甘音-Amaoto-/01
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 朝の静けさの中に、目覚まし時計の音が鳴り響いた。
 頭に少し響く甲高い電子音。

 しばらくベッドヘッドの棚で、けたたましい音をさせていた、その目覚まし時計は、のそりと布団から伸びてきた手に、上部のボタンを叩かれその音を止めた。

 しかし時計の音を止めた手は、身体を起こすことなくするりと、また布団の中へ戻っていく。すると時計が秒針を刻む小さな音と、窓の外から聞こえてくる小さな雨音だけが響く、静けさが室内に舞い戻ってきた。

 しんとした十畳のワンルーム――そこはアイボリーのコンパクトソファに、天板がガラスのローテーブル、壁際に設置された大型テレビ。
 ベッドとリビングスペースを仕切る、天井までの収納棚のみ、といった必要最低限な空間だった。

 周りに少しばかりある細かな小物も、無駄なく整頓されていて、部屋の主がとても丁寧な性格をしていることがわかる。
 けれどそんな主は、寝覚めがあまりよくないようで、時計が鳴り止みそのまま時間は五分進み、再び部屋の中に目覚まし時計の音が鳴り響く。

 そしてそれと同時か、枕元で携帯電話のアラームも鳴り出した。さすがに音が二つも鳴り出すと、黙って寝ていられなくなったようで、盛り上がった布団がもぞりと動く。

「……ん」

 その中から聞こえてきた声は、鳴り響く音に不満げだった。
 けれどいつまでも、布団を被っていられないことも承知しているようで、伸ばした腕で目覚まし時計を掴み、裏側にあるスイッチをオフにする。

 続けて携帯電話を掴むと、充電コードを抜き去り、こちらの目覚ましアラームも止めた。
 そしてようやく起きる気になったのか、小さな唸り声と共にベッドに腕をついて、身体をゆっくりと持ち上げる。

 すると布団やタオルケットが、頭や肩から滑り落ち、柔らかなこげ茶色の髪と血色のいい肌があらわになった。

「雨、降ってる」

 小さな雨音に気がついたのか、部屋の主である喜多蒼二は、すぐ傍にあったカーテンの端を掴みそれを横に引いた。
 暗かった室内に少しばかり明るさが広がる。

 けれどそこに現れた窓は水滴に濡らされている。
 今しがた起きたばかりの蒼二にも、雨が随分と長く降っていたことを、容易に想像させた。

 空の様子を覗いて、蒼二が窓の向こうを見上げれば、そこはどんよりとした暗い雨雲が空を覆っている。

「昨日は曇りって天気予報が言ってたのにな」

 重たいため息を吐き出しながら、蒼二は身体を滑らしベッドから抜け出た。適度な筋肉がついたしなやかな彼の身体には、黒いボクサーパンツしか身につけられておらず、惜しみなく綺麗な身体のラインが晒された。

 六月も半ばで寒さはないが、まだそれほど暑くもない季節。しかし蒼二の寝起きは一年中、ほぼこのスタイルで変わりがない。
 この部屋は機密性が高いので、室温が大きく上がったり下がったりということがなく、夏は冷房、冬は暖房をつければすぐに快適になる。

 そのため寝間着を身につけるのが、好きではない蒼二のスタイルも、ごく自然とこうなった。

「雨かぁ、まあ梅雨だけどさ」

 洗面台の前に立ち、歯ブラシをくわえながらも、ため息が止まらないのか、蒼二の形のいい眉がひそめられている。鏡に映る彼の優しげな顔立ちは、気持ちの重たさがありありとわかる、ひどく浮かない表情だ。

 少しばかり寝癖で跳ねた髪を直し、クローゼットから取り出したアイロン掛けが綺麗にされた、ストライプの白いシャツを羽織る。

 身支度を調えている最中も、まったく眉間に刻まれたしわが取れない。けれどそんな曇り空にも似た、憂鬱そうな顔で蒼二が部屋の中を歩いていると、ベッドの上に置いたままの携帯電話が、着信音を響かせた。

 その音に、先ほどまで晴れない顔をしていた蒼二の表情が、柔らかなものに変化する。足早にベッドに近づき、蒼二は着信のランプを点滅させる携帯電話を手に取った。

 ――いつもの場所で待ってます。

 件名もなく用件のみの簡素なメールが一通。それでも蒼二はふっと嬉しそうに笑みを浮かべた。そして室内に掛けられた時計の針を見つめれば、九時十五分を指していた。

 少しばかり急いで、穿いたデニムの後ろポケットに携帯電話を差し込む。ローテーブルの上に置かれた財布も、反対側のポケットに押し込んだ。
 そして壁掛けのキーホルダーに収められた、家の鍵と傘立ての長傘を手に取り、蒼二は外へと駆け出した。

 週末の日曜日。朝からしとしと降る雨のためか、通りを歩いている人はそれほど多くはない。けれど車はその分だけ多いのか、大通りはたくさんの車が行き交っている。

 そんな交通量の多い、大通りに面してある大きなショッピングモールには、映画館やカラオケ店、大型書店、ファッションフロアなどが入っていた。
 外に反して中は意外と人の姿が多い。

 ショッピングモールの駐車場は、車が列をなしていて、それはどんどんと中へ吸い込まれていく。交通整理をする警備員はそのあいだずっと忙しそうに右手の警備棒を動かしていた。

