甘恋-Amakoi-/03
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 至極嬉しそうに笑っている見知らぬ男の子と、彼の口から飛び出した予想もしない言葉に蒼二は身動きができなかった。
 一体なにを言っているんだと疑問が浮かんでくるが、名前を呼んで親しげに話しかけているのを見れば一目瞭然。彼は紘希の知り合いだ。声を出せずに両手をぎゅっと握れば、もどかしい気持ちが蒼二の中に生まれる。

 目の前で抱きつくように腕を伸ばした男の子に苛立ちを感じて、心の狭い人間だとしみじみしてしまう。ただの友達かもしれない。偶然会ったのかもしれない。そんな考えが浮かんでくるけれど、それもすぐに濁って心の底にヘドロのように溜まっていく。

「紘希!」

 すり寄るように腕にぴったりと寄り添う男の子の顔を見ているうちに、嫌な感情ばかりが膨れて、蒼二は縋るように手を伸ばした。駆け寄って空いた片方の腕を掴むと、しがみ付く勢いでぎゅっと力を込める。
 驚いたように振り向いた紘希は、蒼二の顔を見た瞬間に表情を曇らせた。

「蒼二さん」

「あ、あの、紘希。もう、終わったの?」

「ああ、うん」

「えっと」

 声をかけたものの言葉が続かずに蒼二は視線をさ迷わせる。ちらりと紘希の向こう側で腕を絡ませている男の子に視線を向けるが、彼はじっとこちらを見つめてもの言いたげに目を細めた。視線がつま先から天辺まで流れて品定めされているのがわかる。
 なぜ彼にそんな真似をされなくてはならないのだと、返す視線も自然とキツくなってしまう。けれどそんな腹の黒い自分に気づき、蒼二は紘希に見られないように慌てて目を伏せた。

「幹斗、離れろ」

「えー、やだ。せっかく会えたのに離れたくない」

「いいから離れろ、迷惑だ」

「なんでそんなこと言うのさ! 紘希の意地悪!」

 押し黙っている蒼二に気まずさを感じたのか、紘希はようやく腕に絡みつく男の子――幹斗を振り払うように腕を上げる。しかし彼はその腕にしっかりぶら下がり手を離そうとしない。
 背の高い紘希に比べて幹斗は背が小さくて小柄だ。見方を変えれば子供がぶら下がっているようで微笑ましくも映る。けれどそんな考えができるわけもなく、蒼二は唇を引き結んだ。

「いい加減にしろ!」

「やだやだ! 僕、次に紘希に会ったら絶対離さないって思ってたんだから」

 幼い顔立ちだが、見た目は二十歳そこそこ。幹斗と紘希の年が近いことは見た感じからわかる。そして想像するよりもずっと親しい。普段他人に表情をあまり崩さない紘希が、自然体で接している。
 それに気づくと蒼二はその場所に立っているのが不安になってくる。とっさに踵を返そうと足に力を込めた。けれど大きく一歩後ろへ下がったのと同時に、静かな駅構内に大きな呼び声が響く。

「幹斗! なにしてるの? 帰るよー!」

 突然遠くから聞こえてきた声に蒼二は弾かれるように顔を上げた。視線を流すと、駅前のロータリーに停まったミニバンの傍で大きく腕を振っている女性がいる。まっすぐにこちらを見ているその視線に、幹斗は少し顔を歪めて面倒くさそうな顔をする。

「幹斗」

「……もう、わかってるよ。じゃあ、あとで連絡するから」

「連絡はしてくるな」

「べー、嫌だよ。帰る前にまた会ってね! 楽しみにしてる!」

 子供のように舌を出しておどけた幹斗は、するりと腕から離れると自分を待っている女性の元へ駆け出していった。その後ろ姿を見つめれば、二人は車の中へと姿を消す。そしてドアが閉まるとすぐに車は走り出した。

「蒼二さん」

 ぼんやりと車の先を見つめている蒼二はゆっくりと近づく紘希に気づいていない。意識を引くようにそっと右手を握られてようやく顔を上げた。ぎゅっと強く握りしめてくるその感触に驚いた蒼二が肩を跳ね上げると、ふいに腕を引かれて身体を抱きすくめられる。

「紘希?」

「ごめん、嫌な思いさせたよね」

「あ、うん。でも、平気」

「いいよ、無理しなくて」

 きついくらい抱きしめられて、蒼二の胸の音が少しずつ早まっていく。おずおずと手を伸ばして背中に手を回すと、頬ずりするように顔を寄せられた。触れた頬からじわりと広がるような熱を感じて、抱きつく腕に力がこもる。

「あいつは幼馴染みで、一年ちょっと前までは付き合ってた。でもそのあとはずっと連絡とかは取ってないよ」

「……そう、なんだ。遠恋だったの?」

「いや、別れたあとこっちに戻って来たって言ってた。ここはあいつの田舎だから、戻ってることは予想してたけど」

「え? 幼馴染みなんだよね? じゃあ、紘希はここに来たことあるんだ?」

「うん、五年くらい前までは母親の実家があった。温泉地って言ってもあちこちあるし、まさかなとは思っていたんだけど」

 少し戸惑うような紘希の声音に、ようやくストンと胸の中に気になっていたことが落ちてくる。電話口で言葉を詰まらせていたのはこのことかと蒼二は合点がいく。
 最初から紘希は幹斗に会うことを危惧していたのだ。しかしよく考えなくても、いまの彼氏と旅行の最中、昔の恋人に会うのはかなり気まずい。それに幹斗の様子を見る限り、彼はまだ紘希に気があるようだ。

