元には戻らない
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 微かな陽射し、それに気づいて礼斗がまぶたを開くと、またベランダで小鳥がさえずっている。そっと寝返りを打って確かめれば、隣で眠る直輝がいた。

 あのあと、起こしてはくれなかったのかと、ひどく残念な気持ちが心の内に湧く。前回と同じシチュエーション。
 なに一つ過ちは起こらなかったようだ。

 その気があるなら、なにか進展があるのではと期待していた。だがそれも随分とおこがましい話だ。

「なにもアクションを起こしてないんだから、あるわけないな」

 じっと寝顔を見つめて、礼斗は小さく息をつく。他人任せ、成り行き任せで、なんとかなればなんて、いい加減極まれりだ。
 そんなふわふわした男、自分だったら願い下げだ。

「はあ、なにしてんだろう、俺」

 割れた器だって、つぎはぎはできたとしても、完璧に元には戻らない。やり直す――それは決して簡単なことではないだろう。

 そもそも寄りを戻す以前に、自分のキレやすさをなんとかしなければ、やはりどうにもならない。なぜこうも短気なのだろうと、自分自身に呆れる。
 思ったことをすぐ口にしてしまうところ、ひねくれて気持ちとは裏腹なことを言うところ。礼斗にとって絶望的なほどのマイナス点だ。

「やっぱり無理だ。絶対失敗する」

 身体を起こして、礼斗は両膝を抱える。膝に額を擦りつけると、小さな唸り声がついて出た。
 仕事だと思えば多少のことは我慢できるが、私生活となるとどうしても折り合いをつけられない。

「直輝以外とだってうまく行かなかったし」

 昔からそうだった。それなりの人付き合いはできるのに、いざ交際を始めるとボロが出る。最初のうちは素直じゃないのも可愛い、と言っていた相手も最後には逃げるように去って行く。
 直輝と付き合った一年が最長記録だ。これはもう、人として欠陥品なのかもしれない。

「六年、か。こいつにだって相手はいたよな。気が利くし、優しいし、なんでもできるし。顔だっていいし」

 当たり前のことを考えただけなのに、礼斗の胸はひどく苦しくなった。未練が少し残っていた、どころではない。
 どう考えても未練たらたらだ。それに気づけば、どうしようもない気持ちになる。

 嫌いで別れたわけではない。そんな言い訳が浮かぶと、途端に元に戻りたい、という気持ちで埋め尽くされる。

「馬鹿だ、俺は」

 なにもしないのは、直輝はもうほかの誰かのものだから――キスをしたのは魔が差したから。
 そうした考えがしっくりときて、礼斗はいまにも泣き出したくなった。

 顔を合わせて、また喧嘩になるくらいなら、このまま黙って帰ろう。しかしベッドを降りようと両手をついたら、スプリングが小さく軋んだ。

「起きたの? 今日は休みだよ。もうちょっと寝たら?」

「え?」

 とっさに礼斗が振り向けば、寝ぼけ眼の直輝が手を伸ばしてくる。そして腕を掴まれ、引き寄せられて、ベッドに戻された。

 そのまま腕の中に閉じ込められると、突然のことに身じろぎすらできない。それなのに直輝はさらに腕の力を込めて、礼斗を抱き込んだ。

「な、直輝?」

 顔を上げてみれば、まだ彼はウトウトと眠りの狭間をさ迷っているように見えた。付き合っていたあの頃の夢でも、見ているのだろうか。

 体温が感じられるほどの距離。おずおずと礼斗が胸元に頬を寄せれば、緩やかな心音が聞こえてくる。
 その音に自然と礼斗の口が綻ぶ。

「忘れていたなんて、嘘だな。忘れた気になってただけだ。あんたと比べてばかりいるから、いままでの恋愛がまったく長続きしなかったんだ」

 ひと月と少し前、直輝と再会した瞬間、当時の様々な記憶が頭の中を駆け巡った。名前を呼ばれた時は、込み上がる感情で震えそうになった。

 苦い記憶を思い出して、腹立たしいと思った――のは勘違いだ。意固地で素直ではない礼斗の、裏返しの感情。

「たぶん驚いたから、嬉しいって感情がすっ飛んだ。……直輝」

「ん、アヤ?」

 寝顔に顔を寄せようとしたところで、直輝が目を瞬かせる。意識がはっきりしてきたのか、寝ぼけた顔が徐々に覚醒すると、勢いよく身を引かれた。
 突き放された礼斗は、驚きのあまりぽかんと口を開く。

