同じ時を生きる

 宮殿に戻り、ミハエルの死去を伝えるとルカリオは痛ましげに顔をしかめた。

 たとえ国に災いを為すため暗躍していたとしても、大切に思っていた弟の死だ。
 心に様々な感情が溢れていただろう。

 ミハエルに手をかけたデイルは、一向に目覚めないので、誰しも処遇を決めかねた。
 そこでユーリは自らデイルの身柄を預かり、あるじ不在となったフィズネス領を預からせてほしいと願い出た。

 各地の浄化や病人の治療、視察の報奨としては荷が勝つと言われたが、自身はただ指揮をしただけで、活躍したのは魔法局の者たち。
 そしてライードとフィンメルだと、ユーリは強く主張した。

 議論が起こりかけたけれど、結局、皇帝の一言でユーリの主張がすべて承諾された。


 そうしてユーリがフィズネス公爵領を預かり、長い時が過ぎた昼下がり。

 いつものように部屋の花瓶に花を生け、ユーリは窓から吹き込む爽やかな春の風を感じつつ、ベッドに横たわる人へ声をかけた。

「ほら、綺麗に咲いただろう? 去年、種をまいたら無事に咲いた」

 ベッド脇にある、花瓶に生けたのは鮮やかなピンクと白色の花。
 フィズネス領とシノス村のあいだにあった、ユーリアの墓所――そこに咲いていた可愛らしい花だ。

 あの土地も浄化が終わり、ようやく花の種を外へ持ち出せるようになった。

「知っているか? 昨日は僕の誕生日だったんだぞ。あなたは一体いつになったら、一緒に祝ってくれるんだろうな」

 清潔なベッド。毎日シーツを取り替え、彼の身を清め、髪を梳くのはユーリの役目だ。

 とはいえまるで時間が止まったような彼の体は、髪が伸びることも、爪が伸びることもなかった。ただ一つ変化があったのは髪色。

 鮮やかな美しいピンク色だった髪は、日が過ぎるたびに毛先から黒くなっていった。
 いまではすっかり艶やかな黒髪になっている。

 おそらくすべてが終わり、与えられたシノスの加護がなくなったのだろう。

「ディー、またあなたの綺麗な瞳に見つめられたいなぁ」

 花を生けたあとのユーリは、彼――デイルの傍でお喋りするのが日課だ。

 もちろん、日がな一日、ここにいるわけではない。
 領主としての務めも果たしているので、書類仕事も公務もこなしている。

「早く僕を抱きしめてくれないか? 今年、僕はいくつになったと思う?」

 話しかけているあいだは少しの変化も見逃したくないので、ユーリはずっとデイルの手を握っている――のだが。

「ディー?」

 一瞬、握り返された気がした。
 驚いて顔を覗き込むと今度は確かにぎゅっと手を握られる。

「ようやく、時が戻ってきたんだな」

 深い眠りから覚めた、デイルのまつげがかすかに揺れ、ふっといままでとは違う呼吸をし始めた。
 ユーリは何年先だろうと待っている覚悟はあったけれど、いまという瞬間に目覚めてくれた彼に愛おしさが募る。

 ぽつんと頬にユーリの涙が落ちると、ゆるりとまぶたを上げ、デイルはピンクと黒の双眸を覗かせた。

「おかえり、ディー」

「ユーリさま。……遅くなり、ました」

「本当だよ」

 ぎゅっと自分の手を握りしめ、困ったように笑うデイルの表情に、たまらずユーリは彼に抱きついた。

「御髪の色は、戻らなかったのですね」

「前のほうが良かったのか?」

 抱きしめ返してくれるデイルは、編んだユーリの髪に触れる。
 以前は銀と緋色だった髪。あの日、鮮やかな緋色に変化してから戻りはしなかった。

 これが本来の色だと、シノスが言っていたので、もう戻しようがない。
 ユーリアの感情がユーリと同化したことで、眠っていた一部分の力が目覚めたらしい。

「いいえ、どちらも美しい色です。空色に緋色、なんとも優しい色合いですね」

「デイルは懐かしい色だ」

「ああ、私の役目は無事に終わったのですね」

 言われて気づいたのか。自身の前髪をつまんだデイルは、その色に納得したように息をつく。

「うん。すべて終わったんだ」

 あれからユーリは何度かシノスのねぐらを訪ねた。
 そして時の巻き戻りは今回で何度目だったのか、自分たちはこれまでどんな時間を過ごしてきたのかも、知った。

 事のはじまりはユーリアとディアランで間違いない。
 ただ巻き戻りはこれで八度目だという。

「僕が未来の記憶を持っていたのも、デイルが行動を起こしたのも今回が初めてだったそうだ。おかげで大きく時代に変化が起きた」

「もしや、時の神の悪戯でしょうかね。今回の私は過去の記憶がなければ、行動を起こさなかったかもしれません。自分が未来を変えるなど、きっと考えなかった。あなたが死す前に、身をていすのがせいぜいでしょう」

