独占的02

 他人の感情はひどく生ぬるくて絡むようにまとわりついてくる。それに気づいた時には息苦しさを覚えていた。だから曖昧に微笑んで、その場をやり過ごす。寄せてくる波が過ぎ去るのを待つように、息を潜めてただそこに立ち尽くした。
 だけどいつだって僕の前には眩しい光があって、それは目がそらせないくらいに胸を突き動かす。必死に手を伸ばして、駆け出して、夢中で僕はその光を追いかけた。

「ただいま」

「おう、おかえり。早かったな」

「走ってきた」

「なんだそれ、馬鹿じゃん」

 いつもは真っ暗な部屋に明かりが灯っていた。そして腹の虫を誘うような匂いと明るい笑顔が迎えてくれて、それだけでも嬉しいのに優しい声を聞いたら泣きそうになる。
 いまお前の部屋にいる。いつ帰って来んの? ――そんなのんきな声を聞いた瞬間、一キロくらい全力疾走した。跳ね上がった心臓は、扉を開ける前に少しだけ落ち着けたけど、きっと目に見えて顔は紅潮していると思う。身体が火照って熱いくらいだ。
 乱雑に鞄を床に放り投げ、僕は目の前の立つ人に向かって手を伸ばした。

「鷹くん。会いたかった」

「なんだよ、まだ二週間しか経ってねぇって」

「嘘だ。もう一ヶ月くらい会ってない気分」

「時間進み過ぎ! ったく、和臣は相変わらず寂しんぼうだな」

 ゆっくりと持ち上げられた手がなだめるように背中を叩く。トントンと優しく触れられるたびに、僕はぎゅうぎゅうと腕に力を込めてしまう。離れてしまわないように、温度が感じられるように、キラキラした金色の髪に頬ずりしながら彼を腕の中に閉じ込めた。
 大きく深呼吸をすれば、嗅ぎ慣れた自分と同じシャンプーの香りがする。たったそれだけのことなのに、ひどく胸が高鳴った。

「ほら、早く着替えろよ。制服しわになるぞ。飯食う? それとも風呂に入る? 珍しくお前がいないから、部屋の掃除がはかどったわ。今回はまあまあだな。もうちょっと片付けがうまくなったら及第点だ」

「ねぇ、今日のカレーはなにカレー?」

 キッチンに映えるオレンジ色の深鍋は鷹くんのお気に入りで、これでいつも色んな料理を作ってくれる。いまはその中からは食欲をそそるスパイシーな香りが漂っていた。

「今日はなんと! ビーフカレーだ!」

「珍しい」

「特売で牛肉が安かった」

「んふふ、鷹くんの作るカレーなら、格安チキンカレーでも美味しいけどね」

 少し重たい金属製の蓋を持ち上げれば、鍋の中にはとろりとしたカレーがたっぷり入っている。鷹くんの作るカレーはスパイスを独自にアレンジしたもので、正直カレーと言ったらこれしか食べたくないくらいだ。

「ご飯、先に食べる」

「目玉焼きは何個食う?」

「二個」

「よし、あっちで待ってろ」

 頭を撫でられてくしゃりと髪が乱れる。でも目の前にお日様みたいな笑顔があるから、子供扱いされたことは気にしない。それにいつまでも支度の邪魔をしていても仕方がないので、言われるままに身体を離して部屋へと足を向けた。
 扉を開けば家を出る前よりも広々とした室内に迎えられる。散らかっていた本も服も綺麗に片付けられて、ベランダを覗けば洗濯物が風に揺られていた。今日は一段と綺麗に掃除をしたものだ。ベッドの布団も乾燥機をかけたばかりなのか、ほんのり温かい。

 すっきりした室内を見回し、鷹くんがやってくる前に制服を脱いで部屋着に着替えた。脱ぎ散らかしたものにあとで文句を言われるかもしれないが、気にせずにカーペットの敷かれた床にごろりと寝転がる。両手足を思いきり伸ばせば、ようやく大きく息が吸えた。今日も一日、十二分に疲れた。
 家に帰ってきた安心感か、少しウトウトしてしまう。

