甘恋-Amakoi-/04
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 まっすぐと直進してくる男に蒼二は驚いて肩を跳ね上げる。とっさに紘希を振り返るが、仕事のやり取りをしているのか携帯電話を見ていてこの状況に気づいていない。そうこうしているうちに男は二人の席までやってくる。
 間近にして一番気になるのは高い上背。体格がよいのでかなり大柄に見えた。けれどやけに嬉々とした顔は穏やかな眼差しをしていて、厳つさがなく人好きをする印象だ。
 目の前に迫った男は驚いている蒼二には目もくれず、俯いている紘希に視線を向ける。

「紘希! 帰ってくるなら知らせてくれてもよかったじゃないか!」

「え?」

 男の少し大きな声が響くと、さすがにその存在に気づいた紘希が顔を持ち上げる。そして男の顔を見て目を丸くした。

「昭矢」

「なんだ、今年は珍しいこと続きだな」

「どういう意味だ?」

「幹斗が帰ってきて、いまうちの旅館で仕事してるんだ」

 にこやかに話す男――昭矢の言葉に、紘希はふいに表情を険しくする。その表情と挙がった名前にひどく胸がざわめいた蒼二は、昭矢が着ている青藤色の羽織に目を向けた。
 羽織の襟の部分に入っている文字はおそらく昭矢の言う旅館の名前だ。無意識にじっとその文字を目で追って、それを確かめると思わず声を上げてしまう。

「え? 北川旅館?」

「そうですよ。なにか?」

 急に大きな声を上げた蒼二に、昭矢は首を傾げて振り返る。そして青い顔をする蒼二を訝しげに見つめた。けれどその様子に察しがついた紘希はふっと重たい息を吐く。

「蒼二さん、くじ運ない?」

「うん、そうかもしれない」

 普段まったくそういったことに縁がないのだから、くじ引きで一等を当てた時点で運を使いきったようなものだ。立て続けに悪運を引き寄せた自分に、蒼二は沈み込みそうなくらい肩を落とした。

「ん? なんだ? よくわからないけど。紘希、うちに来るのか?」

「ああ、そうみたいだ」

「そうか! 幹斗も喜ぶぞ。紘希に会いたがっていたしな。食事が済んだら車で連れて行ってやるよ」

 不思議そうな顔をしていた昭矢だったが、紘希の返事にぱあっと顔を華やがせる。嬉しそうに破顔したその顔に、蒼二はなんとも言えない気持ちになってしまった。
 会いたくないと思っていたのだ。このまま会わなければ忘れられると思っていたのに、行く先々で盛大な外れを引いた。気分が落ち込むばかりで美味しいと言われていた蕎麦も天ぷらも、ひどく味気ないものに感じた。

「蒼二さん、この人は北川昭矢。俺の幼馴染みで確か蒼二さんの三つ下くらい。北川旅館の跡取り息子だよ」

「はじめまして、喜多蒼二です」

「喜多さんよろしく。なんかちょっといままで紘希の周りにいなかったタイプですね」

「そ、そうですか?」

「うん、いつも紘希と正反対の賑やかなタイプが多かったんですよ。俺もそうだけど、もう一人の幼馴染みに幹斗って言うのがいるんですけど、それがまた騒がしくて」

 朗らかな笑みを浮かべる昭矢に、蒼二は無理矢理に口の端を上げて笑みを返す。そして一時間ほど前に出会って最悪な気分になったばかりだと、内心毒づいた。
 なにも知らない昭矢はまったく悪くないのに考えがねじ曲がってしまう。そんな自分を感じるたびに、蒼二は心の醜さを知ってひどく情けない気持ちになった。

「そうだ、紘希。せっかくだからいい部屋を用意するよ」

「別に気を使わなくても」

「久しぶりに会った大事な幼馴染みをもてなさないと」

 食事が済むまで待っていてくれた昭矢は、至極見覚えのあるミニバンで蒼二たちを送ってくれた。道中はずっと昭矢が昔話に花を咲かせていて、話に入り込めない蒼二は仕方なしに窓の外を眺めていた。
 話の中に度々出てくる幹斗の名前には複雑な気分にさせられたので、時折向けられるバックミラーからの視線には曖昧な微笑みを返した。

