届かない手
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 二十三時五十八分――デジタル時計が、もうすぐで日付の代わりを告げる頃合い。静かな室内に微かな振動音が響く。
 それはしばらく鳴り続け、一度切れてまた鳴り出した。

 その音の元は、広いデスクに置かれた携帯電話。しかし何度か鳴り続けたが持ち主がそれを手に取ることはなく、それはいつしか音を響かせるのをやめた。
 それから十五分あまり過ぎた頃、チカチカと着信を知らせるランプが点灯する携帯電話を、八純楷斗が手に取った。

 けれどしばらく手に取ったままそれを見つめて、ふっと息を吐いたきり楷斗は動かなかった。
 先程までひっきりなしに着信していたこの携帯電話は、普段はほとんど着信を知らせることがない、彼のプライベート用のもの。だから用件はすぐさま思い当たる。けれど楷斗は折り返そうとはしなかった。

 風呂から上がったばかりで髪から雫が滴るが、それさえも気に留めずに楷斗はじっと携帯電話を見つめる。
 けれどいつまでもそれを睨みつけていても、埒があかないと悟ったのか、書斎を抜けて、リビングの壁に備え付けられた受話器を取った。

 そして繋がった先に「車を一台頼む」と告げ、大きく息を吐きながら受話器を元に戻す。
 それから楷斗はバスローブを脱ぎ捨てソファに放ると、寝室にあるクローゼットへ足を向ける。

 そこから適当なシャツとスラックス、ジャケットを取り出し、今度は洗面所へ向かう。そして濡れた髪をドライヤーで適度に乾かすと、また一つ大きなため息を吐き出した。

 洗面所の鏡に映る楷斗は、彫りが深くはっきりとした目鼻立ち。切れ長の目と黒い髪が少し冷ややかな印象を与えるが、大抵の人間は思わず振り返ってしまうだろうと思える、端正な顔立ちをしている。

 そんな楷斗の表情は、先程から何度もため息を吐き出している割に、どこか機嫌が良さげだった。その自分の顔と思惑に気がついて、楷斗は洗面台に手をついて項垂れるように顔を落とす。

「馬鹿か俺は」

 小さな独り言が静かな室内に響く。両手で顔を覆い長い前髪を掻き上げると、また深いため息を吐いてから、楷斗はクローゼットから持ち出した衣服に袖を通し、身支度を調えた。
 マンションの最上階から、一階に降り立ちエントランスに出ると、カウンターに控えていたコンシェルジュが「車は到着しております」と、丁寧に頭を下げる。

 それに片手を上げて応えれば、楷斗はひんやりとした夜風が吹く外へ、足を踏み出した。

 ハイヤーに乗り込み、二十分ほどで目的の場所へ辿り着く。四階建ての小さなビルの近くまで乗り付け、運転手に待つよう告げると、楷斗は少し歩いた先にある階段を下りていった。

 入り口の左手には『BAR Rabbit』と書かれた看板がある。扉にかけられたプレートはクローズとなっているが、楷斗は然して気にすることなく、ドアノブを捻った。
 扉を引き開ければ、上部に付けられたベルがカランと軽い音を立てる。

「あ、楷くん来てくれたのね」

 鳴り響いたベルの音に、カウンターの中から振り向いたのは、このバーの店主であるミサキ。長いウェーブのかかった髪と、ほっそりとした身体が印象的な美人だ。
 これで性別が女、であれば結婚を申し込みたい男は、片手では足りないはずだ。

 楷斗の登場にホッと息をついたミサキは、眉間にしわを寄せている楷斗の表情に苦笑いを浮かべる。

「いつも頼っちゃってごめんなさいね。明良くんがこうなっちゃったら、頼めるの楷くんしかいなくて」

 困ったように頬に手を当てながら、ミサキはLの字になったカウンターの、一番奥の席に視線を流した。そこにはカウンターに突っ伏し寝ている、というよりも気を失っているに近い男が一人。

 ゆっくりと楷斗が近づいて行っても、気づく素振りもなく。手を伸ばし、ほんの少しだけ頬にかかった、明るい茶色の髪をすくい撫でても、閉じられた瞼はピクリともしなかった。

「今日はどれくらいだ?」

「そうね、ビール樽三つとウィスキーとブランデーを二本ずつくらいかしら」

「いつもよりは少ないな」

 普通の人間であれば、どこが少ないのだろうと首を傾げる酒量だが、ミサキも「そうね」と、少し心配そうな表情を浮かべるだけだった。
 心配と困惑を織り交ぜた、ミサキに視線を向けると、楷斗は懐から取り出した財布からカードを取り出してそれを差し出す。

 それを受け取り、ミサキはカウンターで酔い潰れている男――明良の会計を済ませる。
 時折店でゴールドのカードを手にすることがあっても、この黒いカードはミサキは楷斗くらいからしか預かることはない。
 おかげで明良が、どんなに店の酒を飲み尽くそうとも、心配することがないのだ。

