ベルベット・キャンディー01

水地咲良という人は本当にイベントごとに疎い。クリスマス、バレンタインデー、誕生日――色々あるけれど、どれも基本的にスルーする。
 いや、これは疎いというのには、語弊があるかもしれない。あれはきっとイベントごとが嫌いなのだ。

 彼の気持ちを一言で表すとしたら多分、「面倒くさい」が適切だろう。しかし見た目は男らしく誠実な印象を受ける。
 黙っていると穏やかそうに見えるし、第一印象と本来の性格にかなりギャップがある。

 掃除洗濯、面倒くさい。料理するのも面倒くさい。整理整頓、身繕いも相手に気を使うのも、仕事以外は面倒くさい。
 そのくせ神経質でこだわりが半端ない。ここまでくると人としてどうかと思うのだが、それでもたまらなく、惹かれてしまう性格の持ち主でもある。

 基本面倒くさいと思うだけで、本当にそれがいいとは思っていない。だからしっかりと言い含めれば大人しく従うし、人に気を使うのは嫌だという割りに相手の様子を窺っているところもある。
 根っこにある部分の性格は真面目で素直。それがひどく可愛いと思ってしまうのだ。

「水地先輩、今日は残業しないで帰ってきてくださいね」

「あ? なんかあんのか?」

「なんかって、今日はホワイトデーですよ。ご飯食べに行きましょう」

 鏡の前でネクタイを締めている恋人の背後に立つと、少し鬱陶しそうな顔をされた。顔にまたイベントか、って書いてある。そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいのに。

 こんなにイベントごとが嫌いで、いままでの恋人はどうしてきたんだろう。じっと鏡の中にある顔を覗いたら、男前な顔が歪んで眉間にシワが寄った。

「先輩、あんまりシワを寄せていると癖がついちゃいますよ」

「誰のせいでこんな顔に」

「んー、俺のせいみたいですね」

 正直言うと認めるのは不本意ではあるけれど、ここで言い訳しても機嫌がさらに悪くなるだけだ。
 それに朝から機嫌の悪いまま別れて、夜まで持ち越しされては敵わない。それではなんのために、三ヶ月前から店を押さえていたのかわからなくなる。

 まあ、本人には店を予約しただなんて言わないが。そんなことを言った日にはますますイベントなんか、と機嫌を損ねそうだ。

「水地先輩、行ってきますのキスは?」

「お前、まだそんな罰ゲームみたいなことやる気か」

「罰ゲームってひどくないですか? 恋人との大事なひと時ですよ」

「なんで朝っぱらから、こんなこと」

 いやいや文句を言うくせに、ちゃんとしてくれるんだから可愛いなぁ。耳を赤く染めながら、口先に触れたそれは、キスというにはあまりにもあっさりした触れ合い。
 ほんとちょっぴり触れただけの子供みたいなキス。

 しかしそこには彼の精一杯が見えるから、俺の口はニヤニヤと笑みを浮かべてしまう。そんな俺の顔を見て、先輩はむすっと膨れた顔をする。
 でもそんな顔も可愛いのだから、デレデレしてしまうのは仕方ないと思う。

「鴻上、今日は行くところ決めてあるんだろう?」

「え?」

「お前が計画性のないことするとは考えにくい。どこに行けば早いんだ?」

「んふふ、俺のことよく見てますね。じゃあ、今日は俺の会社の最寄り駅で待ち合わせしましょう。駅から離れた場所にあるんでタクシー拾って行くつもりでいました」

「わかった」

 向こうから聞いてくるなんて、想定していなかったな。けれど前よりも俺のことを見ていてくれている、ってことなのかな。
 以前は随分と、素っ気ないところがあったけれど、性格が円くなってきたのかもしれない。

 俺と一緒にいて、感化されてきたのならいいのだけれど。先輩に言わせると、脳天気で締まりがないと称されるが、水地先輩が堅物すぎるから丁度いいと思う。

「咲良さん、も一回キス」

「は? なっ……んっ」

 聞くだけ聞くと、用件は済んだとばかりに、鞄を持って仕事へ行こうとするから、思わず悪戯心が発揮されてしまった。歩き出した彼の腕を掴んで無理やり引き寄せて、文句を呟こうとする口を塞いだ。

 先ほどみたいなバードキスじゃなくて、たっぷりと唇を食んだ、ちょっとだけ深いキス。薄い唇は、食べ心地はそんなにいいわけじゃないけれど、時折漏れてくる上擦った声が甘くてたまらない。