「…………」

「魂が巡る、時の神によって。今回の件で初めて神という存在を感じました」

 この世界で神という存在はそこまで偶像視されていない。

 神は存在するだろうと考えているけれど、ひどく崇拝したり盲信したりせず、誰もが自然の摂理と思っている。ドラゴンが現存すると信じる国民が少ないのもそれゆえだ。

「あの男も、時戻りに関係があったのでしょうか。最期になにやら意味深な言葉を」

「叔父上は――すべての時で記憶があったわけではないらしい。ある時代で、時戻りの現象に気づいてから、繰り返し自分の庭のように国を、時代をもてあそんでいた」

「現象とは?」

「僕の、死だ。僕を失うと必ずディーが時戻りを願った。本当はもう、あなたの魂はすり減り続けて、なくなる寸前だった」

 シノスが〝捧げる予定である魂に傷をこうも増やすなど〟――と言っていたのは、それゆえだ。

「今世が、最後の機会だったのですね。無事にユーリさまの未来を変えられて良かった」

「良かったじゃない! 叔父上が最後に諦めなかったら、僕はディーを永遠に失うところだった! 僕はあなたのいない世界で生きていたくない」

 ぎゅうぎゅうとデイルの体に抱きつくと、彼はユーリの震える肩を優しく撫でる。

「申し訳ありません。ですが、私は同じことが起きたら何度でも願ってしまいます」

「わかっている。僕だってディーの立場だったら同じ真似をした。だけど!」

「もう、傍を離れません。約束いたします」

「もし先にディーが逝ってしまったら僕はあとを追う。魂尽きる時まで一緒だ」

「はい」

 溢れて止まらないユーリの涙を拭ったデイルは、そっと頬に手のひらを添えた。
 触れるぬくもりに安堵して、じっと彼の瞳を見つめてから、ユーリはまぶたを閉じる。

 するとそれが合図であったかのように、唇に口づけが与えられた。
 長い間、待ち焦がれたぬくもりだ。

「ディー、愛してる」

「私もです。ユーリさま」

「皆に知らせないといけないんだが、もう少し」

「ふふ、愛らしいですね」

 ベッドの上に乗り上がり、何度も口づけをねだっていたユーリだが、ふいにノックとともに部屋の扉が開いた。
 開けた本人はタイミングの悪さと驚きで「あっ!」と声を上げる。

 ユーリとデイルが扉のほうを振り向けば、彼は慌ただしく踵を返して走り去ってしまった。

 開けっぱなしの扉の向こう――廊下からは「起きた、起きた!」と忙しない声が聞こえ、デイルとともにユーリは顔を見合わせて笑う。

「ライードは相変わらずですね」

「まあいつもあんな感じだが、それでも普段はちゃんとうちの騎士団をまとめてくれている」

「そういえば、ここはどこなのでしょう」

「フィズネス公爵領だ。いまは僕が治めている。いまのことはこれからゆっくり話そう。なにせ八年分だからな」

 デイルが眠って、八年過ぎた。未来の自身と同じ歳になったユーリだけれど、世界は随分と変わっている。

 無事にルカリオからシリウスへ譲位が行われた。
 もう三年ほど前になる。シリウスの治世も安定しており、最近第二子が生まれた。

 ルカリオもエリーサも、いまでは孫を可愛がるただの祖父母になっている。
 ヘイリーは魔法騎士団の団長の地位から、アビリゲイト侯爵に譲られた総団長に昇格。
 隣国に嫁いだミラはもうすぐ王妃になる。

 誰も失われていない未来。ユーリが望んだ未来だ。
 デイルも目覚めてくれたので、これで本当に未来が変わったと言えるだろう。

「やはり足腰はいくぶん弱っているようだな」

「弱っているというよりも、体が歩き方を忘れている感覚です」

 着替えを済ませ、一緒に部屋を出たデイルがわずかによろけたため、とっさにユーリは手を伸ばす。本人曰く、体の状態は八年前と変わらないらしいが、慣れるまで気をつけるに越したことはない。

 階下へ行くまでとユーリはデイルの手のひらを握った。

「このまま行こう」

「えっ、あ……はい」

 ぎゅっとユーリが手を握ったら、デイルはぽっと頬を赤く染めた。
 思いがけない反応にふふっとユーリは笑みをこぼす。

「申し訳ありません。いまのお姿が、懐かしく。いえ、以前よりもずっとお綺麗ですが」

「ディーはいつまでその話し方なんだ?」

「え?」

「昔は対等に話してくれたのに」

「……この接し方が長くなったので。それに私がユーリさまの――あっ、私はいまどのような立場なのでしょうか?」

 一人あたふたとするデイルを見て、ユーリがますます笑みを深くしていると、彼はもの言いたげに眉をきゅっと寄せる。

「すまない。僕もディーがこうして傍にいて話してくれて嬉しいんだ。ディーの立場、だけれど。すべて僕預かりになっている。ディーはこれからどうしたい?」

 まさか八年も眠るとは思っていなかったので、騎士団は除籍になっていない。
 そのまま皇室で働くのも可能で、ライードのように皇室騎士団から離れ、公爵領の騎士となってもいい。

「私としては、これからもユーリさまの騎士でありたいです」

「そうか。すぐに復帰とはいかないだろうけれど、皇室から籍を移そう」

 ユーリの本音は、なんのしがらみもなくなったのだから、恋人として傍にいてくれないだろうかと思っていた。

 しかしデイルの感情が八年前と変わらないならば、少しずつ時間をかけて口説いていこうと、ユーリは前向きに考える。ようやく彼が目覚めた。

 八年待ったのだから、もっと先まで気長に心の変化も待てるはずだ。