・サルベリーと申します。なんなりとお申し付けください」
男爵家の次男ではあるが、十八歳で上級官吏の採用試験をトップで通った逸材と聞いた時、なにゆえこんなところにと驚きを隠せなかった。
どのように考えても厄介を押しつけられていると、当時、十四の子供であったリューウェイクでさえ思うほどだ。
主人となる相手が戸惑いの表情を浮かべているのに、どこ吹く風といった感じで、淡々と仕事を始める姿はある意味異様でもあった。
だが意外にもノエルは、とても真摯にリューウェイクと向かい合い、不慣れな主人に足並みを揃え、時に道の先へ導いてくれた。
一年過ぎた頃には、彼の無駄のなさすぎる性格が周囲と合わなかったから、リューウェイクの元にいるのだと理解をする。
だからいま――誰よりも信頼していたその男が、欲を持って自分に触れている現実がどうしても、リューウェイクは飲み込めない。
「ノ、エ……ル」
乱れた呼吸と掠れた声しか出せない状況で、何度も名前を呼べばノエルは応えるかの如く、優しく頬を撫でてくれる。
肌に口づけ快感を呼ぶように愛撫はするけれど、唇にも兆しを見せるリューウェイクの昂ぶりにも一切触れない。
彼は一体どうしたいのか。本音の部分が見えてこず、リューウェイクはもどかしさが募る。
見上げた先にある褐色の瞳は、愉悦などではない憂いた、寂しげな色を浮かべていた。
「殿下、愛しています。私は生涯、貴方にお仕えしたかった。ただそれだけなのです。ですが時が過ぎれば貴方は私を置いて去ってしまうのでしょう? それならばいっそ」
「……っ! ノエ、っ」
儚くも悲しげな笑みを浮かべたノエルに、手を伸ばしたくとも届かない。自由にならない体に焦りが湧き上がった。
このままでは駄目だ――それだけはリューウェイクにもわかる。
だけれど室内に響いた物音。
扉が勢い任せに開かれた音と獣の唸り声を聞くと、目の前が真っ暗になりそうだった。
次の瞬間にはノエルに飛びかかったバロンが、彼を寝台の向こうへ突き飛ばす。
サイドテーブルがなぎ倒されたのか派手な音も響き、どれほどの勢いだったかが窺えた。
目線を向ければ、大型獣ほどの大きさに変化したバロンが、ノエルにのし掛かっている。
「リュイ!」
あれほど心で呼んだ雪兎の声が聞こえても、リューウェイクは喜びの前に嘆きの感情しか湧かなかった。
それでも彼の腕に抱き寄せられると安堵もしてしまい、ちぐはぐな気持ちにリューウェイクの瞳から涙が溢れる。