その日は朱嶺が珍しく殊勝に『お願い』をしてきた。滅多にないことがあると雪が降るとか槍が降るとか。そんなことを考えたが、持ちかけられた話は暁治にとっても悪いものではなかった。
それは夏の風物詩――花火大会への誘いだ。たまには息抜きも必要だよ、などと言っていたが、うずうずとした様子は隠せていなかった。しかし花火大会の桟敷席なんてなかなか機会がない。
目的地は車で片道一時間半ほどのところにある街で、最近ようやく車に慣れてきた暁治でもなんとかこなせる距離だ。しかし石蕗なども誘っていこうと言ったら、席は二人分しかないとやけに強調された。
それでもせっかくだからと声をかけると、これまた珍しく予定があると丁重にお断りされる。キイチは? と思えば朝から姿がなく、ならば仕方がないと二人で出掛けることとなった。
花火は夕刻から始まる。席はあるので急ぐ必要もないが、少しドライブしていこうとリクエストされた。観光向け雑誌を持ち出して、今日の朱嶺はやけに計画的だ。
「はる! ソフトクリーム食べよう」
「お前さっきたこ焼きを食べたばかりだろう」
「ミックスね」
昼過ぎに出発してあちこち寄り道をして、あれこれと買い食いをする。いつもの暁治であればそんな散財はしないけれど、朱嶺のポケットマネーとあらば文句はない。
珍しく、というよりも初めて財布を取り出した時には、驚きのあまり二度見した。もしや葉っぱか? と疑り深い暁治に本物だよと笑って、朱嶺は財布を預けてくる。
「今日はどういう風の吹き回しなんだ?」
「え? なにが?」
「やけに綿密なスケジュールだけど」
「それはゆーゆが」
「石蕗がどうした?」
「あ、なんでもない。次はねぇ……」
ぱっと遠くを見る反応に、暁治はそのまま方向転換して歩き出そうとする朱嶺の腕を掴まえる。なおも突き進もうとする身体を引き止めるように力を込めたら、大きなため息を吐き出された。
「はあ、僕が華麗なえすこーとをする予定だったのに」
「なんでお前にエスコートされなくちゃいけないんだ、まったく」
「えー、なんでってでぇとだよ。ビシッと決めたら格好いいって」
「石蕗に良からぬことを吹き込まれたんだな」
今度は暁治が大きなため息を吐き出す。なぜかことあるごとに石蕗は二人をくっつけようとする。焚きつけられている朱嶺はやる気を見せるが、本当にその気持ちがあるのかと不思議に思う。
正治に片想いしていたのであれば、恋や愛を知らないわけではないのだろう。ただその感情を暁治に対して持ち合わせているのか疑わしい。犬猫が好き、好物が好き――くらいの感情しかないように思えた。
「そもそも好きになるシチュエーションがないよな」
「え?」
「んー、まあ、見た目はいいんだけど、……中身がなぁ」
背丈は平均くらい。すらりと手足が長いのでそれよりも少し高く見える。明るい髪色に日本人離れした端整な顔立ち。深い紺藍色の着物をたるみなく着こなすぴんと伸びた背筋。黙っていれば人の目を惹く容姿だ。
現に通りすがる人は吸い寄せられるように朱嶺を振り返る。しかし残念ながら中身は三歳児だ。
「はるぅ? なんか失礼なこと考えてない?」
「いや、別に。……ときめく要素がないなと思っただけだ」
「それ、それ失礼でしょ。これでも僕、モテるんだからねっ」
「顔だけはいいしな」
「顔、だけ? 顔もでしょ! はるは顔がいいけどモテないでしょ。でりかしーがないよね」
「お前の口からデリカシーとかって」
「いま笑ったでしょ! そういうとこ!」
ぷぅっと頬を膨らませながらタピオカを吸う男子は、愛嬌があるけれどやはり子供のようだ。――ちなみにソフトクリームは秒でなくなった。