「三ヶ月か、短いな」

「最初は上手くいってたみたいなんだけど、やっぱり明良くん優し過ぎて相手が駄目になっちゃうのよね。優しさで駄目になっちゃうっていうのはちょっと可哀想だけど、仕方ないわねこればっかりは」

 九条明良――楷斗とは大学時代からの付き合いで、性格は自由奔放という言葉をそのまま当てはめたような、楽観的な性格をした男。付き合いは広くセフレの数がふた桁に及ぶこともある。

 精悍な男らしい顔立ち、背も高く男気もある。そんな男だから相手に困ることもほとんどない。しかもその時々を自由に楽しむ男で後腐れなく、それが原因で揉めた話はほとんど聞いたことがない。

 ただ、それはパートナーがいないあいだのことで、パートナーである特定の男ができた途端に、その性格はまったく正反対に変わる。
 毎晩のように飲み歩く生活は一変して、時間のほとんどはパートナーに注がれる。

 明良は愛情過多なほど、盲目的な恋愛をするのだ。望めば望むだけの愛情を与え、相手がノーと言えば、大概はそれに従う。
 そのためか普段の明良に憧れて近づく相手とは、九割の確率ですぐに破局する。

 大学に入ってすぐに出会った、十八年来の付き合いがある楷斗が知る限り、明良の恋愛が続いたのは最長で一年半だ。数日、数週間が付き合いというのであれば、今まで付き合った数は二、三十人を優に超える。

「明良、帰るぞ」

 カウンターのグラスや酒などをすべて片付けてもらい、楷斗はピクリとも動かない明良の腕を取ると、そのままそれを担ぐように肩にかけた。するとさすがに急な体勢の変化で目が覚めたのか、明良が小さく身じろぐ。

「……楷斗?」

 ぼんやりとした目で、顔を持ち上げた明良は少し目を細めて、楷斗の顔を見つめる。それに眉間のしわを深くしながら、楷斗はため息をついて、空いた片方の手で明良の頬を軽く叩く。

「しゃんと立て、外に車を待たせてる」

「次に迎えに来てやるのは、半年か一年後って言ったのに、来てくれたのな」

 少し呂律の回らない、舌足らずな喋りでそう言って明良は小さく笑った。その笑った顔が、今にも泣き出しそうな顔だと思ったのは、楷斗だけではなかったようで、ふっとミサキが俯いて目を潤ませた。

 楷斗と明良を乗せたハイヤーは、楷斗の自宅でも明良の自宅でもなく、大きなシティホテルの前に停まった。
 近づいてきたドアマンがハイヤーのドアを開くと、先に楷斗が降り立ち、少しおぼつかない足取りの明良を、後部座席から引き出す。

 そして外に出て、少し歩きがまともになった明良の手首を掴んで、楷斗が自動ドアを抜けホテルに足を踏み入れる。
 するとその場にいた従業員全員に一瞬の緊張が走り、皆一斉に頭を下げた。だがその光景は然して気にせず、楷斗はフロントには向かわずに、真っ直ぐとエレベーターへ向かった。

「おかえりなさいませ」

 エレベーターの前に着くと上階へ向かうボタンを押し、ドアが閉まらぬよう抑えながら、ベルボーイが見本のような綺麗なお辞儀をして待ち構えている。
 それに少しだけ目配せした楷斗と、明良がエレベーターに乗り込むと、行き先のボタンは既に押されており、ベルボーイはすぐにドアから手を離した。

 しばらくすると、自動ドアはゆっくりと閉まり、それは上階へと進み始める。

「お前さぁ、なんで俺がこうして振られてヨロヨロの時に限って、自分の城に連れ込むわけ? 俺また振られたんだって思われんだろ。俺のマンションに直行でいいじゃねぇか」

 最上階へ向かうエレベーターの中で、少しふて腐れたような明良が楷斗の肩にもたれかかる。
 人前では真っ直ぐと歩いてはいても、酔いはまだ充分に回っているのだ。肩に額を擦りつけるような仕草に、楷斗はため息をつきながら、眉間のしわを深くする。

「うるさいな、迎えに来てもらえるだけありがたいと思え」

 ムッと眉をひそめた明良に目を細め、楷斗は手首を離してよろめく肩を抱き寄せた。そして俯きがちな明良の顎を掴むと、それを上向かせる。
 酔いで反応の鈍い明良は、楷斗の手にされるがままに上を向き、息を飲み込まれた。

 いつの間にか身体を押され、壁際に追い込まれていた明良は、口づけてくる楷斗を押し返そうと肩を押すが、酔っぱらいの力で素面の相手に敵う訳もない。
 さらに奥に押し入るように楷斗の舌先は唇を割り、アルコールの味が広がる明良の口内に入り込んでいく。

