ただいまぁという小さな声と、物音がしたのでアトリエから玄関を覗き込むと、玄関マットの上で朱嶺が麦わら帽子を脱いでた。とっくに察していたことではあるが、彼にとってこの家はすでに自宅と同じ扱いらしい。なんとなく嫌な予感がして視線をそらそうとした暁治は、ちょうど目を上げた彼と視線がぶつかった。
「あ、はる。ちょうどよかった!」
「あ、すまん。俺今ちょうど用事ができ――」
踵を返そうとしたら、がしりと腕をつかまれた。その間ゼロコンマ二秒。俊足だ。
「はるの分もちゃんと虫取り網持って来たからね。虫除け対策もばっちりだよ」
「お前、人の話聞いてる?」
「聞いてるよ! 今日もいい天気でよかったよね」
薄々そうじゃないかと思っていたが、聞いていないことが判明した。なんてことだ。
部活が終わって、今日はいつもより遅い時間に帰ってきたのだ。正直疲れていて飯を作るのも億劫だというのに、なんでこいつは元気なのか。
これが若さというものかと、思わず相手の頬をつねりたくなる暁治だ。そして躊躇わず実行した。
「……で、桃が蛍を見たがってるから、捕まえに行こうってことか」
「そゆこと。もう、はるったら、僕のもちもちほっぺは人類の宝なんだからね」
ぶつぶつと文句を言う朱嶺をスルーして少し早めの夕ご飯の後、水筒にお茶を詰めて出かける準備をする。結局押し切られてしまったのだが、暁治も蛍見物は初めてだ。
「桃も連れて行けばいいんじゃないか」
そう思ったものの、夜半に小さな女の子を連れ歩くのも危ないかと思い直す。
「ちゃんとお弁当も持って来たから、着いたら食べようね」
「さっき食べた夕飯はカウントしないのか?」
「菊花堂の今月旬のおいなりさんだよ! デザートに決まってるでしょ? あ、崎山の婆んちの饅頭もあるよ」
決まってるのか、とか。里美さんと呼ばなくていいのか、とか。心の中で突っ込んでいると、朱嶺は肩にかけていたショルダーバッグを開いた。ごちゃごちゃした中には小さな包みが二つ。
「スケッチブックも入れたからね」
得意げにそんなことを言う。
「ほら、こないだの釣りのとき、持ってこなかったの残念がってたでしょ?」
ちゃんと覚えていたらしい。キラキラと輝く顔には、大きく『褒めて!』と書いてある。ぐりぐりと彼の頭をなでると、朱嶺はむふぅっと、満足そうな息を吐いた。犬のようだなと、なんとなく思う。どちらかというと小型犬だろうか。
「ありがとう、気が利くな。でも今回は置いていこう」
「えぇ、なんで?」
「もうじき暗くなるだろ」
「あ、そっか……」
どこまで行くのか知らないが、今はまだ明るい外も、蛍を見るころには真っ暗だろう。
「懐中電灯はあるけど」
「闇夜のカラスならぬ、闇夜の蛍だな」
描くのは楽そうだが。
「じゃぁ、次昼に出かけるときには頼むよ」
彼なりに気を使ってくれたらしい。しおしおに萎びた頭をなでてやると、ふにゃりと嬉しそうに頬が緩んだ。機嫌が直ったらしい。ぱたりばたりと振られる尻尾が見える気がする。
「はる、早く行こう」
暁治に向け、手が差し出された。
結構長い指だなと、そんな感想を抱きつつ、しばらく伸ばされた手を見ていた暁治は、ゆっくりと視線をあげた。
「デートのときは手を繋ぐんだって、ゆーゆが言ってた!」
とても眩しい笑顔だ。一点の曇りもない。
「……どこから突っ込んでいいか分からんのだが、あいつとは一度話をしなきゃいけないようだな」
暁治はこめかみを押さえると、大きく息を吐き出した。
「とりあえず、男と手を繋ぐ趣味はない。行くぞ」
「え~?」
不満げに唇を尖らせるお子さまの横をすり抜けると、沈みかけた夕陽に向かって歩き出す。
「あ、はる。待って!」
後ろから近づいてくる足音を聞きながら、どっちへ行くんだ? と尋ねる。
神社の裏手にあるため池に、この時期蛍が飛ぶらしい。そんなに遠くでないと知り、胸をなで下ろす。さすがにか細い街灯の下の砂利道や、それこそ明かりもない道をどこまでも歩かされるのは勘弁して欲しい。
