夏に咲いた花01
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 都会の夏はじりじりと地面を焦がし、コンクリートで覆われた街は陽炎のように揺らめく。

 連日気温が三十度を超えるのは当たり前で、そんなうだるような暑さにげんなりとさせられる。
 エアコンと扇風機で、キンと冷やされた部屋から出るのが嫌になるほどだ。けれどそんな暑さは、木立の中では和らぐのだと言うことを、敦生は初めて知った。

 さやさやと、葉が揺れるたびに心地よい風が吹いて、猛暑に焦がされた身体は癒やされていくようだ。都心から二、三時間ほどの場所にある楽園に思わずうっとりとしてしまう。
 蝉がジージーとうるさいのに扇風機の風がとても涼やかだった。

 首を振る扇風機の風に当てられるたびに、敦生は目を細める。初めて訪れた場所なのに、ここは不思議と懐かしさを感じさせた。

 どこかで見たことがあるような、木造平屋の一戸建て。畳敷きの広い居間には、古めかしさが似合う木目の家具が置かれている。
 部屋の中にはテレビなどの最新の機器は置いておらず、棚の上に型の古いラジオが載っている程度。

 ちりりんと軽やかな風鈴が鳴り響くと、まるで色褪せた時代に、タイムスリップしたかのようだ。

 縁側に腰かけて、敦生は眩しい目前を見据えた。目に映る風景はのどかで、家屋と同様に色の褪せた田舎の夏を感じさせる。
 夏草が揺れる庭では、青々とした葉をつける大木が、家の護り木のようにまっすぐと生えている。

 それは見上げるほどに背が高く、木漏れ日を庭の池に落としていた。
 キラキラと光を反射する池に、水が注がれるのを見るだけで、心が凪いでいくような気がする。

 新緑があふれるこの場所は、都会しか知らない敦生には夢のような場所だ。空を仰いでみれば、なんだか空も澄み渡っていて清々しい。
 両手足を伸ばして、ごろりと板張りの縁側に転がって大きく息を吸い込めば、新鮮な空気が肺を満たしていくのが感じられる。

「退屈じゃない?」

 靴脱ぎ石の上に、ハーフパンツから伸びた足をだらりと垂らし、縁側で両腕を広げて転がっていた敦生は、逆さまに見えた笑顔に慌てて身体を起こした。

 捲れ上がっていたTシャツの裾を正して、肩先まである赤茶色い髪を梳いて整える。
 そして隣に並んで腰かけた笑顔の主――朝倉を頬を染めて見つめ返した。

「本当になにもないでしょ」

 襟元が大きく開いた白いシャツに指をかけて、朝倉は風を送るように、パタパタとシャツを揺らす。華奢な自分とは違う男性らしい首元が、なんだか色っぽくて、敦生は密やかに胸をドキドキとさせた。

 普段は朝倉のスーツを着た姿しか見たことがなかったが、シャツとチノパンというラフな姿を見ると、なんだかいつもより身近に感じられる。
 今年三十一になった朝倉は、元より若々しい印象があるけれど、私服に身を包んだ姿は歳より二つ三つは若く見えた。

 焦げ茶色の髪は長過ぎることも、短過ぎもこともなく、綺麗に整えられていてとても清潔感がある。彼が寝癖をつけているところなんて、一度も敦生は見たことがない。
 しばらくじっと横顔を見つめていると、小さく首を傾げた朝倉が振り返る。その視線に敦生は慌てて前を向いた。

「あ、うん、すごくのどかだ」

「思いつきでここを選んだけど、山と川しかないからね。若い子には退屈じゃないかな」

「そんなこと、ない」

 夏休みにどこかへ、一緒に出かけようと朝倉に言われた敦生は、暑くないところならどこでもいいと答えた。安直な答えを笑われはしたが、朝倉はちゃんと考えてくれたと思っている。
 だから敦生は退屈だとは感じていなかった。むしろ騒がしいところよりも、こうして静かな場所に、二人でいるほうがずっといいと思えた。

 朝倉が連れてきてくれたのは、彼が子供の頃に祖父母と暮らしていた家で、いまは人は住んでおらず、毎年夏休みに朝倉が訪れる程度。
 それでも古い家は傷んだところなどなく綺麗だった。

