第17話 これからの関係を改める
はあ、と重たく長いため息が室内に響く。
一真の視線の先には顔なじみの医師がおり、呆れた声音で予想どおりの言葉を発した。
「疲労とストレスで、穴が空いてますね。何度か血、吐いてませんか?」
「なんか、黒っぽいの」
「それ、それです」
老齢の医師は、眼鏡をくいくいといじりながらカルテを見ている。
あのあと意識が落ちた一真は、救急車に乗せられ、搬送された。運良くかかりつけの病院だったので、面識のある医師が担当してくれたようだ。
その弊害で親へ連絡がいってしまったらしく、朝に目が覚めた早々、ほどほどに怒られた。原因がストレス性でなければ、母親の雷が落ちていただろう。
それでも神経質な一真の性格を考慮して、わざわざ個室に入れてくれたのはありがたかった。
「このまま入院、ですか?」
「ですねぇ。穴が空いちゃってますからねぇ。塞がるまでは治療です」
「マジか」
「まじです。……無理しちゃ駄目ですよ。早めに治療していたら、こうして時間を無駄にしないものです」
「正論ですね」
体の負担にならないよう、軽い小言で済ませてもらったけれど、一人になると一真はベッドの上でため息をついた。
「仕事、どうするかな」
経過を見ながら一週間か、長ければ二週間くらいの入院になるらしい。しばらく絶食での治療だ。
今回の原因が疲労とストレスなので、仕事を持ち込むなと先ほど言われたばかり。
しかしストレスの元は、仕事が二割、希壱が三割、自分の空回りが五割と一真は推測している。
少しくらい、と思うものの――確実に取り上げられるのが目に見えていた。
「来週末から大型連休か。退院したら頭下げて回らねぇとなぁ」
サイドボードの上にあったカレンダーへ視線を向け、一真は再びため息をつく。
「あー、不摂生極まれり! くそっ」
両手で顔を覆い、盛大なため息を吐き出していたら、急に戸をノックされた。
看護師か誰かだろう思い、返事をすると、顔を見せたのは希壱だった。
「なんかタイミングが悪かったかな?」
「聞こえたか?」
「ちょっとだけ」
「まあ、いい。入れよ」
現在は夕刻を過ぎ、外は暗くなっている。希壱は仕事帰りなのだろう。初めて見るスーツ姿だった。
「なかなか様になってるな」
「あっ、スーツ? 一真さんほどじゃないけど。ありがとう」
ベッドの傍に椅子を寄せ、腰掛けた希壱は小さく笑う。予想はしていたけれど、随分と心配をかけたようだ。
昨日の今日。見舞いに来てくれる時点でわかることだが、仕事疲れとは違う疲労が希壱の顔に浮かんでいる。
「希壱のほうが病人みたいな顔をしてるぞ」
「思いのほか元気そうで良かった」
「退院したらまたゆっくりしような」
「……うん」
こらえていたのだろう。声が掠れ、ぽつんと希壱の瞳から涙がこぼれ落ちた。
泣くなと言っても、きっと無理な願いだ。
目の前で好きな人が意識を失って倒れたら、一真でも心臓が潰れそうな思いをする。
「しばらく飯が食えないんだよな」
「じゃあ、胃に優しいご飯、作れるようにしておく」
「ああ」
「ごめんね、一真さん。俺、もっと大人だったらよかった。……いまは一真さんにもっと寄り添うべきだった。なにか悩んでるって気づいてたのに」
「謝るな。謝るような話じゃないし、お前が悪いって言ったのは、本気じゃない。希壱が悪いなんて本当に思ってるわけじゃない」
唇を噛みしめ、ぽろぽろと涙をこぼす希壱に、一真はティッシュペーパーの箱を投げて渡す。受け止めた彼は数枚抜いて、黙って鼻をかんだ。
「これはどっちかが悪いってわけでもない。お互い不器用すぎて、ちょっとばかりすれ違っただけだ。生きてりゃ、こんなことは山ほどあるぞ」
「うん」
年齢云々ではなく、一真も希壱も人間として未熟すぎたのだ。
ただしはっきりと言えば、希壱はともかく、一真がこのざまなのは人生の先輩として至らない。
実際のところ白黒つけるなら、悪いのはどちらか。そんなのは一真に決まっている。
勝手に想像をしてグルグルとして、ストレスを溜めて、忠告も聞かずに無理をした。
だがそう言えば、希壱は反論するだろう。だからどちらも悪くない、がいまは正しい。
「もう謝るなよ」
「うん」
「あのさ、希壱」
「……うん」
「俺たちのこれからだけど」
「…………」
膝の上でぎゅっと握りしめられた、希壱の手に不安がこもっている。悪い想像を膨らませてここへ来たのだろうか。
俯きがちになった希壱を見て、一真は小さく息をつく。するとビクッとかすかに肩が震えて、希壱は叱られた子猫のように小さくなってしまった。
「身構えんなよ。これは提案だ」
「提案?」
一真が腕を伸ばして、指先で希壱の膝をトントンと叩いたら、そろりと視線が上がる。
「俺は正直まだ、誰かと付き合っていく自信がない。希壱、お前は三年という空白の中、俺という想像だけを見てきた。だからしばらくのあいだお試し期間を設けようぜ」
「お試し」
「そう、お互いにこの先、上手くやっていけるか。問題がなかったら継続。もしどちらか片方でも無理だったらお試し終了」
「でも」
わずかに不服そうな表情を浮かべる、希壱の顔には〝きっと断られるに決まっている〟と書いてある。わかりやすくてつい一真は苦笑した。
「お前だって、俺に幻滅してやっぱりやめたとか」
「ないよ!」