 車に乗って十分ほど長話を聞いていると旅館に到着する。そこはそれほど大きな旅館ではなく、二階建ての少し古めかしさを感じさせる外観だ。話の合間に聞いた話では客室は十五室あるようだ。

「いらっしゃいませ。……あら、坊ちゃん」

 外観に反して小綺麗な印象を受ける広い玄関に入ると、昭矢と同じ青藤色の羽織と若草色の着物を着た白髪の女性がにこやかに迎えてくれる。しかし蒼二と紘希の後ろから顔を覗かせた昭矢を見て目を瞬かせた。

「富さん、暁の間って今日空いてたよね? この二人そこに通してあげて」

「え? 暁の間ですか?」

「企画のお客さんだけど、俺の知り合いだから」

「あら、そうなんですか。わかりました」

 少し怪訝な顔をしていたが、富と呼ばれた女性は昭矢の言葉にやんわりと笑みを浮かべた。そしてぼんやりと立ち尽くす客人たちの荷物を引き受けて奥へと案内をしてくれる。長い廊下を通って富はどんどんと奥へ進んでいく。昭矢が選んだ部屋は離れにあるのか渡り廊下を抜けた。

「喜多さま、沢村さま、こちらが本日のお部屋になります。まずはゆっくりおくつろぎください」

 ふすまを開けた先は広めの前室になっており、磨りガラスの格子戸とふすまの二つの入り口がある。富が引き開けたのはふすまのほうで、それを挟んだ向こうに客室があった。綺麗な畳敷きの部屋は広く十畳ほどはある。
 暖房を効かせてあるのか部屋の中はほんのり温かい。中央にはテーブルと座椅子が備えてあって、上着を富に預けると蒼二と紘希は勧められるままにそこに腰を下ろした。

「内風呂は源泉掛け流しになっております。あとお部屋を出られる際は、貴重品は部屋の金庫にお入れになるか。お持ちください。のちほど温かい甘酒をお持ちいたしますが、よろしいですか?」

「はい、ありがとうございます」

 旅館や部屋の設備について説明をし終えると、富は丁寧にふすまを閉めて部屋を出て行った。それを見届けた蒼二は気が抜けたように両腕を伸ばしてテーブルに上半身を預ける。そしてそのまま大きく長い息を吐き出して、小さく唸り声を上げた。今日という日を蒼二はとても楽しみにしていたので、予想外のダメージとその反動が一気に押し寄せてきたのだ。

「蒼二さん、大丈夫?」

「……うん、平気」

「俺、先に確認したらよかったね」

「いや、別に紘希が悪いわけじゃないよ。ちょっと運が悪かっただけ。でも二等の焼き肉食べ放題の食事券でもよかったかも」

 高望みをしてしまったからこんなことになってしまったのだ。蒼二の頭にはそんなことが浮かぶ。二人きりで旅行など贅沢すぎた。分不相応な望みだったのだと、また息をつく。立て続くトラブルにいまの蒼二は自己嫌悪の塊だ。

 けれどふいに頭を優しく撫でられる。ほんの少し視線を持ち上げると、心配げな顔をした紘希が見えた。その顔をじっと見つめれば、ひどく優しい笑みを返してくれる。それは恋人である蒼二にだけ向けられる特別な笑顔。
 しかし嬉しいと思うのと同時に、あの賑やかな幹斗のことを思い出してしまう。あの子にも同じように微笑んだのだろうか。そんなことを考えて蒼二の胸はキリリと締めつけられるように痛んだ。

「ねぇ、紘希」

 ゆっくりと身体を持ち上げて、まっすぐに蒼二は目の前の紘希を見つめる。熱のこもった視線を向ければ、その心の内にあるもの感じ取ったのか、紘希はゆっくりと立ち上がった。そして思い望むままにテーブルを挟んだ蒼二の元へやってくる。隣で膝をついた紘希を蒼二はただひたすらに見つめ続けた。