「涼しいし、なんか落ち着く」

「そう? それならよかった」

「うん」

 照れたようにはにかむ敦生に、朝倉は目を細めて笑う。それはとても優しい笑みだ。
 温かな光を含む朝倉の烏羽色の瞳はいつでも穏やかで、その眼差しに見つめられるのが敦生は好きだった。彼の笑みを見ているだけで、ますます頬が朱色に染まる。

「敦生くん、ほっぺた真っ赤。暑い?」

「あ、いや、暑くは、ない」

 ふいに伸びてきた手に頬を撫でられて、敦生は驚きに肩を跳ね上げた。振り向けば、心配そうな目をした朝倉がこちらを見ていて、胸がまたドキドキと高鳴っていく。
 触れた先から心臓の音が伝わってしまいそうで、敦生は恥ずかしさを誤魔化すように俯いた。

 そんな気持ちの変化に気づいているのか、朝倉は優しく頭を撫でるとそっと手を引く。それはいつでも敦生のことを、一番に考えてくれる彼らしい行動だ。
 けれど離れていく手を、思わず視線で追いかけてしまう。

「敦生くん?」

 しばらくじっと離れていった手を、敦生は見つめていた。もっと触れて欲しいという想いを募らせながら、綺麗な指先を見つめる。
 けれどいつまでもそれを見つめていると、目の前でひらひらと手を振られた。

 弾かれたように敦生は顔を持ち上げて、小さく首を傾げる目の前の表情に、慌てて首を振る。

「な、なんでもない」

「そう? 敦生くんは可愛いな」

 林檎みたいだね、と笑う朝倉に再び頬を撫でられる。輪郭を辿った指先は次第に後ろへ流れ、さらさらと風に吹かれる赤茶色の髪を梳いていく。
 心地よいその感触に敦生は目を伏せた。

 何度も何度も、頭を撫でるように優しく触れるその手は、ドキドキと音を立てる鼓動をなだめすかしていく。
 朝倉の傍にいると、敦生は気持ちがとても穏やかになる。包み込まれるような、安心感が敦生の胸に広がった。

「坊ちゃん、敦生さん、スイカを切りましたよ」

 しばらく二人並んでぼんやりと庭を眺めていると、背後から声をかけられた。その声に二人揃って振り返れば、白髪の小柄な女性が傍までやってくる。
 手にした大きなお盆には、三角に切り揃えたスイカが並んでいた。

 赤々とした甘そうな果肉に、やつやとした黒い種。切り分けられた一つ一つが随分と大きく、一玉が大ぶりだったことが想像できる。

「伊那さん、坊ちゃんはそろそろやめてください。恥ずかしいので」

「あらあら、失礼しました夏彦さん」

 困ったように眉尻を下げた朝倉に、ころころと可愛らしい笑い声を上げた伊那は、夫と共にこの家の管理を任されている。
 普段から家が傷まないように、手入れをしてくれているが、毎年訪れる朝倉のために温かいご飯を作ってくれたり、寝床を用意してくれたり。

 一切の面倒を見てくれる。朝倉の祖父母がこの家に暮らしていた頃は、夫が庭師をして、伊那が家のお手伝いをしていたようだ。

 ここに来て敦生は初めて、朝倉が裕福な家庭のお坊ちゃんなのだと言うことを知った。普段の朝倉は事務機器を扱う会社の営業で、メンテナンスや契約のために、敦生の通う大学に訪れていた。

 普通のサラリーマンなんだろうと思っていたので、思いがけない事実に少しばかり驚いた。
 二人が一緒にいるようになって四ヶ月程度。まだまだ敦生の知らないことは多い。いつも会う時は外だったので、敦生は朝倉の私生活を覗いたことがほとんどない。

「敦生さん、たんと召し上がれ。夕飯はおうどんを湯がいて、天ぷらも揚げますから楽しみにしていてくださいな」

「ありがとうございます」

「うふふ、夏彦さんがこんな可愛らしいご友人を連れてくるなんて。いつも一人でぼんやりするばかりでしたけど、お二人ともゆっくりしていってくださいね」

 敦生と朝倉の顔を微笑ましげに見つめながら、伊那は至極嬉しそうに目元のしわを深くして笑う。朝倉はもう随分と大人だが、彼女から見れば、いつまでも子供のように思えてしまうようだ。
 慈しむような優しい笑みに、朝倉は少し照れくさそうな表情を浮かべる。

