独り占め
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 いつも一足先へ進んでしまう彼の背中を見て、酷く苛々としたもどかしい感情を抱いていた。追いかけて手を伸ばしても、その手を取ることなく笑って走り出してしまう彼。
 自由奔放と言えば聞こえはいいが、いつでも彼は気まぐれだ。

 たまにやって来てはうちでご飯を食べ、甘え、ふらりとまたどこかへ行ってしまう野良猫のようだ。可愛いけどなんだか憎たらしく思えてしまうこともある。
 どうしてこんなにも想っているのにこの手は届かないのか、それが悔しくて仕方がなかった。

 彼の周りにはいつも人が絶えない。そんな中で彼はいつも僕には見せない顔で笑っているのだ。
 そのたびに心の中に重苦しい気持ちが溜まっていった。けれどまだその時の僕はその気持ちの意味をよく理解していなかった。

 ただ年を重ねるたびに傍にいたはずの彼が、どんどんと遠ざかっていく感覚だけが胸に残り、僕の心の中をざわめかせていた。

「あら、どうしたの臣くん」

「お母さん、鷹くんは?」

 僕と彼――鷹くんは父親同士が兄弟で、従兄弟同士の間柄。鷹くんが住んでいる場所も歩いて数分ほど先にある近所だ。そして彼の両親は共働きで家にいる時間が少ない。

 なので僕の家に食事をしに来ることがほとんどだった。しかし夕方になってもやって来ない鷹くんが気になって、キッチンに立つ母の背中に声をかけた。
 そんな僕の声に母は笑いながら、僕の期待を裏切る言葉を吐いた。

「今日もお友達の家でご馳走になるそうよ。本当に鷹志くんはお友達が多いわね。臣くんは全然お友達を連れて来ないけど、学校のお友達は? って、臣くん?」

 今日も来ない、それがわかったらあとは母に用はない。僕は問いかけに返事することなく、ふいと母に背を向けてキッチンを出た。鷹くんが来ないのにキッチンにあった食材が多かった。

 ということは、あいつとあいつの仲間がやってくるということだ。それに巻き込まれては敵わないと僕は自分の部屋に籠もるべく足早に廊下を抜け階段へ向かった。
 しかし僕の行動は少し遅かった。

「ただいま」

 二階に向かう階段がある場所は玄関の目の前だ。玄関扉を勢いよく開いた人物と思いきり目が合ってしまった。予想外の展開に一瞬固まってしまった僕を見たそいつは、満面の笑みを浮かべて近づいてくる。

「和臣ただいま」

「……」

 八つ年上の兄であるこの男が僕はあまり好きではない。兄というだけで僕の行動を戒めたり、苦言を呈したり、やたらと構ってきたり、それが正直不快だった。
 いつも賑やかしくて、周りに集まる人間たちもそれ同等に騒がしい者ばかりだ。それがますます嫌だ。

「おお、明博の弟か。似てねぇ、すっげぇ可愛いじゃん」

「ちっちゃいくせにイケメン感あるな。将来有望な顔」

「なんだよ、それじゃ俺が残念な顔をしているみたいじゃないか」

 どうでもいいことを話しながら、突然現れた三人はうるさいくらいの声で話し笑い出す。僕はその隙に自室に籠もってしまおうと急いで階段を駆け上がった。

「おい、和臣?」

 駆け出した僕に明博は慌てた声を上げる。その傍ではまたうるさい声を上げて、ほかの奴らが笑い出した。

「兄貴、嫌われてるんじゃないか?」

「小さいけどいくつ?」

「今年小五になった」

「離れてんな、でももっと小さいかと思った」

 好き放題なことを言う奴らにムッと眉をひそめて僕は自室に飛び込んだ。小さいという単語は僕の中の地雷だ。僕の身長は平均的なものより低く、百三十センチ程度しかない。なかなか身長が伸びなく、実年齢より幼く見られることが多い。

 ふっと息を吐きだして、僕は夕陽が射し込む静かな部屋の中でしゃがみ込んだ。
 今日は夜になってあいつらが帰るまでこの部屋を出ない、そう心に決めると暇潰しに僕は、一昨日の晩に鷹くんが忘れていった数学の教科書を眺めた。

 二日も取りに来ないなんて余程必要ないのか、どこにやったかわからなくて誰かに借りるかしているのだろう。今年の春に中学校に上がってしまった鷹くんとの距離は、小学校の頃に同じ校舎の中にいた時よりも更に離れてしまった。

「僕より友達とか許せない」

 メールしたって気まぐれだから返ってくるのは五回に一回くらいだし、電話なんてしても鳴っていることにすら気づかない。一度なんのための携帯電話だと文句を言ったが、笑って「悪い悪い」と心のこもっていない謝罪を受けただけで終わった。

 両手で持った教科書を開きながらごろりと床に寝転がると、僕は退屈を紛らわすためにパラパラとページを捲りながら、書かれている内容を音読していく。

 一昨日これを開きながら宿題をしていた鷹くんはわからないと頭を抱えていたけれど、よく読めばさして難しくない。
 普段僕が学校で習っている算数に比べたら、こちらのほうがずっと面白い。