「連絡は取らないから」

「うん、でも来るんじゃない?」

「返事はしない」

「そうだね。そうしてくれると嬉しいかな」

 きっぱりと言い切った紘希に頷きながら、蒼二は小さく息をついた。もしまた幹斗に会うことになったら、きっと嫉妬で焦げ付く。
 けれどそんな自分を紘希に見られたくはないなと蒼二は思う。だからこのままなにもなかったように休日を過ごしたい。そんな想いを込めて紘希の肩口に頬を寄せた。

「紘希、そろそろ行こうか」

「そうだね」

 しばらく二人で抱き合っていたけれど、冷たい風が二人の肌を撫でていく。その冷たさに徐々に気持ちが冷静になる。ゆっくりと身体を離して顔を持ち上げると、自分を見下ろす優しい眼差しを蒼二は見つめた。顔を見合わせているうちに少しずつわだかまりが解けて、自然とお互いの口元に笑みが浮かぶ。

「そろそろ、お腹が空いてきたかも」

「温泉街に着いたらご飯食べよう。着く頃にはいい時間だよ」

「うん」

 さりげなく差し伸ばされた手のひらに蒼二は右手を預け、一歩先を歩く紘希のあとに続いた。
 温泉街はタクシーで二十分。観光慣れした運転手から町の話を聞きながら、ようやく二人で駅を離れる。けれど乗車中ずっと離されることのなかった手に気を取られて、町の自慢話は話半分だった。

「お客さん、着きましたよ。ここが吉兆温泉です」

 ゆっくりとタクシーは木造の懐かしい風情を感じさせる小さな駅舎の前で停まる。窓の外へ視線を向けると町の向こうに大きく迫った山が見えた。山間の町だと聞かされたが、こんなにも近いとは思わず、蒼二は物珍しそうに目を瞬かせる。
 山の尾根には白い化粧が施されていて、それを見ると一気に冬を実感してしまう。けれどタクシーを降りてみれば、少し前にいた駅とは違いそれほど寒さを感じなかった。それは町の至る所で立ち上る温泉の湯気のおかげかもしれない。

「紘希、あれはなに?」

「ああ、あれはおやき。小麦粉を練ったものを平たくして焼いたもの。中に色々具が入ってるんだよ。食べる?」

「うん」

 駅は小さいが温泉地なだけあって人は思った以上にいる。賑やかさを見せる店先をあれこれと覗きながら、二人並んでのんびりと歩いた。珍しいものを見つけるたびに首を傾げる蒼二に、紘希は面倒くさがることもなく丁寧に説明する。そのたびに蒼二は嬉しそうに笑い、紘希に肩を寄せた。
 それからしばらく温泉街を回って歩き、つまみ食いをしながらも昼食を取るべく店を探す。

「さすがに山の近くだけあって坂道が多いね」

「疲れた?」

「ううん、平気」

「この先に蕎麦屋があるはずなんだけど」

「あ、あれじゃないか?」

 道の先にノボリを見つけて蒼二は指をさした。風を受けて小さくはためくそれには手打ち蕎麦と書かれている。

「ああ、ここだ。蕎麦ももちろんだけど。天ぷらがね、大きくて美味しいんだよ」

「へぇ、そうなんだ。よし、じゃあ行こう! 温かいお蕎麦が食べたい」

 やんわりと微笑んだ紘希に満面の笑みを返すと、待ちきれない顔をして蒼二は足早に坂を上っていく。そして店の前に着くなり手招きをしながら格子戸を引いた。
 のれんをくぐって店の中に足を踏み入れれば、だし醤油の香りと共にが温かさが伝わってくる。少し冷えた身体にその温かさは染みてきた。

「いらっしゃいませ、お一人様? あら? もしかして、紘希くん?」

 出迎えてくれた年配の女性は蒼二に向かって笑みを浮かべたが、後ろから姿を現した紘希を見て不思議そうに首を傾げた。その仕草に紘希は小さく会釈を返す。

「ご無沙汰しています」

「あらあら、久しぶりね。元気してた?」

「はい、亮子さんお変わりないですね」

「まあ、嬉しい。久しぶりなんだし、ゆっくりしていって」

 店内はテーブル席が五席、座敷に二席と比較的こぢんまりしている。テーブルはいっぱいだったため、女性は奥にある座敷へ通してくれた。席に着くと、早速おすすめを聞いてかき揚げ蕎麦とエビ天蕎麦を注文する。

「紘希はここ何年ぶり?」

「六年ぶりくらいかな」

「そっか、結構経つね。高校三年生くらい? 紘希って高校の頃からあんまり変わってなさそう。ブレザー? 学ラン?」

「まあ、それほど変わってはいないよ。制服は学ラン」

「ああ、うん。すごく制服が似合いそう」

 紘希を見ながら想像を膨らます蒼二に、目の前の本人は少し乾いた笑いをする。けれど満足そうに蒼二が笑えば、ふっと息をついてから小さく微笑んだ。

「こんにちはー!」

 のんびりと二人で話をしながら蕎麦を待っていると、ふいに店内に声が響く。なに気なく蒼二が視線を向ければ、店の入り口から顔を覗かせる青年が目に入った。その顔に亮子と呼ばれていた女性が笑みを浮かべて応えている。

 どうやら客ではなく顔見知りが訊ねてきたようだ。ぼんやりとそんな様子を眺めていたが、ふいに振り返った亮子としっかり目が合ってしまう。驚いて目を瞬かせれば、青年に話しかけながら彼女はこちらを指さしてくる。
 すると青年は誘われるように指の先へ視線を向けて、驚いたように目を見開く。そしてまっすぐに蒼二たちのところへ向かってきた。

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