甘音-Amaoto-/02
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「まだこのあいだ三十歳になったばかりだし、おじさんじゃないよ」

「三十路になったらやっぱり二十代とはなんか違うよ。紘希と七つも離れてるし」

「それこそお兄さんくらいしか離れてない」

 少しふて腐れたような表情を浮かべる、蒼二を見つめる紘希の目は、どんどんと優しく甘くなっていく。
 離れた歳をいつまでも気にして、もっと近づきたいと駄々をこねるような蒼二の我がままは、紘希にとっては愛おしくてたまらないのだ。

 表情豊かなほうではない紘希の顔が、ますます穏やかな雰囲気をまとう。

「蒼二さん、そろそろ行こうか」

 けれどそんな気持ちを、行動にうまく出すことができない不器用な紘希は、なにごともなかったようにショッピングモール内へと足を進めた。
 そっと紘希が背中に手を添えれば、蒼二は自然とその手に従い歩き始めた。

「もうチケットは買った?」

 顔を上げた蒼二が紘希を見つめて小さく首を傾げる。

「うん、真ん中辺りの丁度いいとこが取れたよ」

 瞬く視線に紘希が笑みを返すと、蒼二の顔が嬉しそうに綻んだ。

 二人が今日観る映画は王道的な日本の恋愛映画。原作の小説の雰囲気を忠実に描いていると評判が高く、詩的な雰囲気と繊細な描写が泣けると、絶賛されている。

 どちらかというと女性が好む映画なので、客層も片寄っているだろうと、蒼二は観に行くのを躊躇っていた。けれど以前なに気なく話した会話を、紘希は覚えていたのだ。

「そうだ、昼ご飯はなにが食べたい?」

「……ラーメン」

 ショッピングモールの三階にある、映画館受付に向かうべく、二人はエスカレーターに乗った。蒼二は後ろに立つ紘希を振り返ると、少しだけ悩みぽつりと呟いた彼に小さく笑って頷く。

「じゃあ、このあいだ職場で聞いた美味しいところが近くにあるからそこに行こう。チャーハンとか餃子も美味しいんだって」

 二人きりで会うようになってから、蒼二も紘希もお互いに財布を突き合わせたりはしない。どちらかがどこかで、それぞれ出し合うという風に自然となっていた。
 なので今日は映画は紘希、昼ご飯が蒼二という分担に言葉にしなくともなる。

「あ、やっぱり人が多いな」

 映画館は休日ということもあり混み合っていた。目的のスクリーンは評判もいいのでかなり満席に近い。
 そして蒼二の予想通り客層は片寄っていた。そこは女性同士やカップルが大半を占めている。

 辺りを見回せば、男同士で来ている客は二人しか見当たらない。

 けれどそんなことは気にする素振りもなく、紘希は歩いていく。その後ろをついて行くと、ちらちらと向けられる視線に気がついた。
 それは座席横の通路を歩いていく彼へ向けられる視線だ。紘希は寡黙で表情が豊かではないが、硬派でなによりも顔がいい。

 だからいつも彼を振り返る人は多くいる。それをわかっているからこそ、諦めるように蒼二は小さく息をついた。

「蒼二さん」

「あ、うん」

 しかし席へと促されて着席しても、蒼二の気持ちはまだ少しざわついたままだった。それでも館内の照明が消えて、スクリーンに予告などが流れ始めた頃。
 肘掛けに置いた手に紘希の手が重なり、そのざわめきが霧散するように晴れた。

 その感情の変化に驚くものの、あまりに単純な思考回路に、蒼二は小さく笑った。
 それから二時間ほど、離れることなく握られた手に、ずっと映画の主人公たちのように胸を高鳴らせていた。

 映画が終わると、蒼二は紘希に少し時間をもらいパンフレットを購入した。映画好きな彼は、いつもこうして気に入った映画のパンフレットを購入する。
 だからなにも言わなくとも、紘希は売り場へ寄ってくれるし、何分でも待っていてくれた。

 混雑した売店で買い物を済ませると、待ちぼうけをさせてしまっている彼の元に急いで戻る。

「お待たせ」

「うん」

 駆け寄った蒼二に小さく頷き返した紘希は、下りエスカレーターへと向かい足を進めた。その斜め後ろを行きと同じようについて行く。

「面白かった。音楽もよかったし、映像がすごく綺麗で、原作も読んでたけどこっちもすごいよかった。パンフレットも写真が綺麗だし久々の当たりだな」

「うん、すごくよかったね」

 久々に好印象な映画が観られ、胸を弾ませて蒼二は前に立つ背に寄りかかるが、その先にある顔はどこか浮かない。
 映画を見ているあいだは変わりなかったが、紘希はスクリーンを出てからずっとどこか暗い表情をしていた。

 それを思い返し蒼二はもう一度、顔色を窺うように顔をのぞき込む。

「あんまりだった?」

「いや、そういうわけじゃない」

 問いかけにゆるりと首を振るけれど、楽しそうには見えない紘希の表情に、蒼二は困ったように眉を寄せた。
 しばらく沈黙のままエスカレーターで下りていくと、彼は無言のまま一階のエントランスを抜けて、出入り口に向かってしまう。