「それでは失礼しますね」

「伊那さんいつもありがとう。俊夫さんにもよろしく伝えてください」

「こちらこそ、今年も夏彦さんに会えて私たちは嬉しゅうございますよ」

 お盆を縁側に置くと、伊那は頭を下げてまたゆっくりと居間を出ていった。ちりりんと風鈴が鳴り響く中で、また二人きりの空間に変わる。
 葉ずれの音が微かにして、蝉がうるさいくらいに鳴いている。

 それでもいまは静寂、という言葉が似合うと敦生は思った。いつも二人でいると空気がとても緩やかで静かだ。それがすごく居心地がいいと感じる。

「敦生くんはお塩かける?」

「あ、うん」

 二人でスイカに手を伸ばして、大きなそれに天辺からかじりつく。しっかりと冷やされた果肉は、口に含むとひんやりとした甘さを感じさせる。
 塩が振られた場所は甘塩っぱさでさらに甘みが増す。

 目の前の青空には真っ白な入道雲。キラキラと輝く夏の陽射し。冷えたスイカに心地いい扇風機。夏らしい夏だと敦生は目を細めた。

「俺もこういうとこに住みてぇなぁ」

「敦生くんは子供の頃から都会っ子?」

「うん、じいちゃんもばあちゃんも都心に住んでるから、田舎ってない」

「そうなんだ。僕は昔ひどく身体が弱くてね。親や兄弟から離れて高校までここにいたんだ。都会の夏は暑いよね。いまだに慣れないよ」

 敦生と同じように目を細めた朝倉は、少し遠くを見るような目をする。いつもここに来る時は一人なのだと、伊那が教えてくれた。

 それを思い返し、敦生はじっと朝倉の横顔を見つめる。聞いていいのか、踏み込んでいいのか。まだその距離が敦生にはわからなかった。けれどまっすぐな視線に気づいた朝倉は、やんわりと優しい笑みを浮かべて振り返る。

「慌ただしい都会はあんまり僕の性に合わないんだ。ここにくるとほっとするんだよ」

「俺を連れてきて、よかったのか?」

「うん。一人でいるのは気楽だけど、僕は敦生くんと一緒にいるほうが好きだからね。むしろ来てくれて嬉しいよ」

 そっと伸ばされた手が、また敦生の髪を優しく撫でる。綺麗な黒い瞳の中に自分の姿を見つけて、敦生は胸を高鳴らせた。
 隣に座っている朝倉との距離を埋めて、肩が触れるほどに近づくと、少し背伸びをして顔を寄せる。

 目を丸くして驚きをあらわにする、朝倉の唇に自分のそれを重ねたら、口先に自分の口の中に広がる甘さと同じ味を感じた。
 それがひどく嬉しくて、敦生は思わず小さく笑ってしまう。

「敦生くん?」

 じっと瞳を見つめたまま身動きしない敦生に、朝倉は少し戸惑ったように首を傾げた。
 もっと触れて欲しい、もっと口づけて、そう心で思うものの、敦生は言葉に出せずにただまっすぐに朝倉を見つめる。

 その眼差しに、朝倉はなにかを言いかけるかのように口を開いたが、すぐに口を引き結んでしまう。そしてそれを誤魔化すみたいにやんわりと、笑みを浮かべた。

「まだ少し暑いけど、ちょっと散歩にでも行こうか? ずっとぼんやりしているのも勿体ないし。珍しいものがあるわけじゃないけど、案内するよ」

「……うん」

 思っていることがなかなか伝わらない。それをもどかしく思うが、敦生は自分を気遣う朝倉に笑みを作って頷いた。
 いつでも優しくて、一番に自分のことを考えてくれる朝倉に、これ以上求めることは、我がままなのではないかと敦生は思ってしまう。

 でももう少し、少しだけでもいいから彼に近づきたい。そう考えてしまう心もあった。

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