チョコより甘いもの01
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 朝が目が覚めて、いつもと変わらぬ調子で台所に立つ背中に声をかけた。するとそいつも、いつもと変わらない様子で振り返って、「おはようございます」と笑みを浮かべる。
 別段なにかが違うような雰囲気は、微塵もなかったのに、朝食を食べ終えていざ仕事へ向かおうと立ち上がったら、満面の笑みで弁当袋を差し出された。

「なにこれ」

「なにって、お弁当です」

「なんで?」

 普段はコンビニ飯か社食で済ませている。弁当なんて手間がかかるものは、作らなくていいと言ってあるはずだ。しかし俺の問いかけに、目の前の男はなにやらニヤニヤとしていた。
 普段からふやけた顔をしているが、いまはその三倍くらい腑抜けた面をしている。その笑みが怪しくて、思わず弁当をダイニングテーブルの上に広げてしまった。
 ご飯はのり弁。唐揚げに、ブロッコリーにプチトマト。それに卵、焼きと、ハンバーグ。

「お前、こういうことするならいらねぇ!」

 キッと怒りを込めて睨み上げた俺に、へらりとした笑みが返される。その顔はまったく悪びれたところがない。こんな弁当を誰かに見られたら、絶対からかわれる。ハート型に組み合わせた卵焼きに、ハート型のハンバーグ。ご丁寧に載せてあるチーズまでハート型だ。

「ハッピーバレンタイン、だよ、水地先輩」

「バレンタイン?」

「日頃の愛を込めて」

「あんなのは女子供が騒ぐイベントだ」

「なに言ってんですか、愛する人に愛を伝える日ですよ」

 目をぱちくりさせた男は身を屈めると、ムッと顔をしかめる俺の眉間に唇を寄せる。そして調子に乗って口元にまで触れてきた。俺はすかさず目前に近づいた顔を両手で押し離す。

「先輩からなにがもらえるか楽しみだなぁ」

「なんで俺が!」

「せめて日頃の感謝を込めてくださいよ」

「うっ、それは」

 一緒に暮らし初めて十ヶ月くらい。掃除洗濯、朝晩の食事、すべてこの男がまかなっている。基本俺はずぼらで、洗濯は着るものがなくなったら、掃除はほこりがたまったら。飯はコンビニ惣菜。見るに見かねたこいつが一緒に暮らしましょうと言い出した。

 ぞんざいな扱いをしてはいるが、この男と付き合ってもうすぐで一年になる。

「そうだ、あれでいいですよ。先輩にリボン結んで」

「冗談じゃない! ふざけるな!」

「えー、じゃあ、普通にチョコレートでいいです。俺のために買ってきてください」

「コンビニチョコでいいな」

「んー、せめて包装されたやつにしてくださいね。大譲歩です」

 少しつまらなそうな顔をする男に、俺の顔はますますしかめっ面になる。なんでこの俺が、チョコなんぞ買わなければならないんだ。けれどそう思うものの、日頃の感謝をしろと言われると、唸らずにはいられない。

 結局、弁当は捨てるわけにも行かないので、渋々会社に持っていった。自分のデスクで食べれば、覗きに来るやつもいないだろうと、諦めることにしたのだ。
 それでもなんで今日は弁当なのだと、突っ込まれはした。答えるのが面倒なので、曖昧な笑いだけを返したけれど。

「水地主任、島沢商事の鴻上さんがいらっしゃいました」

「……ああ、いま行く」

 ため息を吐きながらパソコンを叩いていたら、ふいに事務の子から内線がかかってきた。電話口から聞こえた名前に少しうんざりした気持ちになってしまう。
 いまこのタイミングで会いたくなかったな。

 なんで今日この時間に約束したんだったっけ。ああ、そういや向こうから、時間指定してきたんだった。心の中でぶつくさ言いながら応接室に向かう。

「あ、水地先輩。お昼おいしかったですか?」

 部屋の扉を開いた途端、俺の顔を見た男がにんまりと笑みを浮かべた。至極見覚えのあるその顔は、取引先の営業、兼同居人の鴻上理一。
 この男が俺を先輩と呼ぶのは、会社の先輩後輩ではなく、高校時代の先輩後輩だから。再会をしたのは三年前。この男が新人営業として会社にやって来た時だ。