「蒼二さん、俺はあなただけが好きだよ」

 そっと伸ばされた紘希の手が蒼二の頬を撫で、優しい色をした柔らかな髪を梳く。その感触にうっとりと目を細めた蒼二は、腰を浮かせて紘希の首元に腕を伸ばした。引き寄せるように腕を絡めれば、紘希は蒼二の腰に腕を回してそれに応える。身体が少しずつ隙間を奪い、少しずつ近づいていく。

 吐息が口先に触れれば、蒼二の口元は嬉しそうに綻んだ。やんわりと押し当てられる唇の感触はしっとりとしていて、ひどく甘やかさを感じる。その甘さを堪能するように蒼二はついばむように何度も唇を食んだ。けれど伸ばされた舌に蒼二の唇はもてあそぶように撫でられる。

「紘希、もっと、……んっ」

 ねだる蒼二の声に、触れるだけだった唇が角度変え深く合わさる。開いた隙間からは熱を感じる舌が滑り込み、言葉も息も飲み込まれた。唾液が口の中で混ざり合いくちゅくちゅと滴る音が聞こえる。少し荒々しいくらいに口腔を貪られて、蒼二は恍惚とした表情で熱を帯びた息を吐き出した。

「あっ、んっ、こ、うき」

 じんと身体の芯が熱くなるような濃厚な口づけに、蒼二はぶるりと肩を震わせる。首筋や背中がゾクゾクとして、しがみ付くように腕に力を込めた。

「蒼二さんって、感じやすいよね」

「ぁっ、駄目、耳元で喋らないで」

「いますぐに裸に剥いて、襲いかかりたい気分」

 耳のフチをべろりと舌で撫で上げられて蒼二の肩が大きく跳ね上がる。するとその反応を楽しむようにやんわりと耳たぶを囓られた。

「いま、は駄目」

「うん、いまは我慢するよ」

 少し意地の悪い顔をして目を細めた紘希に、蒼二は首筋まで染めて恥じらった。ゆるりと解かれた腕は下ろされ、しなだれかかるように身体が紘希へと傾く。肩口にすり寄る蒼二の頭を紘希はあやすように撫でた。

「失礼しまーす」

 抱き合ったままキスの余韻に浸っていると、ふいによく通る明るい声が響く。それは部屋の入り口から聞こえてきた。慌てて蒼二が身を引くのと同時か、客間のふすまが引き開けられる。

「甘酒をお持ちしました」

 いきなり現れた人の気配にも驚いたが、聞き覚えのある声に心臓が跳ね上がる。ふすまの向こうから現れたのは、作務衣のような若草色の着物を着た幹斗だった。躊躇うことなく部屋に入ってきた彼は、驚きに固まっている蒼二など気にも留めていないのか手に持った盆をテーブルに置く。
 朱塗りの盆の上には背の低いポットとぐい呑みが二つ。膝を折ってテーブル脇に座った幹斗はポットの中身をぐい呑みに注いでいく。するとふんわりと酒粕の匂いが広がった。

「蔵元から取り寄せた酒粕で作った特製の甘酒です。……なんて、普段は真面目に仕事してるんだけど。どう? 真面目そうに見える?」

 ぐい呑みを蒼二の前と空いた向かい側に置いた幹斗はふいに肩をすくめて笑う。にんまりと笑った顔は愛嬌があって実に可愛らしい。けれど彼の視線は蒼二を通り越し、ずっと紘希に向けられていた。

「さっき昭矢に聞いたんだ! 紘希がうちに泊まるって。ねぇ、なんかすごく運命的じゃない?」

 眩しいくらいの笑顔で紘希を見つめる幹斗の姿に、蒼二はひどく嫌な予感がした。この調子でいくと、ここにいるあいだはゆっくりと二人でいるのは難しいかもしれない。目の前にある現状に気がつけば、浮き上がっていた気持ちがまた一気にしぼんでいくのを感じた。

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