「桜の木の下には死体が埋まってるそうですよ」
新学期といえば、すべてが新しく輝く季節だろう。弾んだ声をあちこちで聞きながら、暁治は迎え入れられるように新しい職場の門をくぐった。
まだ少し早い時間、校舎の奥にちらちらと視界を横切る桃色に誘われるように、歩みを進めた先にあったもの。
目の前にあったのは、伸びやかに枝を伸ばした大樹。樹齢千年は超えていそうだ。
春の息吹を一身に浴びるように伸びていた、見事な枝垂れ桜を見上げていた暁治は、かたわらでかけられた声に、びくりと肩を震わせた。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
人の気配は感じなかった。それくらい桜に見入っていたのだろうか。訝しく思ったものの、暁治は注意深く顔を隣へ向ける。
顎の辺りで切り揃えられた、さらさらとした真っ直ぐな黒髪が風に揺れた。整った容姿は性別を感じさせないものではあったが、同じくらいの目線と肩幅に、同性だとわかる。
早朝のまだ誰もいない校庭。だが彼が着ていたブレザーは、先ほど校門をくぐるまでにちらほら見かけたものだし、朝早いとはいえ部活だと思えば、生徒がここにいても不思議ではない。
もっとも今日は始業式ではあるのだが。
暁治は肩の力を抜くと、澄んだ緑の息吹をひとつ、吸い込んだ。
「そりゃ、いきなりそばで、物騒なこと言われりゃ、な」
「あはは、すみません。あまり真剣に見入っておられるので、つい」
意地の悪いことを言いたくなりました。
そう、言外に付け加えたように聞こえた。
口元に手を当てて笑う彼は、側からは悪意を感じさせない。口にした台詞とは裏腹に、そよぐ風のように清廉に見える。
もしかして、なかなかいい性格をしているのかもしれない。
「石蕗、と言います」
胸元に手を当てて告げられて一瞬話の続きかと思い、その後彼が名乗ったのだと気づいた。
「宮古だ」
飛び石のように連なるやりとりに脈絡はないが、名乗られたのだからと自分も律儀に返す。
「新しい先生ですか」
尋ねられた言葉に頷く。
「部活か」
「はい。来年卒業ですし、桜の時期は短いですから」
石蕗は手にしたスマホを掲げると、「いいですか?」と断りを入れて、桜に向けシャッターを切った。
さらに何枚か撮ると、近くへ寄って、小さな桜の花にレンズを近づける。
「写真部か」
「いえ、美術部です」
資料として使うらしい。
「写真模写は邪道と言われますけど」
ほらと、近づいて見せられたいくつかの写真は、桜や梅、さまざまな自然の風景が収まっている。
「移りゆく美しい自然の一端をこうして閉じ込めて、いつでもお手本にすることができるのは、素敵じゃないですか?」
「確かに二次元のものを模写すると印影が上手く描けないとか、立体的な形は目で見ないととか言われるけどな」
暁治のいた学校の先輩がよく言っていた。
「写真を撮影した人の感性も絵として写し取れるなら、実物を描き写すのとはまた違った模写ができるんじゃないか、なんて思ったことがある」
絵画が人を感動させるように、一枚の写真に心を動かされることだってあるのだ。
絵が作者の想いがこもるように、写真にだって撮影者の心があるはず。手法のひとつだと思えば、悪くないと思う。
「そうですね」
石蕗は手に持ったスマホを見下ろした。なにか考えこむように少しずつ、言葉をこぼす。
「私は写真に関しては素人ですが、いつも撮影するときは今見ているこの素敵な光景を形に残したい、誰かと分かち合えたらと思ってシャッターを切っている気がします」
それが人であれ、ものであれ。
そう言って石蕗は、先ほど撮影した桜の木の写真をこちらへと向ける。
暁治の正面にあるのと同じ、桜の色に染まった、美しい景色がそこにあった。
「私の想いが顕れているといいのですが」
「綺麗に撮れてると思うぞ。木の下に死体があるかはわからんが」
「あはは、それはそれで面白いと思いますが」
「いや、それは勘弁してくれ」
殺人事件か死体遺棄事件になってしまう。
平和な朝が台無しだ。
「そうですか」
なぜか残念そうな表情を浮かべる石蕗。こいつ美術部ではなくミステリー研究会とかの方が向いているんじゃないだろうかと、暁治は思った。
彼はしばらく自分で撮した写真を見ていたのだが、やがて「あ!」と声を上げて小さく笑う。
「殺人事件ではないのですが、別の事件はありました」
笑いながら暁治の目の前にスマホが差し出される。
枝を垂らした桜の木。その少し上の辺り。指で拡大した場所に小さな黒い点が見えた。
「つばめか」
「はい、もうそんな季節なのですね」
石蕗は笑みを浮かべたまま、スマホの画面を覗く。空を横切るつばめと桜。たった一瞬の邂逅だ。こうして目の前の瞬間を切り抜いて残すのが写真なら。
「絵は一瞬じゃなくて、制作にかけられた時間だけ想いを込められるでしょうか。なら――」
言いかけた言葉は、頭上から聞こえる鳴き声に途切れた。
「……そういえば、つばめの鳴き声って、『土食って虫食って口しぶーい』って言うそうですよ」
「そう聞こえたか?」
確かに渋そうな声ではあったが。なんだそれはと呆れた声を上げると、石蕗はこてりと首を傾げた。
「さぁ。よく、わかりませんでした」
「お前いい性格してるよな」
「いえいえ、先生の買いかぶり過ぎかと」
「……」
ひゅるりと、足元の花びらが風に舞う。
「あ、しまった。始業式!」
突然我に返った暁治は、慌てて体育館の方へと駆け出した。
後に残るは学生服に身を包んだ、美麗な青年が一人。
「やれやれ、慌ただしいな」
彼は目を細めると、隣に立つ桜を見上げる。
「あの人の孫だそうです。こうして挨拶をしにくるのなら、礼儀はちゃんとされてるのかな。うん、無意識でも」
独り言のように呟くと、手にしたスマホの画面をスワイプさせた。
「ここもずいぶんと寂しくなりましたけど、これでまた天狗の坊も元気になるといいですね」
カメラモードにして構えると、遠ざかる人影に向けてシャッターを切る。
桜の花びらが舞う朝の一瞬を閉じ込めた写真。彼は画面を覗くと、春の陽射しのように柔らかな笑みを浮かべた。
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