「飯は普通にうまかったよ」

「不服そうですね」

「大いに不服だっつーの」

「おいしいならいいじゃないですか。あ、はいこれ。渡し忘れていたチョコブラウニー。おやつにしてください」

 鞄を漁った鴻上は、小さなラッピングボックスに入ったものを、テーブルに滑らせてくる。見るからにバレンタイン仕様のそれに、顔がひきつった。

「こんなものをデスクに持ち帰る俺の身にもなれ」

「まあまあ、そんなに気にしないですよ。今日はバレンタインですよ」

「なんで担当営業に、男にバレンタインもらうんだよ」

 それでなくとも、よそ行きのこいつは普段のふやけた顔が鳴りを潜めて、無駄にキリッとした顔つきになる。普段が残念なだけで元はいいのだ。まさしく爽やかな好青年。うちの女子社員でも騒ぐものが多い。
 そんな男にバレンタインを、オープンに渡される俺の心中を察しろ。

「え、ちょっと牽制しておきたい」

「はぁっ? めんどくせぇことすんな馬鹿」

「だって先輩モテるし。今日はチョコ何個もらいました?」

「俺は毎年受け取らないんだよ」

「え、じゃあ、俺からだけ?」

 急に花が咲いたみたいな笑みを浮かべる、鴻上にまた俺の眉間にしわが寄る。目の前で、デレデレとした顔で笑っている男を無視して、ラッピングボックスを突き返した。

「受け取らない」

「えー! 受け取ってくださいよ。せっかく作ったのに」

「……持って帰れ、家で食う」

「え?」

 ぼそりと呟いた俺の言葉に、鴻上はきょとんとした顔をする。そしてしばらくして言葉を飲み込むと、なぜだか耳まで紅潮させた。訝しむ目を向ければ、両手で顔を覆って俯く。

「やばい、水地先輩が可愛い」

「はっ?」

「先輩のそういうちょいちょい小出しにされるデレがたまらなくいいです」

「ば、馬鹿じゃねぇの。そんなことより、見積もりどうした。仕事しろ」

 なんで俺まで、変にドキドキしなくちゃならないんだ。ほんとこいつ面倒くさい。面倒くさくてたまらない。それでもひどく嬉しそうに、笑う顔を見てしまうとその先の文句が続かない。

 そもそもなんで俺は、こいつと付き合う気になったんだっけ。別に男が好きなわけでもなかったし、女が嫌いなわけでもなかった。
 選択肢は少なくもなかったはずなのに、どうしてこれなんだろう。

 確かに見た目もいいし、あれでいて仕事も出来るし、頼りになることもある。けれどその程度の人間はそこまで希少でもない。

 あいつが家事全般が得意だ、知ったのは暮らしてからだし、それまではちょっと料理が出来る男、くらいの認識でしかなかった。

「考えるだけくだらないか」

 今更考え直したところで、なにかが変わるわけでもない。これからもあいつは傍にいるのだろうし、俺もそれを甘受していくのだろう。

「あれ? 主任、今日は早く帰らなくていいんですか?」

「え?」

「彼女さん待ってるんじゃないんですか? バレンタインですよ」

「あ、ああ」

 そういやチョコを断る口実にしてたな。面倒くさいから、実際に相手がいてもいなくても、相手が嫌がるから受け取らないと言うことになっている。これが一番効果的で手っ取り早い口実なのだ。

 まあ、仕事のきりもいいので、今日は早々に退社することに決めた。残っていても周りが気を使いそうだしな。

「あ、そういやチョコ買ってこいって言ってたな」

 しかも包装されたチョコレートを買ってこいとか、なんの罰ゲームだよ。しかし買って帰らないと、駄々をこねてストライキされても困る。仕方なしに、百貨店のチョコレート売り場に、足を向けてみることにした。

 けれど街中もコンビニすらもバレンタイン一色だ。チョコレート売り場など女たちの戦場。当日の夜なのに予想以上に人がいる。
 俺みたいなのは、いるだけでも目立って仕方がない。そもそもバレンタイン用に、用意されたチョコレートを買おうというのが間違いなのだ。

「すみません、このレモンとオレンジのピールとガナッシュと」

 包装されていればいいのであれば、店頭で買えばいいだけのこと。混雑している中でそそくさと買い物を済ませると、女ばかりの波から抜け出した。
 それにしてもほんの少しの時間なのに、なんだかエネルギーを絞り摂られたような気分になる。なんでみんなこんなイベントに一喜一憂しているんだ。

「告白するきっかけか? でも本命はともかく、義理チョコとか意味がわからないよな。そういう風習って面倒くさい」

 社内でもチョコを配り歩く女子社員はいる。しかし義理なんてものは、送るほうも返すほうも、負担がかかるだけのような気がするのだが。
 まあ、俺の面倒くさがりなところから見ると、なんでも面倒くさく感じるのだろうけれど。

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