デキアイ02

 気持ちの底のほうに刺さっていた棘がなくなり、気持ちもすっかり上向いた。終始俯きがちだった城戸さんも最後には笑ってくれたし、やっと一段落した感じがする。
 この先のことを考えれば、ギクシャクしたままじゃお互いに仕事もしにくかっただろう。どこかで修復は必要だった。今日はタイミングがよかったな。

「あ、通町台って、そういえば広海先輩の事務所があるところだよな」

 いつものように広海先輩にメッセージを送って、ふと思い出したように顔を上げる。俺と広海先輩が住むマンションは目的地の一つ先の駅だ。駅と駅の距離はそんなに離れていなくて、どちらの駅を使っても二十分とかからない距離。
 だけど普段使っている駅のほうが利便性がよくて、通町台のほうはあんまり降りたことがない。でもそこから十分くらいのところに広海先輩が働いている事務所があったはずだ。思いついたように事務所名を検索して地図を開いてみる。

「あ、近い」

 地図で見てみると、レストランからほど近い場所にその事務所はあった。たぶん十分と離れていない距離だ。それを確認すると、車内アナウンスを聞きながら俺は勢い込んで立ち上がった。ちょっとくらい寄り道してもいいよな。そんなことを考えて、停車した電車から足早に降りた。

「この辺りはもう住宅ばっかりなんだな」

 駅前の大通りを抜けて脇道にそれると、軒を連ねる店が減り代わりにアパートや一戸建ての家が建ち並ぶ。賑やかなのは駅前だけで、奥に進むと閑静な住宅街だ。昼時なこともあってか人通りはなく、時折猫や小鳥が横切る程度。のんびり歩いていると時間を忘れそうになる。

「んー、この辺だよな」

 経路案内アプリは目的地に近づいていることを示していた。周りを注意深く見渡しながら歩いて行くと、広い通りの先に住宅とは少し違った印象の建物が見える。三階建てでモノトーンのスタイリッシュなデザイン。ビルという感じでもないその建物の前に立ち止まると、アプリは案内を終了した。

「へぇ、ここかぁ。さすがにおしゃれだな」

 広海先輩の勤めるデザイン事務所は、マンションや店舗などのデザインを主に扱っている。確かいま俺たちが住んでいるマンションも手がけていたはずだ。会社の規模自体は大きくないけど、話を聞く限り結構あちこちで引っ張りだこな印象がある。
 先輩の働く姿を想像しながら、建物を見上げてしばらくそこでぼんやりと立ち尽くしてしまった。しかしずっと立ち止まっているのもちょっと不審者過ぎる。ふと我に返って慌ただしく辺りを見回すが、相変わらず人通りはなくてほっと息をついた。

 広海先輩はまだ仕事中だろうか。先ほど送ったメッセージはまだ既読にはなっていない。しかしことあるごとに逐一送ってしまう俺に比べて、先輩から返ってくる反応はたぶん三分の一以下だ。
 あの人はこまめに携帯電話をチェックする人ではないから、それは大した問題ではない。それどころか帰る頃にやっと確認するなんてこともあり得る。

「昼休みっていつなんだろう。ちょっとくらい顔でも見ていきたかったな」

 そういえばいつもお昼は仕事の都合で不規則なんだと前に言っていた。お昼だからと言って昼休憩になるとは限らないらしい。
 たまに夕方まで昼抜きになることもあるようだ。俺の仕事も忙しいけど、広海先輩の仕事も年がら年中忙しそうな感じがする。道理でゆっくり二人で過ごす時間が少ないわけだ。

「あんまり寄り道し過ぎるのもよくないな。そろそろ行こう」

 時計を見ればもう少しで十二時になるところだ。目的の店もこれから忙しい時間帯になるだろう。早く行って用事を済ませてしまわないと。
 店の様子も見てこいと言っていたし、空いていたらついでにそこでご飯を食べて帰るのもいいかもしれない。パンが美味しいと峰岸さんが言っていたから、朝食用に買って帰ろうかな。

「おい、瑛冶!」

「え?」

 携帯電話をいじりながら歩いていたら、ふいに後ろから名前を呼ばれた。聞き間違えようがないその声に、思わず肩を跳ね上げて振り返る。そして少し視線をさ迷わせてその声の主を捜した。彼は先ほどまで俺が立っていた場所に佇んでいる。
 黒のチェスターコートに身を包んだその人は、俺がここにいることに驚いているのか、少しぽかんとした表情を浮かべていた。その姿を認めた瞬間、胸の鼓動が急に速くなり、自然と自分の顔が緩んでいくのを感じる。

「広海先輩!」

 立ち尽くしている彼めがけて両手を広げると、俺は駆け寄り飛びつく勢いで抱きしめてしまった。目を見開いて驚きをあらわにする顔が見えたけど、気付けば腕の中に閉じ込めた彼にすりすりと頬ずりしていた。
 思いがけず会えたことが嬉しくて、尻尾がバタバタと揺れているような気分。でもそれを堪能できたのはほんのわずかで、思い切り顔を手のひらで引き剥がされた。

「バカ犬、離せ!」

「うう、広海先輩。もうちょっと」

「馬鹿野郎、道の真ん中で張り付くな!」

 しまいには頬を遠慮なく引き伸ばされる。ヒリヒリする頬に仕方なく腕の力を弱めれば、力一杯身体を押しやられた。けれどしょんぼりうな垂れたら、ため息交じりに頭を撫でてくれる。ちょっと乱雑なくらいだけど、優しくしてもらって俺の機嫌はよくなるばかりだ。

