次候*霞始靆(かすみはじめてたなびく)

 暁治が引っ越した古狐野町は山間にある田舎町ではあるが、よくテレビで見かけるような過疎地ではない。近隣は家がそれなりに点在しており、単身者のアパートやマンションなども多くある。
 町と町を繋ぐ電車は一時間に数本。時間帯によっては一本程度しか走っていないけれど、それほど外へ出ることがないので不便ではない。

 住民の基本的な移動は車で、町中はバスが十五分に一本の割合で巡回していてわりと便利だ。しかしこれも時間帯によっては三十分に一本となるから、そこは田舎だと言わざるを得ない。
 とは言え人の溢れた都会とは違う穏やかな世界にはこの上ない癒やしがある。雀がチュンチュンと飛び交うのどかな景色に気持ちも和んでくる。

 しかしおじいちゃん子であった暁治は子供の頃によくここへ遊びに来たものだが、あの頃といま、見える景色は少し違っているようだ。
 さほど町は変わっていないだろうに歩く町並みは新鮮さを感じる。家から徒歩十分ほどの場所に神社があり、石段の先には稲荷の狐が二匹座していた。

「そう言えば家に神棚が二つあったな。下座のあれは稲荷さまか」

 よくわからずに手を合わせていたことに少しばかり恥ずかしくなる。あの家を継いだからには、祖父がいた頃のように神様がいらしてくださるよう努めなければと思う。

 稲荷神社で賽銭を投げ入れ、これからはしっかりと祀らせていただきますと両手を合わせる。それほど暁治は信心深いというわけではないが、古き良きしきたりを重んじる祖父をとても尊敬していた。
 あの人の周りには人でないものもこっそりと会いに来ていたのではないかと思わせる不可思議な空気があった。それとともに先日の夜のことを思い出すと、あれは本当に夢だったのだろうかと考える。

 薄ぼんやりとした記憶に残るふんわりとした尾と烏羽色の翼。

 しかしいやいやと首を振る。いくら古い町だからと言って、そんな非現実な出来事があるわけがない、そう暁治は独りごちる。超現象の類いはないとは言い切れないが、やはり目で見たものしか信用ができない。
 頭が固いとよく言われるが、見て触れて感じたものしか信じられないのだ。

「あ、やばい。バスに乗り遅れる」

 そそくさと一礼して石段を駆け下りると数メートル先のバス停へと急ぐ。田舎のバスはのんびりかと思いきや定刻にピタリとやって来て、危うく置いて行かれるところだった。

 中心部までバスで三十分ほど。これから暁治が勤める高校もその途中にある。今日は面談、と言う名の顔合わせだ。ほぼ雇用は決まったも同然なのでご挨拶と言ったところ。
 二月と言うこともあり生徒も登校している。見学という気分でいいかと考えながら窓の外をぼんやりと眺める。町の向こうの山は霞がたなびき白く掠れていた。それは春が近づき乾燥した空気が潤むことで起きる現象だ。

「春、春か。早くもう少し暖かくなるといいな。でも日だまりはぬくそうだ」

 道路脇の塀で猫が気持ち良さそうに昼寝をしているのが見えた。自分も縁側でのんびり微睡みたいと、込み上がってきたあくびを噛みしめる。

「この町は意外と栄えているほうなのか」

 小さな町ではあるがここは年寄りだけの町ではないようだ。意外と年若い人たちも多く見かける。独りになりたいとこの町にやって来たが、寂れた場所で暮らしたいわけではない暁治には丁度いいくらいなのかもしれない。

「大黒山高校前」

「あっ、下ります下ります!」

 ぼうっとしていたら目的地に着いたことに気づかなかった。慌てて立ち上がると暁治はバス内の視線を浴びながらICカードで清算する。こういうところは最新で良かったと、財布の中身をぶちまけずに済みほっと息をつく。

「わりと大きい学校なんだな」

 もっとこぢんまりしたイメージを持っていたが、四階建ての校舎に広い校庭があるそこはなかなか立派だ。創立八十年と言っていたが、外壁も新しくしたばかりなのか真新しさを感じる。

「こんにちはー!」

「はーい」

 職員玄関で窓口を覗くと奥からふくよかな女性がやってきた。そして暁治の顔を見るなり「まあ、男前!」と明るい声を上げる。けれどすぐに用件に気づいたのかどうぞどうぞと中へ通された。
 スリッパを履いて職員室に回ると応接間に通されて、急に緊張が込み上がってきた。これまでアルバイトの面接程度はしてきたが、仕事の面接は画廊以外では初めてだ。

「やあやあ、宮古さんいらっしゃい。品川です」

 しばらく待つとひょろりと細い背丈のある男性がやってくる。電話口でしか話していなかったが、想像通り人が好さそうだ。その顔を見るとわずかばかり緊張が和らぐ。
 ようやく大きく息がつけて出された茶で喉を潤すことができた。するとそれを見計らっていた品川がやんわりと微笑んだ。

「顔写真も見ましたがやはり随分と美丈夫ですな。凜々しくて、身体もしっかりしておられるし、なにかやられてましたか?」

「え? ああ、以前は剣道を」

「ほほう、なかなか硬派ですな。うちにもあれば良かったんですが」

 はっはっはっ、と軽快な笑い声を上げる彼はこの場の空気を和まそうとしてくれているのだろう。思っている以上に力が入っていたことに気づき、少しばかり暁治は肩の力を抜く。

「基本は授業のある前に出勤していただいて、その後なにもなければ退勤していただいて構いません」

「部活動は?」

「ああ、そうですね。放課後まで時間もありますしね。準備や片付けなどの諸作業もあると思いますが、うーん、授業自体は午後が多いですし、お給料も出しますので事務仕事を手伝っていきますか? 難しいことはなにもありません。パソコンは使えますか?」

「はい、大丈夫です」

 一学年三クラスで学校全体では九クラス。授業は基本一日二限で、放課後まで予定がなければ雑務を手伝うことになった。書類を印刷して郵便に出したり、判子押しをしたり簡単な仕事だ。

 授業は新学期の始まる四月からと言うことになった。絵画教室のアルバイトでアシスタントの経験はあるが、自分が一から教えるのは暁治にとって初めてのことだ。
 少しばかりの不安を覚えたが、なんでも最初は初めてだと思い直す。それよりも新しいことを始める、それに気持ちがわくわくとする。こんな気持ちは随分と久しぶりだと嬉しくなった。

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