鬼の霍乱
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 すぐにと部長が言っていた通り、新しい社員がやって来たのは、あれから一ヶ月もしないうちだった。

 直輝は引き継ぎをするために、しばらく残ることになったが、そのあとはいったん元の会社へ戻る。しかし本人の口から、その後の詳しい話はいまだ聞かされていない。

「主任、これはどうします?」

「ああ、それは任せる」

「え?」

「あのー、こっちはぁ」

「それは相談して決めてくれ」

「ええ?」

 毎朝行われるミーティングの場で、礼斗は資料に視線を落としながら、上の空で返事をする。その様子に部下たちは顔を見合わせ、あたふたと話し合いを始めた。
 普段であれば一から十まで、礼斗が仕切っていたので、皆こういう展開に慣れていない。

 しかしいらぬことを悶々と考えているせいで、最近の礼斗はまったく仕事に身が入らなくなっていた。さすがに他部署や取引先に迷惑をかけることはないけれど、仕事に前向きだった頃の面影が霞むほどだ。

 集中力を欠いているのが一目でわかる。日に日にやつれているので、周りは仕事よりも身体の心配をしているようだ。
 おかげで近頃は、鬼の角がぽっきり折れたと社内では噂になっている。公私混同している自分が堪らなく嫌になるが、礼斗の中で不安ばかりが膨れ上がっていた。

 直輝は覇気のなくなった礼斗のことを、心底心配して労ってくれる。毎朝毎晩、必ず抱きしめてくれて、何度も好きだと言ってくれた。
 その優しさはなに一つ変わっていない。けれど考えていることが、さっぱりわからなかった。

 言い忘れていることはないか? ――そう何度も問いかけてみたものの、なにもないと返されれば、それ以上話を聞くこともできない。
 直前になって別れを切り出されるのだろうか。そんなことを思うと、恐れと不安で気がおかしくなりそうだった。

「すまない。続きは、小山、頼む」

「はい」

「アヤ? 大丈夫?」

 ミーティングの途中で、礼斗は席を立つ。皆ひどく心配げな顔をしているが、それに応えるだけの余裕がない。
 直輝の呼びかけも聞こえたが、返事をせずに会議室を出た。

 そのままフロアを抜けると、ひと気のない場所を求めて、廊下の先にある非常階段に向かう。

「はあ、きつ」

 一緒の空間にいるだけで、息苦しいなんて、恋人としてどうなのかと思う。こんなに自分は繊細だっただろうかと、呆れもする。

 階段の縁に腰かけて、礼斗は力なく俯いた。けれどふいにひんやりとした風が吹いて、その心地良さに目を細める。
 彼がここへやって来たのは、梅雨の終わり頃。それからもう、三ヶ月が過ぎた。季節も夏から秋に、移り変わろうとしている。

「季節と一緒に、気持ちも移ろうのか。……馬鹿馬鹿しい。それならまた、こっちから振ってやる」

 微塵もそんなことを思っていないのに、強がりが口から出る。しかし会社を去る時までに、なにも言わなかったら、別れの選択を選ばざるを得ない。
 本音を言い合える関係がいいと、言っていたのに、肝心なことを言わない直輝が悪い。とはいえ深く問いたださない自分も、悪いことはわかっている。

「肝心の場面で聞くのが怖いなんて、俺はちっとも成長してない。畜生、腹立つな。大体、直輝も直輝だ。生活環境が変わるようなことだろ。なんで言わないんだよ」

 舌打ちして顔をしかめると、胃がぎゅっと鷲掴まれたように痛む。じくじくとした痛みに、冷や汗が浮かびこめかみを伝い落ちる。
 黙って座っていることも辛くなり、礼斗は壁にもたれて目を閉じた。

「こんなことでストレスとか、ふざけんな」

 悪態をつきながらやり過ごそうとするものの、痛みはどんどんと増すばかりだ。次第に頭が朦朧としてきて、冷や汗が止まらなくなる。
 うずくまるように背を丸めると、礼斗は思いきり壁を殴った。

「くそっ、くそっ、あんな、やつ……絶対振ってやる」

 ずるずると身体が沈み込んでいくけれど、床に倒れ込む前に、その身体を支えられた。

「アヤ! 大丈夫? 心配で見に来て良かった。顔、真っ青だよ」

「直輝」

 焦りを湧かせた表情で覗き込んでくる、彼の顔のほうがよほど真っ青だ。あたふたとしながら礼斗の頬をさすり、汗ばんだ前髪を梳く。

 これはまだ自分のことを好きでいてくれるから、心配をしてくれるのか。それとも単なる人としての優しさなのか。
 なにもかもを疑ってしまう、この感情が嫌になる。前者だと信じたいのに、礼斗の中にはマイナスの感情しか浮かばない。

「立てる? 医務室に行こう」

「あんたなんか、嫌いだ」

「え?」

 直輝に抱き寄せられて嬉しかった、その思いとは裏腹に、礼斗の口は相変わらず天の邪鬼で心に逆らう。それでも伸ばした手でしがみつくように、彼のシャツを掴んだ。

 意識が完全に落ちたあと、礼斗は夢を見た。いつものように口論をして、ぶつかり合う二人。周りの諫める声など届かないくらい、激しく言い合いをした。

 そして最後に、直輝が礼斗に言い放つ。

 ――もうアヤには付き合えないよ。

 冷ややかな目で見下ろされて、心臓が凍り付きそうになった。あの時、いきなりこんなことを言われた直輝は、同じように感じたのだろうか。
 追いすがって、泣きたくなった。しかし足が一歩も、踏み出せなかった。