「取りに来ないかな、来るわけないか」

 自分で言ってて虚しくなってくる。そして教科書を抱えて床をゴロゴロと転がってしまう。そしてふと母がよく昔から僕に向ける言葉を思い出した。

 物心ついた頃からなにかと後ろをついて歩く僕に「臣くんは鷹志くんが本当に好きね」と笑って言うのだ。けれどそれを聞くたびなんだかそうではないのだと言いたくなる。

 鷹くんのことは好きだけれど、それはそこら辺に転がっている好きとは違う。僕の好きはもっと特別な好きだ。

「ずっと傍にいたいし、触れていたいし……キスもしたい」

 キラキラと光る金茶色の髪に猫のような薄茶色い瞳。少し小柄で身体は同年代の奴らよりも細いけど、抱きついた時に女の子みたいな柔らかさはなく、それがますますいい。

 女の子には正直興味が湧かない。クラスで誰が好きだとか可愛いだとか騒いでいるのを見ても、なんとなく白けた気持ちになるし、好きだと言われても、僕の心は一ミリも動かない。

 ずっと気がついたら鷹くんしか見えていなくて、いつも僕は彼の背中だけを追いかけていた。けれど手が届かなくて、焦れったい気分になる。
 すっと天井に向けて手を伸ばし、彼の背中を想像すると、胸のあたりがきゅっと締め付けられたみたいに苦しくなる。

「どうして同じ歳に生まれなかったんだろう。そうしたらこんなに遠くないのにな」

 たった二年、されど二年。その差がこんなにも大きく広い溝を僕と鷹くんのあいだに刻む。こうして会えなくて寂しいなんて思うのは鷹くんだけだ。顔が見たい、声が聞きたい、触れたい。

 ぼんやりと鷹くんのことを考えていたら、居眠りをしていたようで、目を開けたら室内が薄暗くて、何度も目を瞬かせてしまった。
 カーテンを閉めていないから、月明かりや外灯の光が射し込んで薄ら明るい。身体をごろりと転がし時計の見える位置まで移動して壁掛けのそれを見ると、十九時半だった。

 おそらく夕食前に母親がやって来ただろうが、声をかけても返事がないので諦めたのだろう。以前に許可なく部屋に入られるのは嫌だと言ったので、返事がない時はいるのがわかっていても勝手に扉を開けてくることはなくなった。
 基本的に僕は相手に対する要求は多くない。だから嫌だと言うことは余程のこと、という認識が母にはあるのだろう。

「まだいるのかな」

 兄やその友人らしき二人。大学に入ってから出来た新しいお友達という奴だろう。高校時代もよく色んな友達を連れてきては夕飯を一緒に食べていた。
 そういうところは鷹くんと明博は似た雰囲気の持ち主なのだろう。人が自然と寄ってくるタイプだ。群れるのが嫌で友達と呼べる人物もいない僕とは正反対。

 少しお腹が空いてきた。しかし下りていって明博たちに捕まるのは嫌だ。けれど意識し始めると身体は正直で、終いにはぐぅと情けない音が腹のあたりから聞こえてきた。

「どうしようかな」

 お腹は空いたが賑やかな場所に行くのは嫌だ。頑固で意固地――どうして僕はこんな性格なのだろうか。
 兄である明博もそうだが母や父もどちらかと言えば社交的でオープンな性格だ。けれど僕だけが内向的で大勢の人を嫌う。歳が過ぎてからの子供だから甘やかされたかと、子供にしては酷くひねくれた考えが浮かんでしまう。

「なんだ起きてるじゃん」

 ふっとため息をついたのと同時か、部屋の扉がなんのためらいもなく開かれて、それと共に頭上から聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声に僕は咄嗟に顔を反らして声の先へ視線を向ける。逆さまに見えるその姿に僕は何度も目を瞬かせた。

「飯、食わないのか? おばさん心配してるぞ」

 扉のほうに頭を向けていたので、真上から覗き込むように顔を見下ろされている。その視線に何故か反射的に頬が熱くなった。

「鷹くん」

 名前を呼んだらなんだか胸がドキドキとまでしてきた。そしてそれと共に安堵にも似た温かい気持ちまで芽生えてきて、そんな感情の変化に驚きと戸惑いで頭が少しパニックに陥る。

「あ、寝てたのか? 寝ぼけてる?」

 いつまで経っても起き上がらず顔を反らし見上げたままの僕に、逆さまの鷹くんが首を傾げた。そんな何気ない表情にまで胸が高鳴ってしまう。

 むくりと起き上がった僕は立ち上がり振り返ると、僕よりも二十センチくらい背の高い鷹くんの腰あたりに思いきりよく抱きついた。
 唐突な僕の行動に肩を跳ね上げて驚いたようだが、振り払われることはなく胸元に頬を寄せ僕は更にしっかりと抱きついた。