 そんなショッピングモールの一角。入り口付近の屋根がある場所に、沢村紘希は立っていた。
 時折一人で立っている紘希を振り返る、年若い女の子たちはいたが、彼はそれを気にすることもなく、表情が特に変わることもない。

 艶やかな黒髪はさらさらと風になびき、綺麗に通った鼻筋に形のいい唇。
 すらりと背が高く肩幅も広い、痩せ過ぎでもないその容姿は、もっと表情が豊かであったなら、さらに人目を引いたであろう整ったものだった。

 服装も緩めのカットソーにスリムなデニム、肩から掛けた小ぶりな布製の鞄とカジュアルであるが、着崩した感じもなく清潔感がある。
 けれど傘を片手に立つ、紘希の表情は一ミリも動かないのだ。そのために魅力がいささか半減されている。

「紘希!」

 しかし雨音と車のエンジン音ばかり聞こえる中で、柔らかな声が紘希の名前を呼ぶ。その瞬間、声に振り向いた彼の顔がわずかに綻んだ。
 視線の先には声音からも想像できるほどに、優しげな面持ちをした人が近づいてきた。

「喜多さん」

「ごめん、ほんと、ごめんね。毎回ごめん。ってそれと、喜多さんって呼ばないでってこのあいだも言ったのに」

 足早に紘希に近づいてきた蒼二は、さしていた傘を畳むと、同時に両手を合わせて頭を下げた。
 何度も「ごめん」と謝る彼に、紘希はゆるりと首を左右に振る。

「ああ、蒼二さん。気にしなくていいよ」

「今日は大丈夫だと思ってたんだけど」

 微かに笑った紘希に対して、蒼二は肩を落としひどくしょげた顔をして、うな垂れる。けれど二人が対照的な反応を見せるのには、わけがあった。

「いいよ。ここ最近ずっと悪いし」

「でも今日も映画だよ?」

「このあいだ蒼二さんが観たいって言ってたの丁度やってるから」

「雨男で本当にごめん」

 蒼二がうな垂れるわけ、それは今日も――雨だということだ。
 六月に入り雨空が多い最近ではあるが、紘希と蒼二は出会ったその日から雨だった。

 降り方の度合いは、その日によって違うものの、傘は手放せない日であるのは間違いなかった。
 最初の一度、二度は雨男なんだよねと笑っていた蒼二も、それがこうも続くと、申し訳ない気持ちのほうが優ってしまう。

 けれどそのたびに紘希は嫌な顔一つせずに笑ってくれた。

「気にしてない。今度は違うところへ行こうか」

「紘希はどこがいい?」

 自分より少し背の高い紘希をちらりと見上げて、蒼二は小さく首を傾げる。その視線に紘希は考えるように目を伏せた。

「……水族館とか、美術館とか、プラネタリウムとか、舞台とか、音楽コンサート?」

「それって全部室内で俺の趣味だよね。紘希の好きなアトラクションのある遊園地とか、動物園とか、植物園のある庭園とか行けてないし、夏には海とかも行きたい」

 ぽつりぽつりと紡ぎ出された紘希の提案に、不服そうに蒼二の眉がひそめられた。けれど口を引き結び、不満をあらわに頬を膨らませた蒼二に、紘希はふっと目を細めて笑った。

「なんで笑ってるの?」

「いや、蒼二さん可愛いなと思って」

「またそれ、おじさんに可愛いとかないから」

 紘希の言葉に、ますます不服そうに蒼二は口を尖らせる。けれど紘希の目は蒼二に会う前の無表情が、嘘のように柔らかく優しげなものに変わっていた。
 そしてゆるりと持ち上げられた紘希の手が、ふわふわとした蒼二の髪を撫でるように掬う。

 髪に指を差し入れて、優しく頭を撫でる紘希の手に、蒼二は少しくすぐったそうに肩をすくめるが、その手を振り払おうとはしなかった。
 こうして紘希に触れられるのは、嫌いではなく、時折触れる手が優しく好ましいと感じていた。

「まだこのあいだ三十歳になったばかりだし、おじさんじゃないよ」

「三十路になったらやっぱり二十代とはなんか違うよ。紘希と七つも離れてるし」

「それこそお兄さんくらいしか離れてない」

 少しふて腐れたような表情を浮かべる、蒼二を見つめる紘希の目は、どんどんと優しく甘くなっていく。
 離れた歳をいつまでも気にして、もっと近づきたいと駄々をこねるような蒼二の我がままは、紘希にとっては愛おしくてたまらないのだ。

 表情豊かなほうではない紘希の顔が、ますます穏やかな雰囲気をまとう。

「蒼二さん、そろそろ行こうか」

 けれどそんな気持ちを、行動にうまく出すことができない不器用な紘希は、なにごともなかったようにショッピングモール内へと足を進めた。
 そっと紘希が背中に手を添えれば、蒼二は自然とその手に従い歩き始めた。

「もうチケットは買った?」

 顔を上げた蒼二が紘希を見つめて小さく首を傾げる。

「うん、真ん中辺りの丁度いいとこが取れたよ」

 瞬く視線に紘希が笑みを返すと、蒼二の顔が嬉しそうに綻んだ。

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