第8話 なぜそうなった?・再び
あのあとどうなったかと言えば、会うのを避け続けた反動なのか。
希壱と週に一回は会うようになった。もちろん一真の要望ではなく、これでもたびたび断っている。
毎日でも会いたい。などと馬鹿なことを言うので、社会人はそこまで暇じゃないと返していた。
年明けはなにかと忙しく、今日も残業が確実な日だったのだけれど――
「思いのほか早く帰れてしまった」
駅に向かうためのバスに乗り、時計を見るといつもより少々遅い程度の時間。
まっすぐ帰宅してもいいが、わずかでも気分転換をしようと、一真は寄り道すると決めた。
勤め先が高校なので、正月休みが終わると生徒の受験、新入学の試験などで忙しい。
それが済めば次は、卒業式やら入学式やら。しばらく息抜きする暇もないだろう。
せっかくの空き時間だが、明日もまた仕事。
短時間しか空いていない。さすがにこれから希壱に会うのは難しいだろう。
夜も遅いし一杯だけと、心の中で言い訳しつつ、一真はミサキのバーへ向かう。
店に着いたら、いつぞや見た顔があった。
先客である彼は、複数人のグループで来ている。しかし挨拶をする仲でもない。
ミサキに勧められるままカウンター席へ腰掛け、一真はいつもの酒を頼んだ。
「こんばんは」
しばらくして、なにやら既視感のある状況になる。
一真はかけられた声に、振り向くか否かを考えた。
だがすぐにもう一度「こんばんは」と声をかけられると、さすがに無視するわけにもいかない。
「今度はなんだ?」
希壱を振る予定だったけれど、バッサリと却下されてしまい、彼の願いは遠のいたのだが。
隣へ視線を向けたら、今回はとても機嫌良さそうな表情で座っている。
夏樹の上機嫌さに一真は訝しさが先立つ。あれだけ希壱を自由にしろ、と怒っていたのにこの態度。気味悪く思えて当然だ。
「そんなに警戒しないでください。今日はこれからについて、報告しておこうと思って」
「報告?」
あからさまに怪訝な顔をする一真に、夏樹はひらひらと手を振りながら、よくわからないことを言う。
「こないだの件、希壱くんにすごい怒られちゃって。彼の気持ちを聞いたら、僕が横入りはできないなって思ったから、二人を応援するって決めました」
「――なぜそうなる? 俺は応援されても困るんだが」
さらに訳のわからない展開になり、一真の眉間にしわが寄る。だが隣の夏樹はまったく動じた様子を見せない。
「希壱くんには幸せになってほしいので」
「俺の都合は完全に無視か?」
「あなたには、希壱くんくらいしかいないですよ。まっすぐに好きだ、って言ってくれる人。彼以上に愛してくれる相手は、もう見つからないですよ」
「…………」
腹が立つが、確かにそう思えてしまう現状。一真は言い返す言葉が見当たらず、酒を口に含んで場を誤魔化した。
(希壱のやつ、一体なにを言ったんだよ)
そもそもあそこまで感情をあらわにしていた人間が、ここまで手のひらを返すような怒り方とは。
しかしいくら考えても、まず一真は希壱が本気で怒ったところを見た覚えがないため、想像もできなかった。
「人の恋路を応援していないで、自分のパートナーを探せよ」
「簡単に、はい次! なんていけるわけないじゃないか。顔が良すぎる人はこれだから」
「……ったく、人をなんだと。俺だってそんなに簡単じゃない。ミサキ、会計」
顔が良ければ、すぐに次へ次へいけると思ったら大間違いだ。
若干ムッとしつつ、一真がカウンター内にいるミサキへ声をかけたら、クスッと彼女に小さく笑われた。
「あっ、帰るなら連絡先を教えてください」
「だから、なぜそうなる」
「希壱くんの周りでなにかあったら、僕が知らせますよ」
しばらくごねられたが、別になにかあっても困りはしないと、夏樹を軽くあしらい、一真は残りの酒をあおって店を出た。
「なにかあったら、ってなんだよ」
しかしなにか《《ありそう》》だからの台詞だとすれば、気になってしまうものだ。
一真はコートのポケットに手を突っ込み、むやみにスマートフォンに触れていた。
すると――突然、指先で震えだし、反射的に一真の肩がビクッと跳ね上がる。
「……希壱か、どうした?」
指で誤作動させたかと思ったけれど、なんてことはない。希壱からの着信だった。
バクバク言っている心臓と、動揺を誤魔化しつつ、一真は努めて冷静を装う。