「鷹くん二日も僕のこと放っておくなんて酷いよ」

「はあ? たかだか二日だろ」

「違う、二日もだよ」

 離れていた時間を埋めるように頬をすり寄せ抱きついている僕に、鷹くんの呆れたような声が頭上から聞こえてきた。けれどそんな反応はいつものことなので、気にせずに目の前にいる鷹くんを思いきり僕は堪能する。

「毎日会いたい」

「なに馬鹿なこと言ってるんだよ。友達と遊べよ」

「鷹くんがいい」

 それ以外いらない。周りにいるほかの奴らと一緒にいたってなにも楽しいことはない。それくらいなら鷹くんを待って一人でいるほうがずっといい。

「そんなことばっかり言ってるから友達が出来ないんだろ」

「出来ないわけじゃない、作らないだけだ」

 ため息混じりに呆れた声が聞こえた。けれどそれに僕は反論するように声を大にして言う。小学校の頃は同じ学校に通っていた鷹くんだから、僕が一人学校で浮いているのは知っていた。

 時々声をかけてはくれたが、あまり上級生が声をかけすぎると余計に友達が出来なくなるとでも言われたのか、最後のほうはあまり構ってももらえなくなった。
 そんな経緯で先生や大人は信用ならないと幼心に思い、胸に刻んだ覚えがある。

「鷹くん、僕も遊びに連れてってよ。一緒にいたい」

 独り占めにして繋ぎ止めておきたいとは言わない。せめて鷹くんのいるところに僕もいたい。それだけ、それだけなのに――ぐいと肩を押して僕は鷹くんから引き剥がされた。

「お前またそんな我がままを言ってるのか?」

 肩を押した手を見上げて僕は睨むように目を細めた。鷹くんの後ろに立つ明博は呆れたような顔をして僕を見下ろしている。

「お前が友達が作れないのは協調性が」

「うるさい、明博には関係ないだろ! 僕は鷹くんがいればいいんだ」

 たったそれだけなのになにがいけないと言うんだ。離れたくないだけなのに、ただそれだけなのに、それすら許してもらえないのか。

「もう鷹志だって中学生なんだ。小学生連れて歩くなんて出来ないだろ。それが我がままだって」

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 肩におかれた手を振り払って鷹くんの腕を強く引くと、僕はその身体を強く抱きしめた。小さな自分の身体で抱きしめたところで、彼を覆い隠せはしないけれど、誰の目にも触れない場所に二人で行けたらいいのにと思った。

「和臣!」

 叱りつけるように少し荒らげ声を上げた明博を僕はキツく睨み上げた。

「明博になんか僕の気持ちわかんないよ!」

 ただどうしようもなく傍にいたい。好きって言葉だけじゃ足りないくらい大好きで、鷹くんがいなくなったら目の前が真っ暗になってしまいそうだった。

 けれどそれから一年後、父親の都合で北海道に引っ越しをすることになってしまった。義務教育もまだ終わらない僕が親元離れて暮らすわけにもいかず、兄だけ東京に残し小学校六年の三学期を待たずに僕は鷹くんと離れることになった。

 その時の喪失感と言ったらもう言葉では表せないほどだ。明博の言うところの協調性というものが欠如していた僕は、中学に上がってからますますそれが酷くなった。

 ほとんど学校では誰とも話すことも群れることなく、とりあえず高校は東京へ行くのだと勉強にだけ集中した。そして離れてようやくわかった恋心に、僕は中学の三年間ずっと鷹くんにその気持ちを伝え続けた。

 夏休みは必ず会いに行き、しつこいくらいにアピールをし続けた。もちろん最初のうちはまったく相手にしてもらえなかった。

「鷹くん、好き、大好き、愛してる」

「うるせぇ」

 けれど同じ高校に入って三ヶ月――やっと欲しかったものを僕は手に入れた。今では小さかった僕の身長が鷹くんのそれを超え、身体も大きくなって、抱きしめれば他人の目からも覆い隠せるほどになった。

 そっと細い腰を抱き寄せて背後から抱きつくと、僕は鷹くんの肩に顎を乗せた。ぴったりと寄せた肌とキツく抱きしめた腕に、少しばかり鬱陶しそうに小さく唸られたが、それでも僕は腕の力を弱めることはせずに、そっと耳元で囁くように話をする。

「昔の夢を見ちゃった。鷹くんのこと好きって自覚する前の夢。あんなに好きだったのに離れてから自覚するとか僕も意外と鈍いね」

 ふふっと息を吐くように小さく笑うと、それがくすぐったかったのかシーツの上でもぞもぞと身体を縮ませ、鷹くんはタオルケットの中に潜り込もうとした。
 そんな動きに、僕もタオルケットに潜り込み、鷹くんを追いかけて無防備なうなじや背中にキスを落とした。

 白い肌には昨晩つけた鬱血した痕がいくつも散らされている。多分起きたら怒るだろうなと思いながらも、また僕は綺麗な背中に舌を這わせて新しい痕を残した。

独り占め/end

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