第13話 前へ一歩、踏み出す勇気
昼食を済ませたあとは、お互いなにをするでもなく、ぼんやりとデジタル配信の映画を観たり、ぽつぽつなにげない会話をしたり。
半分くらい、一真は居眠りしていたような気がした。
だが最初に言っていたように、希壱は傍にいられれば十分と、文句一つ言わず隣にいた。
夕方が近づき、そろそろ希壱は帰る頃だろうかと、考えているうちに一真はまた居眠りをしていたらしい。目が覚めると、ソファからベッドへ移動している。
希壱の体格であれば、一真を運ぶのは容易いだろう。
「もう、帰ったか?」
部屋はカーテンが引かれて明るさがわからない。しかしベッドの宮棚にある時計は、十八時三十六分と表示している。
記憶にある限り、もう少しで十七時、という時間まで希壱は隣にいた。
寝起きのだるさはあるものの、喉が渇いて一真はのろのろと立ち上がる。
「ん?」
寝室の扉を開くと、暗いリビングを想像していた場所に思いがけず、明かりがついていた。
明るさと予想外のことで、一真は目を瞬かせる。
「一真さん、起きた? お腹空いた? それとも喉が渇いた?」
首を巡らせば、キッチンに希壱が立っている。どうやら彼は買い物へ行き、一真の晩ご飯を作っているらしかった。
「喉、乾いた」
「やっぱり少し熱が上がったのかな。寝てる時ちょっと寝苦しそうだったから、ベッドに移したんだ。はい、お水」
すぐさまコップに水を入れ、傍まで来てくれた希壱が、額に手を当ててくる。
水仕事をしていたせいか、わずかに冷たく、一真はひんやりとした感触に息をついた。
「夕飯、食べられそう?」
「なにを作ったんだ?」
「参鶏湯風のお粥。生姜とにんにくを入れたから温まるよ。胃にもそんなに負担がかからないと思う」
「食べる」
「うん。座って待っていて」
さりげなく額にキスを落とし、希壱は一真をダイニングテーブルに着かせる。
いつもならば勝手にキスをして、と文句を言うところだが、いまはそんな気力もない。一真は黙って椅子に腰掛けて待つ。
コトコトと煮込まれている、鶏の匂いがほのかにする。それと一緒に食欲を誘うにんにくとごま油の香り。
わずかな時間でもベッドで寝たのが良かったようで、寝起きのだるさが抜けると幾分調子が良かった。それと同時に、一真の腹は空腹を訴えてくる。
昼は結局うどんを食べたら、もうなにも食べる気にならずそれきりだった。
腹をさすっていると、心配そうな顔をした希壱がやって来る。
「痛い?」
「いや、腹が減った」
「そっか。それは良かった。熱いから少し冷ましてから食べてね」
テーブルの真ん中に置かれた土鍋。希壱が蓋を開けばふわっと湯気が立ち上り、先ほどの匂いがさらに広がる。
すぐに希壱は椀に取り分けると、冷ますため鶏をほぐし、粥をかき混ぜた。
薬味はどうするかと聞かれたので、小口ネギをたっぷり入れてもらった。
本来の参鶏湯とは異なり、優しく味付けがしてあり食べやすい。粥に鶏のだしも染みて旨みが溢れんばかりだ。
「うまい」
「無理がない程度に食べて」
「お前は?」
「俺はそろそろお暇しようと思ってたから」
「ふぅん」
そういえば、と一真は思い出す。
今日は昼間だけでもというやり取りをしていた。加えて一真が体調不良。ならば早めに切り上げたほうがいい、そう希壱は判断したのだろう。
「お前も忙しいだろうしな」
「えっ? そういうわけじゃ。あんまり居座ったらゆっくりできないかと思って」
慌てた口調で言い募る希壱に、ふっと一真はため息をつく。あまりにも嫌味っぽい言い方だった。
「別に責めてない。ここまでしてもらって、ありがたいよ」
「そんな他人行儀な。……って、まだ他人みたいなもんか」
「希壱?」
「俺、一真さんのためならなんでもできるから。なんでも言ってくれていいよ。好きに使っていいよ」
「……そういう言い方、やめろ」