『いま忙しかった? ただなんとなく、一真さんの声が聞きたくて』
「いや、今日は少し早く終わったから、寄り道してた」
『そうだったんだ。少しでも時間があるなら。五分でもいいから会いたいなぁ。一真さんの駅に俺、行くからさ。ちょっとだけでも駄目かな?』
(こうなるなら、最初から希壱に連絡してやれば良かったな)
しょんぼりした寂しそうな声。思えば忙しさにかまけて、ろくに会いも電話もしていなかった。
今日も、時間が遅いからと希壱を後回しにしている。付き合っているわけでもないのだから、そこまで心を砕く必要はないけれど。
寂しがり屋の猫は、適度に愛情を注がないと駄目らしい。勝手に希壱が黒猫のよう、と思っているのは一真だが、あながち間違いではないだろう。
わりと気ままで、自分の関心ごとが一番。人の感情に聡い部分もありつつ、上手いこと自分優位に誘導する面も備えていた。
しかし一切、相手に嫌な感情を抱かせない愛嬌と、甘え上手さもある。
「時間、遅いから俺がそっちに寄る」
『駄目だよ。一真さん、明日も早いんでしょ? いま家を出るから』
「しょうがねぇなぁ。んじゃ、駅前でな」
『うん!』
(またしても希壱に転がされてしまった。誰だよ俺にコロッと転がされたら、なんて言ってたやつ。俺がめちゃくちゃ振り回されてんじゃねぇか)
それでも悪い気がしないので、まったくもってタチが悪いとしか言えない。
待たせるのも気が引けて、足早になってしまう自分が、すっかり希壱のペースに慣らされていると気づく。
これまでは一真のご機嫌を伺う相手ばかりだったので、このパターンは初めてだった。
なぜそうなってしまうのかは謎で、自分の都合に合わせろと思ったことは一度もない。
さらに言えば、恋人として付き合っていた相手に、萎縮させる真似をした覚えもない。
過去の経験もあり、希壱のマイペースさが、いまの一真には楽でありがたかった。
電話で話してから十数分。
最寄り駅で降り、改札を出れば、構内の端のほうで壁にもたれている希壱を発見する。
彼は背が高いので、中央付近に立つとひどく目立ってしまう。ゆえにいつも端へ寄りがちなのだとか。
一真に気づくと希壱は嬉しそうに笑った。
「今日も一日、お疲れさま」
「飲んできた帰りだけどな」
「それはそれ、これはこれ。俺の我がままに付き合ってくれてありがとう」
近づいていったら、たどり着く前に向こうが目の前までやって来る。希壱の一歩はかなり大きい。
普段は長く一緒にいたいから、と言う理由でゆっくり歩いているらしいのだが。
「やっぱり声だけより、会えるのが嬉しい」
「そうか、そりゃ良かったな」
「ちょっとだけ、触れたい」
「ここでか?」
「駄目?」
「……いまの時間、人が多いだろ」
おねだりモードの黒猫にグラッとよろめきかけて、いかんいかんと一真は我に返る。
最近、帰り際にハグを要求される回数が多いので、おねだりされるのはまだいいのだけれど。周囲には一日を終え、帰路につく人たちが数多くいた。
「お前、明日は?」
「明日は予定ない。来月の卒業式まで、もうすることあんまりないんだよね」
「じゃあ、うちに来い」
「え? えぇっ?」
駅からマンションは五分程度なので、気軽に言ってみた一真は、驚きに目を見開いた希壱の反応につられて驚く。
「なんだ? そんなに驚くほどか?」
「か、一真さん。男は狼だよ」
「なに言ってんだよ、お前は」
若干上擦った希壱の声に、思わず一真は笑ってしまった。さすがにほかの男は自分のスペースに招かないけれど、希壱ならば別だ。
本人はこう言っているが、いきなり押し倒してこられるほどの、度胸は持ち合わせていないだろう。いまの挙動不審さを見ていたらわかる。
「来ないのか?」
「行くに決まってるでしょ!」
食い気味に返事をされて、またもや一真は笑ってしまい、あまりにも笑うので希壱がふて腐れた。
「でもさ、一真さん。俺だからっていうのはなんとなくわかるんだけど。触れたいって言われて、うちに来いって誘うのは駄目だよ」
むすっと口を尖らせながら隣を歩く希壱の言葉に、一真は口の端を上げて笑う。
「そうか。ならもうやめておく」
「あっ! 俺はいいよ。いくらでも!」
「いいのか悪いのか、どっちだよ」
慌てて身振り手振りで訂正する希壱のおかげで、先ほどから笑いが止まらない。
こんなに笑ったのは、いつぶりかと思えるほどだ。