蜘蛛の糸
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 いつもしかめっ面ばかりしている彼が、たまにほわりと空気を和らげる瞬間が好きだ。でもそんな姿はめったに拝むことはできないから、こっそりと物陰からその姿を見つめるしかできないのだけど。
 今日は近所で生まれた子猫を母猫が彼に紹介しに来たようだ。みーみー鳴いてる子猫に彼の癒やしスマイルが炸裂だ!
 特に餌をやっているわけでもないのに、不思議と彼の傍には生き物が寄ってくる。

 猫はもちろん、犬、鳥、魚、爬虫類まで。彼には意思の疎通ができているのだろうか。遠くで見ているだけではわからないけど、やって来る彼らはとても無防備なのだ。
 そもそも対人に限り強面なだけであって、彼は基本優しいのだと思う。その優しさがきっと生き物に通じるんだな。
 うーん、いっそ僕は猫や犬になりたいよ。

「おっと、もうさよならしちゃったのか」

 心の中で妄想しているうちに、彼は猫たちとは別れて家へと向かって歩き始めていた。慌ててこっそりとまた追いかければ、自宅アパート前のコンビニに入っていく。
 彼はあまり自炊が得意ではないようで、もっぱらコンビニ弁当やおにぎりやパンばかり。あー、必要とあらば僕が作りに行っちゃうのにな。なかなか腕には自信があるんだよ。
 しかし残念ながらまだ彼の家には入ったことがない。でもいつかはお邪魔したいと思ってはいる。

「今日の晩ご飯はなににしたのかなぁ。最近寒くなってきたから温かいものを食べたほうがいいよ」

 看板の陰から中を覗くと、弁当と中華まんを買っているのが見えた。
 うんうん、寒い日には中華まんって最高だよね! ハフハフしながら食べると幸せになれる。

「火傷するなよ、なんてフーフーしてくれたらもっと最高なんだけど。手が冷たいな、とか言ってぎゅってしてくれたら、もうそれだけでいい!」

 一人悶絶していると彼がコンビニから出て来た。慌てて僕は物陰に隠れる。
 僕と彼は出会ってはいけない運命なんだ! でも僕は彼が大好きだから毎日こっそりこうして様子を見ている。たまに予想外の行動で鉢合わせしそうになったことはあるけど、いまのところはまだセーフだろう。

 え? それってストーカーだって?

 違うよ! 僕はただ彼がつつがなく一日を終えられるように見守ってるだけなんだ。決してやましいこと考えてなんかいない。
 ただちょっとこうして見ていられるだけで幸せなんだよ。迷惑なんてかけたことないんだから!

 え? 重症な人ほどそんなことを言う?

 嫌だなぁ、僕をそこいらの変態と一緒にしないでくれたまえ。僕は清い心で彼を想っているんだからね! もし彼に恋人ができたって邪魔したりしないよ。むしろ祝杯を挙げて祝おうじゃないか!
 そのくらいの覚悟はできているさ。だって彼は格好いいからね。ちょっと強面でめったに笑わないだけ。それでも有り余るくらいの魅力がある。
 背だって高いし、肩幅も広くて手足も長い。切れ長の目に少し薄い唇。鼻だって高いし、黙ってるだけでも絵になる男前だよ。

 ちょっと怖くても放っておけないさ。現に今週に入って二回も告白されてたよ。色っぽいお姉さんと清楚なお嬢さん。でも彼は人が苦手なんだよね。緊張するとますます眉間にしわが寄るんだ。あと普段から喋らないのに一言も発せなくなる。
 これはちょっと改善しなくちゃだよね。うーん、僕だったらいくらでも練習台になってあげるのに。

「あ、もうアパートに着いたんだ」

 三階建てのアパートの二階。右から二つ目の窓が彼の部屋だよ。いま明かりが付いた。
 時刻は二十二時を回ったところ。うん、定時刻だ。彼が寝るのは零時だから、それまでご飯を食べたりお風呂に入ったり。寝るまで結構ゆっくり過ごしているみたい。
 さて、僕はどうしようかな。彼が眠るまで一緒にいたいけど、最近はだいぶ寒くなってきたんだよね。今日は少し油断して薄着で来ちゃった。

「うーん、やっぱりもうちょっと頑張ろうかな。お休みを言いたいよね」

 あと二時間だしもうしばらく彼の傍にいることに決めた。

「あのー、君」

「……」

「ちょっと君、君」

「え? 僕?」

 ふいに後ろから肩を叩かれて振り返ると、怪訝な顔をしたおまわりさんが立っている。その顔に首を傾げると、懐中電灯の明かりを当てられた。

「そうそう、君。なにしてるの? ここ最近この辺りをウロウロしてる人がいるって通報があったんだけど」

「そうなんですか? 変な人は見かけてませんけど」

「いや、君ちょっと怪しいでしょ」

「そうですか?」

 眉をひそめるおまわりさんに僕は自分の身なりを見下ろした。ダークグレーのパーカーにブラックデニムにスニーカー。黒のキャップに黒いマスク。
 防寒はこれくらいじゃないと駄目だよね。それにあんまり明るい色を着ると彼に気づかれちゃう。

「ちょっといいから、キャップとマスク取って」

「え? 嫌です。寒いじゃないですか」

「寒いって、一瞬でしょ? それとも取れない理由があるの? 公務執行妨害で交番に来てもらうことになるよ」

 むむ、面倒くさい人に捕まった。これではゆっくり彼を見守ることもできやしない。ここはなんとか切り抜けねば!