「なんだ広海、お前随分デカいわんこ飼ってんだな」

 広海先輩を見つめてウキウキしていたら、ふと彼の後ろのほうからのんびりとした声が聞こえてきた。その声に顔を上げると、事務所と思しき建物のほうから男の人が歩いてくる。少しキツそうな目をしているけど、明るいアッシュブラウンの髪がその鋭さを和らげていた。
 立ち姿が堂に入るほどスタイルもよくて、ロングコートから伸びる足の長さに驚いてしまう。黒のストライプシャツからのぞく首元には色気があり、広海先輩とはちょっと雰囲気が違う男臭さを感じる男前。たぶん先輩より少し年上だろう。

 俺の視線に気付いたのか、その人は目線を持ち上げてこちらをまっすぐに見る。意志の強そうな瞳は容易く人の心の内を見透かしてしまいそうに思えた。
 傍までやって来たその人に、広海先輩はものすごく面倒くさそうに顔を歪める。けれどさしてそれを気にしていないのか、その人は後ろから先輩の顔をのぞき込み、肩をすくめて楽しげに笑う。

「広海のわんこちゃん、可愛いな」

「黙れ、雑食男」

「お前、上司に対してひでぇ物言いだな」

「仕事をしてないあんたはクズだ」

「マジ容赦ねぇな。まあ、お前のそういうところ好きだけど」

 目を細めて広海先輩の頭を撫でるその仕草があまりにも自然で、思わずじっと見つめてしまった。いつも俺の中では先輩のほうが大人だったから、先輩より大人の人がいるって言う認識が薄かった。当たり前だけど、広海先輩の世界にはいろんな人がいて、その人たちは当然のように先輩の隣に立っている。
 だけどそれをまざまざと見せつけられると、少し、ほんの少し胸がざわついた。広海先輩が友達といくらじゃれ合っていても気にならなかったのに、なぜだかいまは気分が落ち着かない。

「お前こんなところでなにしてるんだ」

「あ、うん。仕事のお使いでこの近くにあるカフェレストランに用があって来たんですけど。先輩の仕事場近くだったなって思い出して寄っちゃった。広海先輩はどうしたんですか? どこか行くの?」

「あー、俺はいまから飯だ」

「へぇ、そうなんだ」

 ご飯を食べるのに出て来たところだったんだ。偶然だったけど運がよかったかもしれない。でもどこに行くんだろう。ついて行きたいけど用事も済まさなきゃいけないし、やっぱり無理かな。

「広海の可愛いわんこちゃん。時間あるなら一緒に飯食おうぜ? たぶん行き先は一緒だ」

「え?」

「最近出来たところだろう? 駅前に行けば食い物屋も多いけど、この辺りだったら一軒だけだからな」

 広海先輩の肩に腕を回しながら、男前なその人はにやりと笑う。正直言うとこの人にはちょっと警戒心を抱いてしまうのが本音だ。でもこれは遠慮なくついて行ったほうがいいのだろうか。
 ちらりと広海先輩の様子を窺えば、特に嫌がっているようなそぶりは見えない。それどころかこちらの返答を待っているような印象さえある。

「広海先輩、用事を済ませたら一緒に食事してくれますか?」

「は? 別にお前がいいなら構わないけど。仕事大丈夫なのか?」

「あ、はい。実は仕事し過ぎて、ちょっとガス抜きしてこいって言われて。ご飯どこかで食べて帰ろうと思ってたんです」

「ふぅん、ならついてこいよ」

 肩に回された腕を身体をよじって振り払いながら、広海先輩は何事もなかったみたいな顔をしながら歩き出す。振り払われたほうもまったく気にしていないのか、笑みを浮かべたままその後ろをついて行った。俺はぼんやりとそんな様子を見つめて、立ち尽くしてしまう。
 けれど二人の背中が遠くなると、先輩はこちらを振り向いて呆れた表情を浮かべた。

「置いていくぞ」

「あ! はい、すみません! いま行きます!」

 立ち止まっていた足をようやく動かし、離れた二人に追いつくように足早に歩を進めた。

「わんこちゃん、俺は九条明良。こいつの上司だ」

「あ、俺は三木、瑛治です。一応、えっと広海先輩の同居人です」

 二人に追いついて後ろをついて歩くと、男の人――九条明良さんはにんまりとした笑みを浮かべる。少し企みを含んでいそうなその視線は、油断ならないタイプにも見えた。

「ああ、そっか! あんたが別れたって噂になってたミキちゃん!」

「ちょ、なに意味分かんねぇこと言ってんだよ」

 突然こちらを振り返り、まっすぐに俺を指さした九条さん。それに対し広海先輩は少し取り乱したように振り返る。けれどその剣幕に九条さんは肩を揺らして笑った。そして訝しむ俺の視線をものともせずあっけらかんと言い放つ。

「ずっと帰るコールしてたミキちゃんの名前を、ここ最近ぱったり聞かなくなったって噂だ」

 笑みを深くする九条さんの言葉に、広海先輩の顔が見る間に赤くなる。そしてぐっと言葉を飲み込んで、物言いたげに目を細めた。文句を言いたい気持ちはあるけど、いま言えばからかわれるのがわかるから口を開けずにいるのだろう。
 広海先輩が俺のことを名前で呼ぶようになったのはごく最近だ。そしてその原因は嫉妬だと思う。彼女たちが揃って俺のことを名前で呼ぶから、気に入らない部分があったんじゃないかと推測している。

 だから「瑛治は俺のもの」宣言をしたあとから、広海先輩は俺のことを「瑛治」と呼ぶようになった。出会って六年、二人で一緒にいるようになって四年。それまでずっと、三木と呼んできたのにあっさりと呼び名を変えた。
 これは彼の気持ちの変化なのだろう。前よりも少し俺たちのあいだにある距離がなくなってきた気がする。それは俺にとって最高に嬉しい変化だと思う。