「ご馳走さま」

「朝っぱらからなにしやがる!」

「スキンシップです」

「馬鹿じゃねぇの! もう行くからな」

「はーい、いってらっしゃい」

 怒ってはいるけど、本気で嫌がっていないのがわかるから、ますます愛おしくなる。

 なんだかんだで、俺に甘いところがあるよな。初めて出会った頃なんて、まったく話したこともなかったし、俺のこと眼中にないって感じだったのに。

 俺が水地先輩と初めて出会ったのは高校一年の春。
 三年生だった彼に会って、いつの間にか恋に落ちて、だけどそれに気づいた時にはもう卒業してしまっていた。

 そのまま七年が過ぎて、もう当時の恋心なんて忘れかけていた頃に、また出会った。

 いまの会社に入社して、数ある営業先の中で彼のいる会社の担当になり、自分の担当が彼になった。
 それは運命的な出会いなんじゃないだろうかと、そう思ってしまうほどの偶然だった。しかしそれよりも一番驚いたことは、彼が俺のことを覚えていたと言うことだ。

 高校時代は接点なんてほとんどなかった。さらになにごともないままに、七年が過ぎているのだ。
 それなのに水地先輩は、俺の名前を聞いて弾かれるように顔を上げた。そして俺の顔をまじまじと見つめて俺の名前を呼んだ。

「鴻上理一」

 あの時の感動はいまでも忘れない。どうして彼が覚えていたか、それはいまも理由を確かめていないけれど。あの面倒臭がりで、他人にさほど興味がない水地先輩の記憶に、残っていたことが嬉しくて仕方がなかった。

「おーい、鴻上?」

「え? あ、はい。山下さん、なんですか」

「なんだ今日はぼんやりしてるな。この資料をまとめておいてくれないか」

「あー、すみません。今夜のデートが楽しみすぎて。わかりました。何時までに何部必要ですか」

「十五時までに二十部ほど頼む。それにしてもこんなイケメンを心あらずにするなんて、お前の彼女は愛されてんな。だけど仕事も忘れんなよ」

 ぼんやりしていたから、完全に仕事の手が止まっていた。明らかに集中力を欠いている自分を見かねたのだろう。営業の先輩である山下が心配そうな顔をして俺の顔を覗き込んでいる。

 その顔に笑みを浮かべて返すと、肩をすくめて笑われた。しかし手渡された書類に視線を落とせば、俺の肩を叩いて山下は自分の仕事へ戻って行く。
 その後ろ姿を横目に見てから俺はデスクの時計に目を向けた。

 この書類が十五時ということは、彼は直行直帰なのだろう。甘えたな彼女がいると言っていたから、彼もまたホワイトデーのお返しデートなのは、間違いない。

「早く終わらせてあげるか」

 入社当時からずっとお世話になっているが、一見チャラそうに見える割りに気配りの達人で、その気遣いに何度助けられたかわからない。たまに恩返しをするのもいいだろう。

 スキルが高すぎて、彼に追いつける気がしないので、これからもお世話になりっぱなしなのは目に見えている。俺が半分仕事をこなすあいだに、軽く一つ二つ終わらせてしまうくらいだ。

「よし、やるか」

 しかし気合いを入れてパソコンに向かった瞬間に、内ポケットに入れていた携帯電話が震えた。社用ではなく私用のものだったので、なんとなく嫌な予感がする。
 恐る恐る取り出すと着信を確認した。

 メッセージの送信者は水地先輩。まさか残業が入って行けなくなったとか、言わないよな。ますます嫌な予感が広がる中で、祈るようにメッセージを開く。

 ――残業で一時間遅れる。間に合うか?

 そこにあるのは問いかけの文字。どうやら断りの連絡ではないようだ。それを確認すると大きく深呼吸をしてしまう。
 以前だったら間違いなく面倒くさいから断ってしまえと思われているところだ。

 成長してる。先輩も人としてかなり成長している気がするぞ。もしかして俺に対する愛情が増したのかな。そ
 うだったら嬉しいが、本人に聞いたら間違いなく馬鹿じゃねぇのって、言われる。

「一時間は想定内だ。それ以上になったら店に相談しないといけないところだった。……問題ありません。大丈夫ですよ、と」

 返信をするとすぐに既読がついて、「わかった。なるべく急ぐ」と短い言葉が返ってきた。でもこれもちょっと成長が見られる返信だ。
 前だったら「わかった」だけで終わってる。

 こういう些細な変化に気がつくと、案外自分は愛されてるんじゃないかって思えて嬉しい。
 ただあまり言葉に出して、好きだとか愛してるだとか言わない人だから、態度や言葉の端々から感じるしかないのが、たまにキズだ。

「一段落したら店に連絡しておこう」

 とりあえずいまは、目の前の仕事を片付けてしまおう。あんまり浮かれてなにか失敗しても困るので、仕事に集中しないと。