「わかんねぇだろ? そもそも今回、俺は大人だし、しっかりしているし大丈夫に違いないって思っただろ?」
「そ、それは」
「でも実際は全然しっかりしてねぇし、子供みたいにグズグズしてるし、想像と違った。いつかそういうのが大きくなって、ヒビになるんだ。理想と現実ってやつ」
いい意味で、見た目とギャップがあるのはプラスになる。しかし高く評価をしていた物が、想像を大きく下回ると、人のがっかり感は実際よりも数倍大きくなるのだ。
「会っていなかった三年の中で、俺という人間が希壱の理想で出来上がってる。俺も昔のお前が残ってる。だから一旦リセットしてやり直さないか、って話だ」
「リセット……わかった。ゼロには戻れないけど、いまの自分を知ってもらえるようにって意味だよね。お試しだけど、付き合ってくれるんだよね?」
「恋人、カッコ仮ってやつだけどな」
「いい、それでもいい! 一真さんと付き合えるなら、可能性があるなら!」
前のめりになった希壱の表情が、すっかり晴れた。現金なやつめ、と思いはしても一真は希壱の笑顔が好きだった。
できるだけ希壱に笑っていてもらいたい。
早とちりなどをして、結果、泣かせる真似はもうしたくないと一真は反省をする。
原因は自分でも忘れていたトラウマだけれど、勝手に悪い想像をしてストレスを溜めるなど、馬鹿みたいだと思えた。
「昨日は出かけている途中だったのに、悪いな。お友達にも伝えてくれ」
「彬人さんは全然気にしていなかったよ。むしろ早く行けって追い立てられた。最近、色々と相談に乗ってもらっていて」
「もしかして、俺の?」
手持ち無沙汰に膝の上で指を絡め、もじもじしていた希壱は、問いかけに頬を赤らめこくんと頷く。
「あそこ彬人さんの家の近くで、帰るとこだったんだ。俺、一真さんにぐいぐい突進しすぎたかなって、距離おいたほうがいいかもなんて思ってたんだけど。逆に心が弱ってる相手の傍にいるべきって言われて、それで一真さんのところへ行こうかなって思っていて」
ひと息に話す希壱は、落ち着かない様子でそわそわし続けている。あの時の場面が思い出されたのだろうか。
会いに行こうとしていた相手が、いまにも倒れそうな様子だったから――
「ホームの向かいにいる、一真さんに気づいたんだけど、西岡さんとその……寄り添ってるみたいに見えて」
「あ、そっちか。なるほどな。それで慌てて走ってきたら、なんか様子がおかしいと気づいたんだな」
「う、うん」
(笑える。お互い同じことを考えてヤキモキしてたとか)
ぶわっと擬音が聞こえそうな勢いで、耳まで赤くなった希壱が可愛い。彼には一大事だったのだろうけれど、一真はヤキモチを妬いてくれたのが嬉しくて仕方がない。
あの時の言葉――驚きすぎて心臓が止まるかと思った――には、二つの意味があったわけだ。
「こんな俺だけど、よろしくお願いします。俺がいいって、一真さんに思わせられるよう頑張るから」
「そうだな。俺も希壱になんかイメージと違ったから終了で、って言われないように気をつけないとな」
「あの、そのことなんだけど」
「ん?」
もう少ししっかりしなければと一真が思っている傍で、希壱がどこか言いにくそうに、それでもおずおずと挙手をする。
「どうぞ」
授業で指名するときのように、一真が手のひらを上にして促したら、希壱は口元に手を当てつつ、またそわそわし始めた。
「あのね。正直言うと、一真さんって想像しているのと違ったなって思ってたんだよね。でもなんて言うか、悪い意味じゃなくて。想像してたのより可愛くて。いや、もちろん格好いいんだけど。可愛くて」
まるで大事なことなので二回言いました、と言わんばかりに言葉を重ねられ、一真は目を丸くする。
「大人の男性に失礼かなって、ずっと思ってたんだけど」
「……けどお前、わりと〝それ〟言葉に出てたじゃねぇか」
「そうなんだけど! ほんとはもっと思っていて、これまで出たのは思わずって感じで。だから今後はもっとたくさん出るかもしれない! ごめんなさい!」
「ははっ、ほんとに希壱は素直だな。わざわざ宣言してくれるなんて」
可愛いって、これからいっぱい言っちゃうかもだからごめん――だなんて謝ることか、と一真は腹を抱えて笑った。
「笑いすぎて胃が痛てぇとか、マジ笑える」
「か、一真さん! 大丈夫?」
「大丈夫だ。痛み止めは効いてる。笑いすぎただけだ」
痛いと言うより違和感がある、が正しい感覚だ。おそらく痛み止めが効いていなかったら、かなり痛かっただろう。
「看護師さんに無理はさせないでくださいって言われてたのに!」
「ん、じゃあ、キスしてくれたら治まる」
「へ?」
わたわたとしている、非常に可愛い希壱を見ていたら、一真に悪戯心が芽生える。さらっと告げられた言葉に、希壱は口をぽかんと開いた。
「しないのか?」
「ふぇ? いや、え? する! したい」
一瞬、思考がどこかへ行っていた希壱だが、一真が首を傾げて上目遣いをすると、すぐさま我に返って前のめりになる。
「そっとな」
「うん」
椅子から立ち上がった希壱が、ベッドに手をついて、ゆっくりと身を屈めてきた。凜々しい顔が目前まで迫れば、一真のまぶたは自然と閉じられる。
やんわりと優しく触れる唇。一真の体を心配しているのか、どこか怖々とした雰囲気が感じられ、一真は口元をほころばせた。