 それを足早に追いかけて自動ドアを抜けると、蒼二は雨の中を歩いていこうとする紘希の腕を慌てて掴んだ。

「待って紘希! なにか俺、気に障ることしたかな。だとしたらごめん、気がつかなくて」

 急な紘希の変化に蒼二は早口になる。掴まえた腕を握る手にも力が入ってしまい、少しだけ顔をしかめられた。その表情に慌てたように「ごめん」謝り、手を放した。

「ごめんなさい。蒼二さんが悪いわけじゃないから」

「ねぇ、じゃあどうして謝るの」

 のぞき込んだ顔をそらされて、蒼二は前へ回り込むようにして紘希の歩みを止める。けれど俯きそらされた視線が合わない。

「紘希?」

「蒼二さんは俺のことどう思ってる?」

 視線を追いかけるように、のぞき込んだ蒼二の目をふいに紘希がまっすぐに見つめる。突然視線が合った蒼二は、一瞬驚いたように目を瞬かせた。

「え? どういう意味?」

「やっぱりいい、ごめんなさい」

 首を傾げて問い返す蒼二の反応に、また紘希は顔を俯かせて目をそらしてしまった。それと共にしばらく二人のあいだに沈黙が続いた。

 そんな俯いたままの紘希と、その前で考え込むように視線を動かす蒼二は、通り過ぎる人たちの視線を振り返らせていた。けれど二人ともそれどころではなく、まったくそれに気づく様子はない。

「紘希、えっと……俺は紘希のこと好きだけど。紘希はそういうのじゃなかったかな? 俺が勘違いしてたならごめん」

 二人が出会ってからの五ヶ月を振り返りながら、蒼二は恐る恐るといった調子で紘希の様子を窺う。三ヶ月前までは、共通の知人を含めた付き合いをしていた。二人きりで会うのは今日で七回目。

 けれどいまだにこうして、映画や食事に行くくらいで、二人は手を繋いだことすらなかった。時折肩や髪に触れることがあっても、手が触れたのは先ほどの映画の最中くらいだ。
 しかしそんな怖々とした蒼二の様子に紘希は小さく息をつく。

「蒼二さん、俺と会ったきっかけとか覚えてる?」

「え? あ、うん。もちろん覚えてるよ。紘希が最初に声をかけてくれたのも、連絡先を教えてくれたのもちゃんと覚えてる」

 五ヶ月前に行きつけのバーで、蒼二は初めて店に来たという紘希に「一緒に飲みませんか」と声をかけられた。もともとそのバーは、出逢いを求めて集まる客も多い店だった。

 なので第一印象も真面目そうで、警戒する要素もなかった紘希に、蒼二は二つ返事をした。

「じゃあ、勘違いじゃないのわかるよね。俺も蒼二さんが好き、っていうか最初から好きだよ。でなきゃ、俺が初めて会った人に声かけるなんてありえない」

 すっと持ち上げられた手が、蒼二の頬を包む。頬を撫でる手は優しく、見つめる紘希の目も寂しげではあるが、温かさを感じるほどに優しかった。
 その手と視線に蒼二の頬はうっすらと上気し始める。しかしそのことに自分でも気づくと、気恥ずかしそうに目を伏せた。

 けれどすぐに頬を包んでいた手が背中へまわり、蒼二は強く紘希に抱き寄せられた。

「不安にさせてごめんなさい。ただ、さっき初めて手を握ったのに、蒼二さんなにもなかったみたいな顔をしてたから、少し気持ちを疑ってしまった」

 隙間など一ミリもないくらいに、強く身体を抱きしめる紘希に、蒼二はゆっくりと腕を持ち上げて背を抱きしめ返した。
 肩口に頬を寄せ、柔らかな香りに包まれて目を閉じると、少し早い心音が心地よく蒼二の耳に響く。

「俺こそごめん、もっとたくさん伝えればよかった。ちゃんと好きだよ、紘希に会う時はテンション振り切れそうなくらい、いつもドキドキしてる」

「よかった。俺が勘違いしてるのかと思ってた。ちょっと映画に感化されたかも」

 さりげない日常の中で出会った二人が、傷つきながらも様々な困難を乗り越え、周りに助けられ祝福されてハッピーエンドを迎える。
 映画のストーリーは、様々なエピソードが折り重なっているけれど、主人公たちの想いに自身を重ね投影してしまうほどに、引き込まれる内容だった。

 けれどあまりにも綺麗なハッピーエンドは、紘希の中にさざ波を立てた。
 スクリーンの中で繋がれた主人公たちの手のように、握った温かな蒼二の手もずっと繋いでいられるだろうかと、思わせてしまった。

「大丈夫だよ、俺は紘希が好きだ」

 お互い顔を見合わせて苦笑いを浮かべると、そっと身体を離した。そして二人一歩ずつ身を引いてまた笑い合う。

「ここでこうしてると目立つから、うちにくる? ご飯は途中で買ってもいいし、なにか作ってもいいよ」

 ようやく振り返る人の目に気づいた蒼二は、少し頬を染めながら小さく首を傾げた。そんな様子に紘希も周りの視線に、少し目を向けて小さく頷いた。

「蒼二さん料理するんだ」

「簡単なものだけど」

「じゃあ、蒼二さんの料理が食べたい」

 思わぬおねだりに蒼二の頬が緩む。じゃあと傘を開くと、空いた右手を差し出した。その手に少し首を傾げた紘希だったが、まっすぐと見つめてくる視線でその意味を悟った。

 紘希は優しく笑みを浮かべると、傘を開いて迷うことなく、差し出された手に左手を重ねる。そしてしっかりと手を繋ぎ合わせて、二人は雨の中をゆっくりと歩き出した。

 ぽつぽつと傘が雨音を響かせる中、二人の小さな笑い声が、昼下がりの街に吸い込まれる。そして初めて繋ぎ合わされた手は、しばらく離れることはなかった。

 繋ぎ合わせた手から伝わる熱と、二人の胸で高鳴る音は緩やかだけれど、確かに心に刻まれた。そして――優しい甘音が胸に広がった。

甘音-Amaoto-/end

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