甘恋-Amakoi-/05
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 旅館で働いている幹斗は至極真面目ではあった。愛想もよくお客からの反応も上々で、一緒に働いている仲居たちからの評判もいい。このままここに就職してくれたらいいのに、なんて話している者もいた。
 けれどどんなに彼が他人に好印象を与えていたとしても、蒼二にとっては厄介者でしかない。部屋に現れたあとから、なにかにつけて紘希の周りをうろちょろしている。

 紘希と二人で外へ出ようとすれば、新しい店があるといって案内を買って出る。もちろん断るのだが、紘希がいなくなってからこの町も変わったんだと言って引かない。終いには仲居頭の富にぜひ行ってらっしゃいと後押しされてしまった。
 渋々連れて行けば案の定道すがらずっと紘希にべったりで、逆に蒼二のほうが気を使って歩く羽目になった。確かに珍しい土産物屋や最近できたという甘味処は文句をつけるところはなかった。しかし蒼二の精神的疲労はどんどん蓄積されていくばかりだ。

「ここが星見の高台だよ。紘希がいた頃にはなかったでしょ。二年前くらいにできたんだけど、最近じゃだいぶ有名になってきて、ここを目当てに来る人も増えたんだ。日が完全に暮れたらまた来ようね」

「幹斗、もう案内はいい」

「あ、そろそろ帰る? もう少ししたら夕食も食べられるよ。紘希は旅館でご飯食べるのは初めて? 食堂だけど、ご飯はかなり美味しいって評判だから楽しみにしてて」

「話を聞け、幹斗」

「帰ったらご飯の前にお風呂に入るのもいいよ。大浴場に露天風呂があるんだ」

 呆れた紘希がたしなめようと声をかけるが、のれんに腕押し状態でまったく聞く耳を持たない。言葉をするりと都合のいいほうへと変換してしまう。
 その反応には正直言葉も出ない。けれど蒼二が不安を募らせているのは紘希も気づいている。幹斗の手を払うと、後ろ歩く蒼二を振り向いて手を差し伸べて来た。

「蒼二さん、こっちにおいで」

「え? あ、でも」

「あー、紘希! このオブジェの前で写真撮ると幸福になるって」

「幹斗! いい加減にしないと本気で怒るぞ」

 伸ばされた手に躊躇している蒼二を押しのけるように前へ出てくる幹斗に、普段めったに大きな声を出さない紘希が声を荒らげる。それにはさすがに幹斗も驚いたのか、ビクリと肩を跳ね上げた。

「や、やだなぁ。そんなに大きな声出さなくてもいいのに」

 少し怯えたような目をする幹斗はそれでも笑みを作って見せる。けれどこれ以上紘希の機嫌を損ねたくないのか、ほんの少し距離を置いた。俯きがちな顔はひどくしょげていて、なんだかこちらが悪いことをした気分にさせられる。
 結局、それから幹斗は押し黙ったままで、いきなり静かになった帰り道を三人で黙々と歩いた。旅館に着く頃には日がだいぶ暮れて、玄関前にある灯籠の明かりに迎えられた。

「やあ、おかえり。ゆっくり楽しんでこれたか?」

 玄関に入ると受付にいた昭矢が三人に気がつき、迎え出てくれる。しかし三人ともひどく微妙な顔をしているので、不思議そうに首を傾げた。

「ん? あれ? 喜多さん」

「え?」

 明後日の方向を向いている紘希と幹斗にますます首をひねっていた昭矢だが、蒼二の傍まで来るとふいに顔をのぞき込んで来た。それに驚いて蒼二が顔を上げれば、伸ばされた手が頬を撫でる。あまりにも突然のことで、触れられたほうは固まったように動けなくなってしまう。

「顔色あんまりよくないですね。外寒かったですか? 風邪は引いてません?」

「あ、いや、大丈夫、です。平気、なんともない」

 じっと目をのぞき込むように見つめられて、その目をそらすにそらせなくなる。けれど気まずい沈黙を割くような声が響く。

「昭矢!」

 どこか苛立ちを含んだような声。その声と共に蒼二の頬に触れていた手が離れていく。いや、正しくは引き離された。昭矢の横から幹斗の両手が伸びて、腕を引き離したのだ。

「なんだ? どうした幹斗」

「……お、お客に、気安く触るの、失礼だろ」

「あ、ああ、確かにそうだな。喜多さん、すみません」

「いや、平気だよ」

 突然の幹斗の剣幕に少し蒼二は気圧された。驚いてまじまじと見つめてしまうが、キッと睨み付けるような視線が返ってくる。明らかに威嚇している幹斗は、両腕をしっかりと昭矢の腕に絡ませた。

「蒼二さん、行こう」

「あっ、うん」

 幹斗の視線にどうしたものかと困惑していると、紘希に手を引かれる。その感触に慌てて振り返れば、紘希はあまり表情の読めない顔をしていた。いつも蒼二といる時の紘希は表情こそ少ないが、感情の動きはわかりやすかった。
 それなのに珍しく無表情に近い。しかし不安はあるものの、歩き出す背中を追いかけて蒼二は足を踏み出した。するとその後ろから昭矢の至極のんびりとした声が届く。
 
「そうだ、二人とも。十七時半から夕飯が食べられる。受付の左隣にある廊下を通って一つ目の部屋が食堂だ。二十一時までやってるから好きな時間に来てくれ」

 振り返らない紘希の代わりに蒼二が会釈をすれば、昭矢はほんの少し肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