自分を卑下した自虐的な物言い。眉をひそめる一真に、苦笑した希壱はひどく寂しそうな表情を浮かべる。
「どうしたらいいのか。俺もよくわからなくて。一真さん、俺がちゃんと見えてる?」
「なにが言いたいんだ?」
「俺はいつまで兄さんの弟で、一真さんの弟なのかな」
「それは」
「ごめん。なんでもない」
また彼へ告げるのを、後回しにしてしまった。気づいた一真は言葉を伝えようとするが、少し強めな口調で制される。
なにも言うなと言わんばかりで、彼が想像しているものではないのに、一真は先を紡げなくなる。
さらには珍しく大きなため息を吐かれて、心臓の辺りがきゅっとなった。
「ごめんね。いつも自分勝手で」
「そんな風に思った覚えはない。俺は」
時折強引さはあっても、希壱が自分勝手だと感じたことは一度もない。しかし一真の決意は、続いてスマートフォンが振動する音に邪魔される。
静けさが広がる室内に音がやけに響き、無視しようにも主張が激しい。
「希壱、お前のだろう? 着信、いいのか」
「うん」
仕方なしに希壱を促すが、傍で立ち尽くす彼は返事をするものの、その場を動かない。
しばらく鳴っていた音はそうしているあいだに途切れてしまった。
「このあと、なにか約束でもあるんじゃないのか」
「行ってほしいの?」
「は?」
「ごめん、ほんとごめん。俺、なんだか今日は駄目かも。……もう帰るね」
自分で自分の態度に嫌気が差した様子で、希壱は額を押さえてため息をつく。
いまの状況ではそのうち口論になりそうでもあり、一真はただ相づちしか打てなかった。
「キッチンの洗い物は片付けたけど、調子が悪いのに後片付けさせてごめんね」
「何回も謝るな。大丈夫だ」
「うん。ありがとう」
「今日は、一緒にいてくれて助かった。おかげで少し楽になった」
「ご褒美、もらってもいい?」
「……ああ」
些細なおねだり。小さく頷き返せば、希壱は身を屈めて一真の唇へキスを落とす。
やんわりと触れるだけのものだけれど、ひどく想いがこもっているように感じられた。
「また、誘ってもいい?」
「もちろん。いつでも」
「良かった。それじゃあ、俺、行くね」
「今日は悪かったな。ありがとう」
「うん」
最後に希壱の、いつもの笑顔が見られてほっとした。見送りはしなくていいと言われ、どさくさ紛れに、頬へキスをしてから帰って行ったが。
「希壱がいないと急に静かだな」
自分以外の気配がない部屋。自分の立てる物音だけが響く。妙に寒々しくて、一真は温かい湯気を立てる粥を口に運んだ。
これだけがいまはぬくもりを感じられる。
「まだいてほしい、くらい言えよな」
体調が悪いと、人が恋しくなると言うけれど。まさしくそんな状態で、一真の口元に苦笑が滲む。
言葉を遮られた瞬間、怖じ気づいてそれ以上なにも言えなかった。
いままでにない自分の反応に、一真自身も戸惑っている。
「クソ、またあいつのとこに行ってんじゃねぇだろうな」
希壱の友人が彬人だけでないとわかっていても、あの日の二人が思い浮かんでイラッとした。これは自分で言い訳しても仕方ない。
明らかな嫉妬だ。
こんな嫉妬を一人になってからするなら、希壱がいる時に真相を直接聞けばいいのに。
やけに自分が弱々しくなったようで、テーブルに両肘をつき、一真は頭を抱えるみたいに額を押さえた。
「夢みて引きずってる場合じゃねぇ。寝てる時、なにか言ったか、俺」
急に不安定になった希壱を思うと、ありえる。
これはもう、眠っているあいだに見た、懐かしい光景に浸っている余裕はない。過去よりいま、なにより未来だ。
「よし、フラれに行くか」
さすがに今日これからは無理だが、来週にでもあの二人がいる場所へ行こうと決めた。週末になると二人揃う場所があるのだ。
そのためにも少し体調を回復させなければならないと、一真は丁度いいくらいに冷めた粥を腹に収めた。