変わらぬもの02

 毎日うるさいうるさいと愚痴を零しているが、今日は誰もいない静けさに弥彦はほんの少し寂しさを感じていた。

「慣れるとそんなもんなんだろうな。うちはいつも人がいないから気にならないけどな」

「寂しいこと言うなぁ。なんならうちに帰ってくる? でもきっと優哉はうるさくて三日ともたないだろうけど」

 肩をすくめた優哉に弥彦はさもおかしそうに笑い、真っ暗な廊下の電気をつける。急に辺りを照らした蛍光灯の光に、優哉は眩しそうに目を眇めた。

「……今日お前んちカレー?」

「ん、そう。ご飯は食べた? 一緒に食べていく?」

 リビングの扉を開けた途端に広がるスパイシーな香り。

 首を傾げた優哉を横目に弥彦はリビングから続く対面キッチンへ足を向けると、鍋を火にかけた。

「お前んちのカレーは、味は好きだけど甘いんだよな」

 ぐるりと鍋をかき回す弥彦の手元を、カウンター越しに覗き込む優哉の顔が不服そうな表情に変わる。しかし不満げに口を曲げるその反応に、弥彦は小さくため息をついた。

「仕方ないでしょ、お子様な味覚の人間しかうちにいないんだから。味がいいなら問題なし」

 昔から優哉は見かけに寄らず意外と我がままなところがある。普段は誰もが口を揃えて言うほどの優等生っぷりを発揮するのだが、時々こうして少し子供っぽい一面を見せる。けれど弥彦は慣れたもので、そんな彼の性格はさして気にしてはいなかった。

「文句を言いながらも食べるんだから、棚からお皿出して」

「はいはい」

「ハイは一回」

 ブツブツと文句を呟きながらも大人しく皿を持ってくる優哉の姿に、弥彦は思わず吹き出すよう笑ってしまった。

「なんだ」

「優哉は文句は多いけど、素直で可愛いなと思ってさ」

「俺をお前の弟たちと一緒にするな」

「大丈夫、うちのより出来がいいから」

 眉をひそめムスッとした態度で皿を差し出す優哉に、弥彦はますます笑いが込み上げた。

 そして笑いながらも差し出された皿にご飯とカレーを盛り付けて返せば、優哉はなんのためらいもなくそれを受け取り、リビングへと足を向ける。そんな不器用な素直さを持つ幼馴染みが、弥彦には可愛らしく思えた。

「それにしても、お前なんでこんな時間に食べてるんだ」

「え?」

 足の低いリビングのテーブルに並べられた二つのカレー。その一つを引き寄せ、優哉はふと顔を持ち上げて首を傾げた。その視線を見つめ、同じく首を傾げた弥彦は床に腰を下ろしながら真正面に座る彼を見つめ返す。

「お前んちはいつも早いだろ」

「……あっ、そういうことか」

 確かに普段、三島家はどんなに遅くとも二十時頃には食事を済ませている。けれど今日はもう時計は二十二時を回っていた。

 若干言葉の足りない優哉の問いに戸惑っていた弥彦だったが、ようやく合点がいったのか、苦笑いを浮かべつつももう一つの皿を引き寄せた。

「なんとなく一人でご飯食べる気にならなくてさ。希一は友達の家に泊まるからご飯ご馳走になってくるって言うし、父さんと貴穂は婆ちゃんちでご飯を食べてるし。だから今日は優哉が来てくれてほんと、助かった」

「ふぅん。まあ、あれだけ普段賑やかだとそうなるか」

 一人で食べる食事は確かに味気ないものだと、最近それを優哉も知った。

 今日も家に帰って一人の時間を過ごすのが癪で、コンビニに寄ってビールを手に取った。気を紛らわせてやり過ごしたいという考えだ。だからこそ弥彦の気持ちが優哉はいまなんとなくだがわかるような気がした。

「でもお前、いつまでも家主体の生活はマズイだろ。もう少し遊べよ」

「んー、それはこないだ父さんにも言われた。就職するつもりだったんだけど。ほんとにやりたいことないなら大学行って少しは遊べってさ」

 大学は遊ぶとこじゃないよ、と皿をつつき、呆れたようなため息をついた弥彦に、優哉はカレーを口に運びながら肩をすくめる。

「ものの例えだろ。大体、お前は浮いた話の一つもないんだ。親父さんだって心配するだろ。なんかないのか」

「えー? ないよそんなの。俺は優哉と違ってモテないし」

「……別にお前はモテないことはないだろうけど、積極性がないからいい人止まりなんだ」

 弥彦は性格も穏やかで優しくて、誰が見ても人好きするタイプの人間だった。けれど大抵みな口を揃えて言う。

 三島くんはすごく良い人なんだけど――と。

「あと、あずみと一緒に居過ぎなんだよ」

「あっちゃん? んー、そうかなぁ」

「大学はさすがに一緒じゃないだろうな」

 不可解そうな表情で首を傾ける弥彦の反応に、頭を抑えながら優哉は肩を落とした。いくら姉弟同然とは言えど、周りから見ればそう捉えがたいものだと優哉は思っていた。けれど当人たちはまったくもって気にしていない。

「大学は別だよ。あっちゃんはやりたいことあるみたいだし」

「お前も少しは自分のこと考えろよ」

「……うん。でもさ、そう考えると、俺たちって卒業したらバラバラなんだ。なんだかすごく寂しいなぁ」

「仕方ないだろ」

 しょんぼりと肩を落とした弥彦に、優哉は思わず小さく息をついた。

 つかず離れずで、確かに長い間三人はずっと一緒にいた。しかし成長をして、それぞれがそれぞれの道を歩き始める時期が来たのだ。いつまでも昔のままではいられないのが現実だ。

「まあ、仕方ないんだけどさ」

「卒業したら会えなくなるわけじゃないだろ」

「そうだよね」

 浮かない顔のままもごもごと口を動かす弥彦の姿を、優哉はカレーをすくう手を止めてじっと見つめた。

「焦るなよ。自分のことはこれからゆっくり考えればいい。俺たちはお前のことを置いていったりしない」

「……ん、ありがと」

「俺たちはお前の世話になりっぱなしだからな」

 同じ歩幅で歩いていた仲間が急に離れていく。それは出遅れる立場から見れば、ひどく不安で怖いことのように感じる。その証拠に珍しく弥彦の表情が暗い。

「それくらいしかできないし、俺は優哉やあっちゃんみたいな器用さはないからさ」

「馬鹿だな。お前が俺たちみたいなずる賢い奴だったらがっかりだ。お前だから一緒にいるんだろ」

 大仰にため息をついて、優哉はいささか俯き加減な弥彦に目を細めた。

「大体、お前じゃなかったら俺はここにいない」

「……そっか」

「それと今日はここに残る」

「へ? あ、うん! 泊まるってことだよね。それは大歓迎!」

 唐突な優哉の言葉に一瞬目を丸くしながらも、弥彦は照れくさそうに下を向き、黙々とカレーを口に運ぶ幼馴染みの姿に頬を緩めた。

「俺も色々頑張ろうっと」

「お前は頑張らなくて良いから、ちゃんと自分のこと考えろ」

「ちゃんと考えるよこれから」

 ふいに顔を持ち上げた優哉の眉間に寄ったしわと、綺麗に平らげられた皿を見ながら弥彦は小さく声を上げて笑った。

[変わらぬもの/end]