「直輝!」

 自分の声で礼斗は目が覚める。空中に伸ばされた手が視界に映って、汗をどっと掻く。心音がやけに早く、その音に焦りが増した。

 とっさに身体を起こして辺りを見回すと、そこは最近随分と見慣れた部屋――直輝の家だった。
 毛布を引き寄せて抱きしめれば、彼の匂いがする。柔らかい香りにほっと息をついた。

「……いっ、痛」

 身体が覚醒したせいか、急に痛みがぶり返す。さし込むような痛みに、礼斗はぎゅっと胃の辺りを掴んだ。

「アヤ? 起きたの?」

 しばらくそのままうずくまっていると、玄関のほうから物音が響く。近づいてくる気配と、心配げな声。顔を上げようと思うが、身体が動かない。

「まだ横になってな、少し熱がある。勝手に着替えさせてごめんね。かなり汗、掻いてたから。胃が痛いのいつから我慢してたの? 先生も言ってたけど、病院で検査を受けたほうがいいよ」

 傍まで来て優しく背中を撫でる手に、じわりと胸が熱くなる。ゆるりと顔を上げれば、まっすぐな視線と目が合った。

「なんで、ここに」

 医務室へ行ったあとに早退をして、呼んだタクシーに乗り込んだところまでは覚えていた。そのあとの記憶が定かではないので、直輝が送ってくれたのだろう。
 だとしてもなぜ彼の部屋に? 行き先は自宅を告げたつもりだった。

「あー、うん。礼斗の家に送るつもりだったけど、こっちのほうが近いし、色々と話したいことがあって」

「話したいことって? 別れ話、とか?」

「え?」

「図星か?」

 ひどく驚いたように肩を跳ね上げた、直輝の反応に無意識にため息がこぼれる。ふいと礼斗が顔をそらせば、今度は言葉を詰まらせた。
 いまも昔も結局、この男のことがよくわからないままだ。肝心な時に、大事なことを言葉にしない。自嘲気味な笑みが浮かび、やりきれない気持ちになる。

「別れたいなら、はっきり言えばいいだろう。先延ばしにするくらいなら、きっぱり言われたほうがマシだ。あんたの将来の重荷になるって言うなら、執着したりしない」

「ちょ、ちょっと待って! アヤ、なにか誤解してる」

「なにが誤解だよ! 俺が何度聞いたって答えなかったくせに。なにも言わないのに、わかってもらおうなんて思うな!」

 どの口がそんなことを言うのだ。明確な言葉で問いかけなかった自分も悪い。自分で言いながら自分に返ってくる、盛大なブーメランだ。
 それでもいまは、言わずにはいられなかった。

「あんたの優しさは残酷だ。甘やかすだけ甘やかして、すぐに手を離す。俺がどんな気持ちでいるか、考えてないんだろう」

「アヤ」

「なにかあるなら言えよ。なんで俺を後回しにするんだよ」

「ごめん、アヤ。そんなつもりじゃなかったんだ」

「あんたに振り回されてばかりだ」

 好きだ好きだという癖に、一瞬で手を離される。
 我がままを全部受け止めろ、それが傲慢であるとわかっていても、自分の不器用さを知っているのなら、心にあるものを隠さずにいて欲しかった。

 込み上がる感情で視界が潤む。唇を噛みしめれば、ぽつりと悔しさがこぼれ落ちた。

「俺にこれ以上なにを求めてるんだよ。どうすれば良かったんだよ。いまも昔も、俺の中にはあんたしか、……いないのに。傍にいるって言ったのは嘘かよ!」

 こんなことで泣く自分が腹立たしい。泣きたくなんてないのに、ボロボロとこぼれ落ちるものが止まらなくなる。
 あの日、別れた時でさえ、礼斗はこんなに泣きはしなかった。

「アヤ、ずっと言えなくてごめん」

 こぼれ落ちるものを、拭う手は優しくて温かい。答えを求めるように見つめると、引き寄せられて唇が重なった。
 やんわりと口づけられて、あっという間に心に熱が灯る。どんな悪態をついても、やはり彼が好きだと思わずにいられない。

 礼斗が直輝に執着するのは、ありのままの自分を受け止めてくれるからだ。どんなにひねくれたことを言っても、我がままを言っても、最後にはすべて腕の中に閉じ込めてくれる。
 すがるように両手を伸ばせば、きつく抱き寄せられた。

「傍にいるって言ったのは嘘じゃないよ」

「じゃあ、なんでなにも言ってくれなかったんだよ」

「ちゃんと形になるまで、言えなくて。でも不安にさせるくらいなら、もっと早く言えば良かった。ごめん、俺の配慮が足りなかった」

「形?」

「そう、仲間内で会社を作ることにしたんだよ。けどほら、うまく行かなかったら格好悪いだろ? だから本格的に動くまで、と思ってて」

「栄転する、って……そういうこと?」

「ん? 栄転? そんな話になってたんだ」

 礼斗の頬を撫でながら、直輝は首をひねる。そしてしばらく小さく唸ると、急に身体を押し倒してきた。
 勢いのままベッドに埋まり、礼斗は目を瞬かせる。

「すごく不謹慎なこと言っていい?」

「なんだよ」

「アヤが俺のこと思って、胸を痛めて泣いてくれたことが、すごく嬉しい。アヤの中は、本当に俺だけなんだって思ったら、ごめん、顔がにやける」

「……ふ、不謹慎極まりねぇ! 馬鹿にすんな!」

「身体を壊しちゃうくらい不安にさせておいて、浮かれててごめん。反省はしてる。でも嬉しいよ。ねぇ、もっとここ、俺だけにして」

 とんとんと胸を指先で叩かれて、火をつけられたように顔が熱くなる。するりと伸びてきた手に、両腕を縫い止められれば、胸の音がひどく早くなった。

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