「紘希? どうしたの?」

 前を歩く紘希はどんどんと足を進めて、まっすぐに部屋へと向かっていく。少しいつもとは違う雰囲気に蒼二は戸惑ってしまう。けれど部屋のふすまを開いて中へ入った途端に引き入れられ、そのまま壁に背中を押しつけられる。驚いて目を丸くする蒼二をよそに、荒々しく首筋に噛みつかれた。

「痛っ、紘希?」

 マーキングするみたいにきつく歯を立てられて、肌がぞくりとする。その感覚に戸惑いながら紘希を見つめれば、今度は食らいつく勢いで唇を奪われた。

「ぅんっ……んっ」

 性急に唇を割って入り込んだものに舌を絡め取られる。上擦った声が蒼二の口から漏れるけれど、お構いなしに口の中を蹂躙していく。どちらのものともつかない唾液があふれて口の端を伝い落ちるが、呼吸もままならないくらいに口づけられる。

「ぁっ、こう、き、待って」

 まさぐるように触れる手がニットカーディガンのボタンを外し、さらにその下のセーターを引き上げ、カットソーの中まで忍び込んでくる。ほんの少し冷たいその手に素肌を撫でられると、ざわりと皮膚が粟立つ。

「んんっ、やっ」

 喘ぐ間もないほど口の中を撫でられて、頬が赤らみ涙が浮かぶ。いつも以上に興奮したような目をされると、拒むに拒めなくなってくる。そしてわけもわからないまま身体に熱を灯されて、肩を震わせるしかできない。
 肌を撫でていた手が衣服をたくし上げ、胸の尖りをきつくつまんだ。その刺激に弱い蒼二は唇をわななかせながら快感にうち震える。さらに膝で足を割られて、中心をこすり上げられれば、足が震えてしまうほどに力が抜けた。

「こ、うき、待って、おね、がい」

 唇が離されるとねっとりと銀の糸を引く。けれどそれを拭う余裕がないほどいまの蒼二の身体は頼りない。身体を壁にもたれて立っているのがやっとの状態だ。
 目尻を赤く染め、息を乱し、潤んだ弱々しい目で紘希を見つめる。手を伸ばしたくても、壁に付いた手で身体を支えるのがやっとで、身動きが取れない。そんな蒼二の姿を紘希は目を細めて見下ろしていた。

「紘希?」

 掠れた小さな声で名前を呼べば、すっと伸ばされた手に顎を掬われる。そして包み込むように頬を撫で、指先で上を向かされた。

「怒って、るの?」

 言葉を返してくれない紘希に不安が募る。まっすぐと見下ろされて、必死にその瞳を見つめ返した。じわりと蒼二の目に涙が溜まると、やんわりと唇を塞がれる。その口づけには先ほどまでの荒さはなく、ついばむように唇を食まれて口先で小さなリップ音が響く。優しく舌を撫でられ、上擦った甘い声が漏れた。

「ごめん、他人に振り回されてる自分と、あなたを他人に触れさせた自分に腹が立っているだけなんだ」

 離れた唇を視線で追うと、意識を引き戻すかのように額を合わせられる。数センチ先に迫った瞳を見つめて、蒼二はほっと息をついた。いつもの優しい色を感じる瞳、それにひどく安堵する。

「ごめんね、蒼二さん。ひどいことしちゃって」

「いいよ。ちょっとびっくりしたけど。紘希なら、平気」

「そんなことばかり言うと、もっとひどいことするよ」

「え?」

「嘘、しないよそんなこと」

 目を瞬かせた蒼二にふっと笑みをこぼすと、紘希は腕を伸ばして目の前の身体を抱き寄せた。そして先ほどまでのことを詫びるように頬をすり合わせてくる。そのぬくもりに応えるように、蒼二もゆっくりと腕を持ち上げた。

「幹斗のことは、気に病まなくていいから」

「……うん。なんだか幹斗くんは紘希もそうだけど、昭矢さんにもべったりなんだね。幼馴染みだから仲がいいのかな?」

「いや、あいつは勘違いしてるんだ。それに気がついていない」

「勘違い? よくわからないけど、幹斗くんのことは紘希のほうがよくわかってるだろうし、俺は口出さないよ」

「ごめん、早く片はつけるから」

 ぎゅっと身体を強く抱きしめられて、蒼二は肩口に頬を寄せた。なにか心当たりがありそうな紘希の言葉を信じるしかきっと答えは見つからない。深く考えるのはやめて、ただ紘希の傍にいることだけを蒼二は考える。いきなり紘希をほかの誰かに横取りされることなんか、ないのだと言い聞かせた。

「ねぇ、紘希。ご飯の前にお風呂って思ってたんだけど。俺、これじゃあ行けそうにないから、内風呂を使っていい?」

「あっ、ご、ごめん。考えなしだった」

 紘希の腕の中でもぞりと顔を上げた蒼二は、小さく首を傾けて先ほど噛みつかれた場所を示す。思いきり噛みつかれたので、鎖骨の辺りが赤くなり歯形が付いていた。襟のある服を着ればわからないが、浴場で裸になれば嫌でも目立つくらいはっきりしている。
 それを改めて目に留めると、紘希は焦ったように声を上擦らせた。

「内風呂のある部屋にしてもらって助かったね」

「う、うん」

「紘希はどうする?」

「あ、内風呂そんなに広くなかったし、蒼二さん一人でゆっくり入りなよ。俺は大浴場のほうに行ってくる」

「そっか、わかった」

 困ったように歯形を見つめる紘希に口元を緩めて、蒼二はひどく幸せそうに笑った。まっすぐに感情を向けてくれる、それがひどく嬉しかったのだ。いままで溜まっていたモヤモヤとしたものが、溶けてなくなっていくような感覚だった。

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