年を重ねているはずなのに、昔より子供っぽいのはなぜなのか。大人になったから彼が子供のように見えるのだろうか。頬を膨らませている横顔をじっと見つめると、瞬いた瞳が暁治を見つめ返す。
「飲みたかった? もうないよ?」
「いいよ。そろそろ移動しないと着くのが遅くなるぞ」
「花火楽しみだねぇ。大きい花火を見るのは久しぶり」
「俺も花火は久しぶりだ。……あれ? いまぽつんと来た」
「えっ? 雨? あ、これザッと来るよ」
ポツンポツンと落ちたのはほんの数秒で、駆け出したと同時にあとを追うように雨が降り出した。大急ぎで車に逃げ込めば、フロントガラスに雨粒が強く打ち付けられる。
予想外の雨に思わず二人で空を見上げてしまった。
「夕立か?」
「今日は一日晴れ間が続きますって言ってたんだけどな」
「止むのか、これ。花火駄目じゃないか?」
「えーっ! このまま帰るの?」
「だって、すごいぞ」
少し前まで晴れていた空は暗く雨はザーザー降り。降り止んでも花火が上がるのかと疑問が浮かぶ。けれど渋る暁治に隣の朱嶺はむぅっと口を尖らせる。
「とりあえず行くだけ行ってみるか。時間は、まあ間に合うだろう」
運転に慣れない暁治は見通しの悪い中で快調には走れない。三十分くらいは余分に見積もるくらいが丁度いい。恨めしそうに空を見上げる横顔に息をついてエンジンをかけた。
「雨の進行方向に向かってるって感じだな」
雲の切れ間で時折上がるものの、雨はなかなか止む気配を見せない。それに加え夕方になって道が混雑してくる。のろのろと進む車に隣からはそわそわとした気配を感じた。
このままでいくと現地に到着するのは開始時刻を大きく上回る。しばらく考え込んだ暁治は後部座席の荷物に手を伸ばした。
「はる?」
「このまま行くと間に合わないから。……んー、こっちの道は、混んでないか」
カーナビの渋滞情報を確認して進行方向を切り替えた。会場とは逆方向に走り出した車に朱嶺は怪訝そうな顔をするが、暁治はそのまま車を走らせる。
少しばかりスピードを上げて、目的の場所に着いたのは開始時刻から五分ほど遅れた頃だった。それでも高台の駐車場に車を止めた時には雨は止んでいた。窺うような視線に手招くと、ブツブツ言いながら朱嶺が車から降りてくる。
「やっぱり中止かな」
「はる、ここどこ?」
「ほら、そこ、打ち上げ場所。見下ろす形になるけど、上がればここから見えるから」
「え?」
「お前が持ってきた雑誌にさ、穴場だって書いてあったんだよ」
「は、……るっ」
目を瞬かせた朱嶺が声を発しかけた瞬間、ドーンと大きな音が響いた。ひゅーっと空を切る音が続くと、またどんどんと音が響く。振り向けば眼下で鮮やかな花火が打ち上がっている。
次々に上がる花火に景色が明るい色彩に染め上げられていく。
「上がった!」
「間に合ったみたいだな」
「はるっ」
「ん?」
「男前すぎて惚れ惚れしちゃった」
「当然」
「うわっ、すごいどや顔」
胸を反らして言い切れば、朱嶺はぷっと吹き出すように笑う。さらにはどこかのツボにはまったのか腹を抱えて笑い出して、暁治もつられるように笑ってしまった。
「上から見る花火もなかなかだね」
「十分だろう」
「はる、ありがとね」
「うん、お前はふて腐れてるより、笑ってるほうがいいよ」
「さては惚れ直したか!」
「……馬鹿だな」
「素直じゃないなぁ」
黙って立っていれば見た目はいいけれど、気の抜けた笑みを見ているほうが気分がいい。華やかな彩りの中でも褪せることがないその表情を、いますぐに写し取れないことがもどかしかった。
ポケットから抜いた携帯電話を構えて、目を細める。打ち上げられた花火でかき消えた音に、暁治は口の端を持ち上げた。
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