「嫌です。僕なにもしてないのに酷いじゃないですか」

「ああ、もう! いいから来なさい!」

 僕とおまわりさんの押し問答が延々と続く。次第に通り過ぎる人の目も引いて、ちらちらと視線を向けられている。こんなところで目立つわけには行かないのに。

「君、やっぱりストーカーかなにかだろう!」

「違いますよ! 見守ってるだけです!」

「あー、いるんだよね。こういう自己完結しちゃう子。ほら、交番まで来なさい」

「いーやーだー!」

 腕を捕まれて無理矢理引きずられそうになる。このおまわりさん強引過ぎる! 違うって言ってるのに。

「ミコト!」

 しばらく攻防を繰り返していたら、こちらに駆け寄ってくる人の気配。そして聞こえてきた声。
 それに気づいた僕は、おまわりさんの腕を振りほどいて慌てて背を向けた。

「お前はまたやってるのか。素直にうちに来いって言ってるだろう」

「……どちら様でしょう」

「ミコト、お前は俺に恋人がストーカーに間違われて交番に連れて行かれるのを黙って見ていろと言うのか」

 呆れたような声。でも心配の色も含んでいる。その声に僕はチラリと視線を向けた。その先には眉間にしわを寄せた彼がいる。

「おたく、この子の知り合い?」

 突然現れた彼におまわりさんはひどく顔をしかめて僕と彼を見比べる。

「俺の恋人です」

「ストーカーじゃなくて?」

「それは以前の話です。ほらミコト、フード下ろして、キャップ脱いで、マスク取る」

「いーやーだー。こんなの違う! 僕はひっそりこっそり見ていたいだけなのに!」

 彼は僕のキャップもマスクも取り上げて、無理矢理フードも下ろした。電柱の蛍光灯の光が真っ直ぐに僕に降り注ぐ。

「こりゃ驚いた。随分とべっぴんさんじゃないの」

 恨めしげに見つめる僕をよそにおまわりさんはマジマジと人の顔を見つめる。僕は両手で長い前髪を集めてその視線を遮った。

「ご迷惑おかけしてすみません。習慣付いてるらしくて、こいつ普通の行動が取れないんです」

「はあ、そりゃまた面倒なこった」

「ミコト、おいで。俺と約束しただろう。もう隠れたりしないって」

 真っ直ぐに僕を見つめる彼の目は穏やかで優しい。その目は小さな生き物に見せる顔とは違う。それは、その瞳は、彼が僕だけに向けてくれる眼差し。

「一緒に部屋に帰ろう、ミコト」

「……カズ、さん」

「うん、そう、俺はカズだよ。君の妄想の中にいる【彼】じゃない。いい子だから、俺の手を取って」

 目の前に差し伸ばされた手、僕にだけ伸ばされる手。それをじっと見つめて、生っ白い手を伸ばして大きな手に重ねたら、ぎゅっと強く握りしめられた。

「寒いだろう? 暖めてあげるから、おいで」

 腕を引かれて身体がいとも簡単に彼の胸に閉じ込められる。僕の身体は彼の半分くらいしかない。小さくて細くて、頼りない身体だ。

「恋人をストーカーするなんて酔狂なことをするもんだ。あー、これからはきちんと面倒見てくださいよ。不審者がいるってみんな怖がるんですから」

「すみません、ちゃんと言って聞かせます」

 彼が頭を下げるとおまわりさんはやれやれと呟きながら去っていった。周りの視線もいつの間にかなくなって、僕と彼だけが取り残される。冷たい風が吹き抜けて、僕の長い髪が煽られた。

「ミコト、もうしちゃ駄目だって言っただろう。俺の後をつけたりしないで、声をかけて一緒に帰ろうって言ったじゃないか」

「でも」

「でもじゃない。そうじゃないと今度は俺がお前を追いかけて閉じ込めるよ」

「……え?」

 そうだ、僕は秋の風が吹き始めた頃にいつものように彼を追いかけて、彼をこっそり見守っていた。なのに突然目の前に現れた彼に見つかってしまったのだ。
 薄々僕の存在に気づいていた彼は罠を巡らせていて、それに僕はまんまとかかってしまった。追い詰められて、洗いざらい白状させられて、ああ、もう駄目だって思ったのに。
 彼は――カズは、僕にストーカーは卒業して自分の恋人になりなさいと言った。僕のことは随分と前から知っていたのだと言う。

 僕の素性もすべて調べたと言っていた。もう逃げ場がなくなって、どうしたらいいかわからなくなって、僕はカズの言葉に頷いたんだ。
 でも身に染みついた行動はそう簡単にはやめられなくて、ましてやカズの隣を歩くなんてできなくて、僕はあれからもずっと彼の後ろを追いかけた。

「ミコト、言うこと聞かないとお前を繋いで、俺の前から消えられないようにするよ。それが嫌ならちゃんと俺の前に立って、できるだろう?」

「た、たぶん」

「たぶんじゃない、約束」

 カズは彼とはだいぶ印象が違う。人が苦手な口数の少ない彼と、真っ直ぐに僕を見つめて話すカズは別人みたいだ。でも時折ふっと笑った顔は変わりがなくて、僕はそれに戸惑ってしまう。

「あ、えっと、約束、する」

「うん、いい子だね」

 俯いた僕の頭を撫でて、カズは癖毛のてっぺんにキスをした。そして腕に納めた僕をきつく抱きしめる。
 僕は彼を見守っていられればそれでよかった。それ以外のことは望んでいなかった。でも僕はカズという人間に捕まってしまった。

 蜘蛛の巣にかかった蝶のようにたぶんきっともうそこからは逃げ出せない。僕の羽をもいだカズは決して離してはくれないだろう。
 これは幸せの結末? 最悪な結末?
 僕にはよくわからない。でも僕は彼が好きで、カズも嫌いじゃない。一体これはどちらが手に入ったんだろう。

「ミコト、愛してるよ」

 優しく微笑んだカズは愛おしげに僕に口づけた。

蜘蛛の糸/end

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