「なにしてんの、お前っ」

 散々口内を舌で撫で回されて、身体がじわりじわりと熱くなってきてはいたが、明良は驚きと戸惑いの方が優っていた。
 唇を片手で擦り、楷斗を睨むように見上げる。けれど楷斗はなにも言わずに真っ直ぐとその目を見つめていた。

「ちょっ、待てよ」

 エレベーターの中に到着音が響くと、明良は有無を言わせない調子の楷斗に腕を掴まれ、引きずられるように歩かされた。
 最上階のスイートルームはエントランスが広く、長めの廊下が続く。そこを無言で進んでいく楷斗の背中を見つめながら、明良は混乱をしていた。

 なぜ楷斗があんな真似をしたのかわからないからだ。
 ようやく扉の前に着くと、楷斗はカードキーで部屋を開錠して、扉を押し開く。そして乱雑に明良を引き入れ、真っ直ぐとある部屋に向かっていった。

 その場所がどこなのか明良にはすぐにわかった。何度も訪れたことのある部屋だ、明良にわからないはずがない。それなのに楷斗の手は緩まない。

「楷斗っ」

 やっとのことで手を離されたのは、広いキングサイズのベッドの上だ。放り投げるように手を離されて、明良はうつ伏せに転がった。そしてその上に覆い被さるように楷斗はベッドに乗り上げてくる。

 慌てて身体を反転させて向き合うが、少しずつ明良と楷斗の距離は縮まっていく。逃げ出すように後退するけれど、終いにはベッドヘッドに行き着き、明良は逃げ場を失った。

「なにやってんのお前、正気かよ」

 焦りで明良の声が少し上擦る。楷斗の目が嘘偽りなく、本気なのを感じているからだ。けれど鼻先が触れそうなほど、ギリギリまで近づいた楷斗の視線から、明良は逃げ出せずにいた。
 これは殴り飛ばしてもいい状況だと、そう思っていても握り締めた明良の手は、一ミリも動かない。

「どうせ覚えていないくせに」

「楷斗?」

「そう思うのに、俺がお前に触れられるのはここまでだ」

 ふっと唇に息がかかり、明良は咄嗟に目を瞑った。優しく触れるだけの口づけ。唇に柔らかく触れる感触に、明良はぎゅっと手を握り締める。
 そしてゆっくりと瞼を持ち上げると、悲しげな色を浮かべる楷斗の瞳に、思わず明良は手を伸ばしそうになっていた。

 けれど触れてはいけないことにも、気づいている。持ち上げられた手は、なにも掴むことなく握りしめられた。

「お前は、朝になったら全部忘れてしまうのに……いや、忘れてしまうからこれ以上お前に触れられない」

 ゆっくりと持ち上げられた、楷斗の手が明良の頬を包み、再び唇に口づけが落とされる。今度は触れるだけでなく、優しく上唇を甘噛みをした。
 その感触に明良の肩が小さく跳ね上がる。舌先で唇をなぞり、優しく噛みつかれれば、ぴりぴりとした疼きが明良の奥底から湧いてくる。

 けれど楷斗が触れるのは唇とその奥だけだ。
 そのむず痒い感覚に、明良はその先を求めるように、また腕を伸ばしかけた。しかしそれは楷斗の手によって押し留められた。

「早く忘れてしまえ、そうすればいつも通りだ」

 腕を縫い留められ、明良は楷斗の口づけに溺れていく。けれど優しくて甘いそれに、呼吸を求めてすがりつきたいのに、それを許してはもらえない。ぼんやりとした中で残るのは微かな微笑みだけ。

 朝になれば、すべてが泡沫のように弾けて消えてしまう、甘い夢――。

 目が覚めた時、いつも明良はすっきりとした気分だった。カーテンを全開にされ眩しい光に叩き起こされるけれど、前の晩に抱えていたものが、ほとんどなくなったかのような不思議な錯覚を起こす。

「また俺へのツケが増えたな。出世払いは本当にできるのか?」

 広い部屋、広いベッド、そしていつものように皮肉めいた笑みを浮かべて振り返る楷斗。それはいつもと変わらない光景だった。

「心配すんなよ。倍返ししてやる」

 大きく伸びをして、明良が欠伸を噛み締めると、くっと笑いを噛み殺した楷斗が目を細める。

「いくら俺にツケてるか知りもしないくせに」

 意地悪く笑いながら、楷斗は綺麗にクリーニングされた服を、明良に放り投げる。クリーニング代までツケにするのか、と明良が以前文句を言ったら、友情割引でサービスだと楷斗は笑った。

「さっさと起きろよ、仕事に遅刻するぞ」

 いつもと変わらなくてすっきりした気分なのに、いつも目が覚めるたび胸が少し苦しくなる理由を、明良は知らない。そしてそれを楷斗が語ることもない。

 それがいつもの朝。

end

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