「臣? 寝てんのか? 飯の用意できたぞ」

 近づいてくる気配やテーブルに皿を置く音も聞こえていたが、身動きできなくて低い唸り声しか出なかった。

「相変わらずバイト忙しいのか?」

「んー、まあ」

「接客業なのに人嫌いのお前にしてはよく続いてるな。やれば出来るじゃん」

「人間社会に溶け込むのも結構必死なんだよ」

「ふはっ、人間社会って、お前妖怪かなにかかよ」

 吹き出すように笑った鷹くんは転がる僕を足先で小突きながら、ベッドの上に散らかした制服をまとめてハンガーに掛けてくれた。そしてなぜかおもむろに僕の背中に乗り上がってくる。
 突然感じた重みに身体をひねって後ろを見れば、ぐっと親指の腹で肩甲骨の辺りを押された。鈍い痛みを感じるものの、それはどちらかと言えば痛気持ちいい感覚。そのまま身を任せたら、鷹くんはゆっくりと背中をマッサージし始めた。

「なに? どうしたの? なんか今日は随分至れり尽くせりだね」

「まあな」

「ふぅん、なんか僕に言いたいことがあるとか?」

 そういえば久しぶりとは言え、呼ばずに家にやってくるなんて珍しいかもしれない。いつもなら誘っても課題が忙しいとか、集まりがどうとか言って渋るくらいなのに。チラリと視線を向ければ、なんだか口ごもった様子を見せる。

「いいよ。言いなよ。僕が怒らないことなら聞いてあげる」

「えっ! いや、それは、その」

「ほら、早く。僕の気の変わらないうちに」

「……あー、ええっと来週の木曜日」

「木曜日?」

 言い淀む鷹くんの声はそこで止まった。顔を持ち上げて壁掛けのカレンダーを見上げると、その日は赤いマジックで大きく丸がつけられている。絶対見落としようがないくらいはっきりと。僕はしばらく口をつぐんで次の言葉を待った。

「悪い! その日、特別講義が入って出かけられなくなった!」

 待つこと五分くらい。気配でもわかるくらい深々と頭を下げて、鷹くんは信じられない言葉を発した。それを飲み込むまでに数秒要したが、僕はぐっと身体を持ち上げると、バランスを崩して後ろにひっくり返りそうになった鷹くんの腕を強く引き寄せる。そして体勢を入れ替えて、勢いのまま捕まえた身体を床に組み敷いた。
 先ほどまでと逆転した体勢。馬乗りになった僕は、目の前で真っ青な顔をしている恋人を見下ろし、大きく舌打ちをする。

「鷹くんのさぁ、そういうとこ。どうにかなんないのかなぁ。どうしたら直るわけ? なんでそんなに俺を怒らせるのが得意なの? その日はずっと前から約束してたよね」

「これは! 逃したら次のチャンスがあるかわかんねぇくらいの凄い人が来るんだよ!」

「そんなの知らないし。って言うか、それが終わったらまっすぐ帰ってくるわけじゃないんでしょ? どうせ飯食いに行って帰って来んのてっぺん過ぎた頃だろ。意味ないじゃん」

「しゅ、週末は一緒にいるから」

「意味ないって言ってんだろ! 鷹くんの誕生日は週末じゃないでしょ! 去年だって友達がどうだこうだって、二人で過ごせなかったんだけど!」

 肩を掴む手に力がこもる。ギリギリと爪を立てれば、目の前の顔が痛みに歪んだ。でも声は出さずに鷹くんは唇を噛む。必死でこらえる顔を見ていると、色んな感情が腹の中で渦巻いていく。都合の悪い時だけご機嫌取りをして、僕の顔色を窺う鷹くん。だけどもう彼の中ではお伺いを立てる前から決定事項で、いつだって僕は外に放り出される。
 いつも僕が力で彼を押さえつけているように見えて、実際のところはするりするりとかわされて、手の内からあっさりといなくなってしまう。

「どうしたらずっと傍にいてくれるの?」

「和臣?」

「どうしたら俺のものになってくれるんだよ!」

 振り上げた手に身をすくませるそんな姿を見てしまうと、込み上がった怒りの矛先がわからなくなる。おびえを含んだ眼差しを向けられれば、感情が一気に冷めていく。持ち上げた手は力なく下ろされ、カーペットの上で握りしめられた。