「ごめん、ちょっと寝ぼけてて」

「……抱き枕にされて、こっちは、いい迷惑だ。誰かと間違えたか?」

「え?」

「まあ、誰でも俺には関係ないけど。一晩、世話になったな」

 驚いた顔をして見つめてくる直輝に、礼斗はひどく気まずい気持ちになる。精一杯、眉間に力を入れているけれど、気を抜いたら盛大なため息を吐き出しそうだった。

 それは直輝に失望したのではなく、自分自身に失望してのこと。
 口を開けば、ひねくれたことしか言えず、先ほどまでの素直さはどこへ行ったのかと呆れる。

「帰るの?」

「風呂に入りたいし、腹も減ったし」

「風呂は貸すよ。休みだし、一緒にご飯でも食べに行こうよ」

 ベッドから降りようとした礼斗の手が、後ろへ引かれる。
 触れた手の感触にドキドキとするものの、口を開いたらまたいらぬことを口走りそうで、きゅっと唇を噛んだ。

「湯船、溜めようか?」

「シャ、シャワーで、いい」

「わかった。じゃあ、着替え用意しておく。風呂場は手前の扉」

「ああ」

 するりと離れていく体温に、心許なくなったけれど、礼斗は振り向かずにベッドから降りる。さらに足を踏み出して、立ち止まりたい気持ちを抑えた。
 いま足を止めたら、また泥沼にはまる。

 最後にはいるのか、いないのかもわからない、彼の恋人に嫉妬してしまうだろう。
 足早にバスルームへ向かい、今度は扉の向こうへ飛び込んで、勢いよくそれを閉める。一人きりの空間になると、叫び出したい衝動に駆られた。

「くっそ、馬鹿。なんであそこで、どうでもいいみたいな台詞を言うんだよ」

 扉に背を預け、礼斗はずるずるとしゃがみ込んだ。両手で顔を覆った途端に、胸に溜まっていた息が一気に吐き出される。

「俺は悪態しかつけないのか」

 ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して、言葉にならない声をかみ殺す。

「自分がこんなに、腹立たしいって思ったのは初めてだ」

 しばらくうずくまったまま、立ち上がることができなかった。だがふいに顔を上げた礼斗は、洗面所に視線を巡らす。
 整頓されたタオル。洗面台には一人分の歯ブラシと、ひげ剃り。無意識に誰かの痕跡がないかを探してしまい、さらに自己嫌悪に陥った。

 そんなものは、礼斗が寝ているあいだにいくらでも隠せる。そもそも元恋人だからと言って、隠す必要もない。
 この場所になにがあったとしても、自分はもう、直輝を責められる立場ではないのだ。

「アヤ、大丈夫? 具合、悪くなった?」

 ぐるぐると余計な思考が空回る中で、控えめなノックの音が響く。礼斗は我に返ると、とっさに立ち上がって扉から離れた。

「大丈夫だ! 二日酔いになるほどやわじゃない!」

「そっか、ごめん。ゆっくり入って」

 きっと扉の向こうで、苦笑いを浮かべている。容易く想像できてしまい、泣きたい気分になった。
 手早く衣服を脱ぎ捨てると、急いでシャワーのレバーに手をかける。

 冷たい水が降り注ぎ、一気に礼斗の頭を冷やしていく。徐々に温かさを感じ始めると、もどかしい感情が溢れ出しそうになった。

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