「休み前とかだと、街の方から車で見物に来る人もいるんだけど、今日は平日だしね」
近隣の密かな人気スポットのようだ。そういえば先週の金曜日、仕事帰りに浴衣を着た一行を見た気がする。
さくさくと、足の下で砂が鳴る。すでに太陽は山の向こう。今日の主役は月のようで、あまり星は見えない。雲もいない空にぽっかりと、上弦の月が輝いている。
「そうそう、それで大ボスのブチメガネが――あ、はる。あそこだよ!」
隣で近所の野良猫の話をする朱嶺に、適当に相槌を打っていると、月明かりに照らされた薄闇の中に、広いため池が見えた。しばらく近くでたたずんでいると、ほわりと小さな光が浮かぶ。気がつけば、ひとつ、ふたつと増えてゆき、静かな水音と草の音をバックに、たくさんの蛍がふわふわと宙を舞っていた。
小さな豆粒ほどのほのかな明かりは、まるで風に遊ばれる綿毛のようだ。
「綺麗だねぇ」
「そうだな」
スケッチブックがあればと、思ってしまうのは職業病だろうか。自分で断ったし、この薄闇の中でスケッチは無理だとわかってるのだが。
「夏は夜、月のころはさらなり」
自然、声が零れる。
「やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる」
続く声に隣を見ると、赤朽葉色の髪をした少年が、こちらへと視線を向けた。高く低く伸びる声は、まるで歌を歌っているようだ。朱嶺は目を細めると、再び口を開く。
「また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」
「よく覚えてるな」
「正治さんがさ、好きだったからねぇ」
暁治の祖父、正治は古典文学を教えていた教師だった。
教壇に立つだけではなく、日本文学にも造詣が深く、民俗学や漢詩など、まだ小さな暁治にそらんじてみせたものだ。
「ねぇ、はる」
「なんだ?」
「もしさ」
静かな夜だ。聞こえるのは小さな風と水の音。そして隣に立つ少年の声。じっとこちらを見つめる視線は、どこか熱を帯びたようで。
小さく言葉を切った朱嶺は、吐息をひとつ、ついた。
「もしさ、僕がもう三百年くらい生きてるんだよ~って、言ったら、信じる?」
「ないな」
「えぇ~っ、即答!?」
ぴしゃりと暁治が言い放つと、朱嶺は反射的に声をあげた。
「むしろ後ろ二桁消すなら納得しよう」
「ちょっと待って、それじゃ僕三歳になっちゃう!!」
「ぴったりだな」
「やだ、はるってばひどいっ!!」
ひどいひどいと連呼しつつ、ぽかぽかと暁治をぶつ拳は、力が入っていないのかまったく痛くはない。子犬がじゃれているようだ。
「だってなぁ」
暁治は眉を寄せると顎に手を上げる。なにやら考えこむような神妙な仕草だ。
「例えばだ。お前の年が三百歳としてだ。だからなんかあるのか?」
「うーんうーん、そういえば特にないかな」
「だろ?」
「確かに!」
そっかぁ。こくこくと、頷く朱嶺。とても単純である。
「あ、待ってはる! 三百歳は未成年じゃないよ?」
「まぁ、そうだな」
「じゃ、はるの家のお酒飲んでいいよね? ほら、一昨日買ってきたやつとか」
「ダメだ」
「なんで?」
「高校生は飲酒禁止だ」
「えぇっ!? はる、それなんかおかしくない?」
「おかしくない」
一昨日買ってきたのは、晩酌用の酒である。最近仕事も絵も頑張っている自分へのご褒美に買ってきた、ちょっといいお酒なのである。未成年だろうが三百歳であろうが、他人に飲ませてたまるか。
「もう、はるの意地悪っ!!」
大真面目に否定する暁治に、ぷっくりとふくれる朱嶺。しばらく見つめ合った彼らは、やがてどちらからともなく吹き出して、笑った。
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