「臣、ごめん。やっぱり断ってくる」

「いいよ、もう。行かないと後悔するでしょ。あとから僕のせいにされても嫌だし」

 押さえつけていた肩を離し身体の上から退くと、のろのろとテーブルの前に座る。まだ温かいカレーをスプーンでかき回して、山盛りにしたそれを口の中に押し込んだ。こんな時でも美味しいものを食べると舌は正直に味覚を認識する。ひたすらに黙々と口を動かしていれば、こちらを窺う視線が近づいてきた。
 すぐ隣に正座して座った鷹くんは、じっと僕の横顔を見つめている。

「なに?」

 もの言いたげに見つめてくる顔を横目で見れば、それることなく視線がぶつかった。いつもだったら怒っている僕におどおどとした態度を見せるのに、今日はやけにまっすぐとした目をしている。なんだかそれが気に入らなくて、そらすように目を伏せた。

「和臣」

「だからなに?」

 目を合わさないままぶっきらぼうに言い放つと、ふいに伸びてきた手が僕の左手を掴んだ。ぎゅっと手を握られて、なんだか僕が悪いことをしたみたいな気分にさせられる。これは約束を反故にした鷹くんのほうが悪い。そう思うのに、束縛のひどい自分と周りの板挟みになっているんじゃないかなんて考えてしまう。
 大人になるっていうのは、好きとか嫌いだけじゃどうにもならないことが多い。

「ごめん、和臣」

「もういいって」

「よくない。俺は、お前がそうやって最後には折れるのをわかってて勝手に決めた。だからごめん。本当に悪かった」

「参加したらこの先のきっかけにもなるんでしょ。いいよ、別に。どうせ僕は鷹くんの将来に責任持てないし」

 目指す先があって、夢も希望もあって。鷹くんの未来には色んな可能性がある。これからたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、俺のことなんか構ってる暇がないことなんてわかってた。いつだって鷹くんは僕の前を歩いて行く。どんどんと進んで、いつかその背中も見えなくなる日が来るかもしれない。

「僕はそのうちいらなくなるんだ。そうだよね、いまだって束縛するばっかりで、なんの役にも立ってないしね。僕はいてもいなくても変わらない。きっと鷹くんに必要ないんだ」

 言葉にしたらひどく胸が苦しくなった。震えた手からスプーンがこぼれ落ちて、カランと乾いた音がする。小さく響いた音はやけに耳について、僕の中身が空っぽな空洞なんじゃないかと思えてきた。
 なんにもないから音がよく響く。でも掴まれた左手が勢いよく引っ張られて、耳元で聞こえるどくんどくんと脈打つ音がいま自分の中で響いているのか、それとも伝わる音なのか、それがよくわからなくなった。

「馬鹿野郎! 勝手なことばっかり言うな! 誰がいつ和臣をいらないなんて言ったんだよ!」

 気がついたら抱きすくめられていた。背中をきつく抱きしめる鷹くんの手が震えているのがわかる。大きな怒鳴り声も、最後のほうには少し掠れて、いまにも泣きそうな声だと思った。だから右腕を伸ばしてぎゅっと背中を抱き寄せた。

「鷹くん、泣かないでよ」

「お前が泣かないから泣けるんだよ、馬鹿。お前はいっつも最後にはそうやって飲み込んで、聞き分けがいい顔をして口を閉ざす。お前がそうするたびに俺は甘えちまう。お前が苦しい思いしてるのに、自分の都合のいい道を選んでしまう。お前のそれは優しさでも誠実さでもない。いい加減気づけよ」

 少し前にそれはあなたのいいところ、とそう言われた気がしたけど。鷹くんはそんな甘っちょろい言葉を簡単に吹き飛ばしてしまう。僕を追い詰めるのも、僕をすくい上げるのも、結局はいつだって鷹くんだ。それは僕の中にあるたった一つの輝き。
 僕の中身がなんにもなくても、僕の中にはきっと鷹くんという光が最後に一つだけ残るだろう。